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花の百名山58

时间: 2020-06-26    进入日语论坛
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五色ヶ原  クロユリ(ユリ科)<br indent=0 headspace=auto>
 
 立山から上高地へゆく計画がきまったとき、五万分の一の地図をひろげて、先ずさがしたのがザラ峠という文字であった。
天正の昔、越中富山の猛将|佐々成政《さつさなりまさ》が、雪のザラ峠を越えて針ノ木峠に抜け、浜松の徳川家康にあいにいったという話は、娘の頃から本で知っていた。
佐々家はもと上総の国佐々の出身、尾張の春日井に移り住んで織田氏の家中となった。成政はその武芸の腕と豪胆な気性で、よく信長に用いられていたが、信長が光秀に殺されたあと、豊臣秀吉が光秀を討って天下びとになろうとしているのが口惜しく、信長の遺児|信雄《のぶかつ》を奉じて、家康と組んで、織田家の跡目をたてようとした。
日一日と秀吉の勢いのさかんなのを見ては、いても立ってもいられぬ思いで、富山の東をさえぎる三千メートルの岩峰の連なりにわけ入り、信濃から|遠江《とおとうみ》に出ようとしたその意気は壮と言うべきか、すさまじいと言うべきか。とにかく『太閤記』に「雪中さらさら越えの事」と伝えて、天正十二年十一月二十三日、百人の部下と、百人の|芦峅寺《あしくらじ》衆を引きつれて、千寿ヶ原から弥陀ヶ原に至り、室堂に泊って、一ノ越を越え、浄土・竜王・鬼・獅子の峰々を過ぎてザラ峠を下ったとしている。
私の山旅はまさに、その道を、そのまま辿るものであった。六月はじめの一週間を予定して、東京を夜行でたって、その日は地獄谷で一泊、あくる日、五色ヶ原で一泊するために、ザラ峠の急坂を下り、私は、関節の痛む足を引きずりながら、成政の悲壮な心境を思いやっていた。山馴れぬ一行の中には、倒れて疲労凍死し、転落して黒部の谷に埋もれたものもずい分あったことだろう。しかも多くの犠牲者を出して辿りついた浜松で、家康は成政の申入れを受けなかった。途中まで乗馬五十匹、伝馬百匹は出してくれたけれど。
失意の成政はその翌年、秀吉の大軍を越中に迎えて敗退する。
それから三年後の天正十六年、成政はせっかく与えられた肥後の領土の支配が不手際であったと秀吉に責められ、尼崎で切腹させられた。五十一歳であった。成政のことを武に強いばかりで、時勢の読みにうといと非難するものがある。結果の失敗を見て、その意図を否定するのだが、だれがおのれのすることなすことのすべてに、予定通り実現という結果を得られるだろう。
成政に死を強いた豊臣秀吉も二代とはつづかずに、運命の非情の波にさらわれるのである。平均寿命が五十歳とまではいかなかった昔、四十七歳の成政が、針ノ木越えをしたのは、生涯を賭けての勇猛心によるものであったろう。
朝夕に眼の前にそそりたつ立山連峰を望んで、最高に自分の人生への積極的姿勢を樹立させていった男。私は敗将佐々成政のような生き方が好きである。徳川家康や前田利家となって、三百年の子孫の繁栄を残したとて、悠久な地球の歴史から見れば一瞬のたわいなさだ。わが一代を惜しみなく使い切って果てれば、それが人間の本望ではないだろうか。
ザラ峠を下って、五色ヶ原へと登るうちに日が暮れ、雨さえ加わった道はまだ雪を残して、手が凍えるように冷たかったが、夕闇のほの明りの中に、薄紅の蕾を持ったミネザクラが浮んでいて、この北アルプス最奥の地にも、ようやく春が来たことを告げているようであった。
あくる日も雨で行動中止。霧の中を鷲岳、鳶岳の麓にひろがる南傾斜の原を一人で歩いた。ザラ峠と五色ヶ原の境の急坂は、火山活動によるもので、かつてのカルデラ地形の名残りだという。五色ヶ原はその熔岩台地である。一面の雪の下にはイワイチョウ、ハクサンイチゲ、チングルマなどがおそい春を待っていよう。小屋の近くに雪どけの一ところがあって、五センチほどにのびたクロユリが三本かたまっていた。
立山に来て成政のことをしのんでいる私に、いち早く成政にゆかりのあるクロユリが顔を出してくれたのだろうか。いや、これこそほんの偶然というものであろう。クロユリは、成政に殺された侍女の呪いに、佐々家の滅亡を願って咲くと言われているけれど、それに似た花の伝説はいくらでもある。私はむしろ、成政の死をいたんで血のいろに咲くと思いたい。高山に咲く花にひとを呪うなどといういまわしい心をあてるのはふさわしくない。
夕方雨が止んで、原のまっ正面に、夕映えに赤く染まった後立山連峰が浮び上り、鹿島槍の右には針ノ木岳も眺められた。成政の雪中行軍は毎日吹雪いていたのだろうか。ときに晴れて真冬の青ぞらの下に、かがやく銀嶺の連なりを近々と仰げる日もあったのではないだろうか。
そんな日が一日でもあったら、成政もその部下たちも、冬山の美しさに浸れて、きっと仕合わせであったろうと思いたかった。中にはもう人間同士の争闘がいやになって、山にこもって狩りびととして暮したいと願ったものもあったろうと思った。
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