|根子《ねこ》岳に登ったのはずっと前、戦後十年たった頃である。
小学校の教師を中心に学校演劇について研究する夏期講習の会が菅平の旅館で催され、夫と一緒によばれていった。
私の夫は学生の頃から演劇の世界に熱を入れ、文学座を経て俳優座で仕事をつづけている。結婚にさいして、私は家庭に入ってからも山に登りたいと言い、登山についての感想を求めたら、山らしいものは、母校である慶応義塾大学の三田の山、あとは博物館、図書館のある上野の山以外に登ったことはないと答えた。
私はまだ北アルプスの槍や燕にいっていないので、結婚してから登りたいと希望をのべたら、自分はいくつもりはないが、どうぞ自由にとのことで、私は将来、子供が生まれたとき、その子供の成長を待って一緒にゆこうと心に誓った。
四十代の後半で、その志を果し得たが、じつは私は、山は他人と登る方がよいと思っている。殊に、子供などをつれてゆくと、里での人情をそのまま持ち込み、お互いがお互いのからだを心配して、疲労を増すような気がする。
山はいつもこわい。山はいつも危険に満ち満ちていると思っていて、山にむかう自分の必死の思いの中に、少しでも余分なものをとかしこみたくないのである。
大ぜいの山仲間とは歩いているけれど、自分をまもるのは、自分一人だけ、だれも自分以外に自分を助けてくれるものはないという思いに徹している。結婚する前の娘時代、相手は山へゆくひとがよい。荷物をしょってもらえるからなどと、ほんの少しでも考えたことが恥ずかしくてたまらない。などとえらそうなことを思っているけれど、実際はずい分方々でひとに助けてもらった。根子岳でも連れがあって本当に助けられた。
所用が終って、あくる日は朝の八時の電車で上野へ帰る。しかし根子岳を眼の前にしてどうして登らずに帰れよう。
出発の日の明け方二時に宿を出て、山に登って来ようという計画を立て、会の主催者に希望を申出ると、一人の小学校の男の先生が一緒にいってあげる、二時はまだ暗いからとついて来て下さった。
何の準備もして来なかったので、宿の浴衣を着て、宿の女主人の半幅帯を借り、裾をからげて素足に|藁草履《わらぞうり》。宿を出発するのは七時だから、着がえの時間を入れて、六時半にはもどらなければならぬ。
菅平の宿は標高千五百メートルのところにあり、六百五十メートルの標高差の往復を四時間と見て、とにかくゆけるところまでゆくことにした。
懐中電灯をもってそっと宿を出る。みな寝しずまっている。
八月の真夏なのにやはり千五百メートルの地点は寒くて、歯がガチガチ鳴った。
四十代の私であったから、今よりずっと体力があったのであろう。とにかく走った。懐中電灯を振り振り登山口を目ざす。と言っても、先をゆく男のひとのあとを追って、広い高原をつっきってゆくのである。見上げると明け方は特に光を増すのか、空いっぱいの星があざやかで美しい。
山に取りついて林の中に入る。針葉樹林から潅木地帯へ、露岩が多くて、急傾斜なので、岩に取りつき取りつき登る。懐中電灯の光の中に、コケモモの花が入ってくる。イワカガミもある。ガンコウランもある。
四時五十分、たたみこまれた露岩の上の頂きに立つ。
空の星が消え、東の空の朝焼けの中に近々と、その一年前にいった|四阿《あずまや》山、その頂きのあなたに鹿沢の山々、浅間連峰が幾枚かの屏風をたて並べたように紺青の濃淡を重ねて連なりあっている。うれしくて涙が出たが、感謝している間もなく時が迫っていて、暗い中では無我夢中で登った露岩の急勾配の道を下った。
山の端をはなれた太陽が、すぐ眼の下に大地が真二つに引き裂かれたようにひろがる大明神沢の大きな谷をくろぐろと浮び上らしている。
下りも草原を横切って走った。放牧された牛が、あちらこちらに草を食べていて、その一匹が私が走ると走るのでこわくなって、悲鳴をあげて先をゆく連れの先生をよぶと、腰の手拭いにくくりつけていた夏みかんを遠くに投げた。牛がゆっくりとそちらに向かったのをチャンスと思って又走った。菅平のようにひとが多く来る土地の牛は、ひとから食べもの、ことに塩がもらいたいのですと先生は言われた。ゆくときは暗くてわからなかったが、草地の中にはウメバチソウが点々と白い花を咲かせていた。
走っているので、その白い花がどんどん足許に近づき、又去ってゆく。先生が牛が追うから歩きなさいと声をかけてくれるけれど、もしおくれたら無謀なことをしてと夫に叱られる。それがこわさに走った。ズボンに山靴の登山者がぼつぼつ上って来た。浴衣の裾をからげ、手拭いを姉さんかぶりにした女が走ってゆくのをどう見ることか。そんなこともかまわず、ただただ走った。
根子岳と四阿山は一つの火山であったのが、爆発して山頂部がなくなり、外輪山としての根子岳が残ったのだという。大明神沢を流れる水は神川となって千曲川にそそぐ。上田から長野に向かう車窓から、左に千曲川、右に根子岳あたりの山々を見る度、あのウメバチソウは今もあるかしらとなつかしい。
小学校の教師を中心に学校演劇について研究する夏期講習の会が菅平の旅館で催され、夫と一緒によばれていった。
私の夫は学生の頃から演劇の世界に熱を入れ、文学座を経て俳優座で仕事をつづけている。結婚にさいして、私は家庭に入ってからも山に登りたいと言い、登山についての感想を求めたら、山らしいものは、母校である慶応義塾大学の三田の山、あとは博物館、図書館のある上野の山以外に登ったことはないと答えた。
私はまだ北アルプスの槍や燕にいっていないので、結婚してから登りたいと希望をのべたら、自分はいくつもりはないが、どうぞ自由にとのことで、私は将来、子供が生まれたとき、その子供の成長を待って一緒にゆこうと心に誓った。
四十代の後半で、その志を果し得たが、じつは私は、山は他人と登る方がよいと思っている。殊に、子供などをつれてゆくと、里での人情をそのまま持ち込み、お互いがお互いのからだを心配して、疲労を増すような気がする。
山はいつもこわい。山はいつも危険に満ち満ちていると思っていて、山にむかう自分の必死の思いの中に、少しでも余分なものをとかしこみたくないのである。
大ぜいの山仲間とは歩いているけれど、自分をまもるのは、自分一人だけ、だれも自分以外に自分を助けてくれるものはないという思いに徹している。結婚する前の娘時代、相手は山へゆくひとがよい。荷物をしょってもらえるからなどと、ほんの少しでも考えたことが恥ずかしくてたまらない。などとえらそうなことを思っているけれど、実際はずい分方々でひとに助けてもらった。根子岳でも連れがあって本当に助けられた。
所用が終って、あくる日は朝の八時の電車で上野へ帰る。しかし根子岳を眼の前にしてどうして登らずに帰れよう。
出発の日の明け方二時に宿を出て、山に登って来ようという計画を立て、会の主催者に希望を申出ると、一人の小学校の男の先生が一緒にいってあげる、二時はまだ暗いからとついて来て下さった。
何の準備もして来なかったので、宿の浴衣を着て、宿の女主人の半幅帯を借り、裾をからげて素足に|藁草履《わらぞうり》。宿を出発するのは七時だから、着がえの時間を入れて、六時半にはもどらなければならぬ。
菅平の宿は標高千五百メートルのところにあり、六百五十メートルの標高差の往復を四時間と見て、とにかくゆけるところまでゆくことにした。
懐中電灯をもってそっと宿を出る。みな寝しずまっている。
八月の真夏なのにやはり千五百メートルの地点は寒くて、歯がガチガチ鳴った。
四十代の私であったから、今よりずっと体力があったのであろう。とにかく走った。懐中電灯を振り振り登山口を目ざす。と言っても、先をゆく男のひとのあとを追って、広い高原をつっきってゆくのである。見上げると明け方は特に光を増すのか、空いっぱいの星があざやかで美しい。
山に取りついて林の中に入る。針葉樹林から潅木地帯へ、露岩が多くて、急傾斜なので、岩に取りつき取りつき登る。懐中電灯の光の中に、コケモモの花が入ってくる。イワカガミもある。ガンコウランもある。
四時五十分、たたみこまれた露岩の上の頂きに立つ。
空の星が消え、東の空の朝焼けの中に近々と、その一年前にいった|四阿《あずまや》山、その頂きのあなたに鹿沢の山々、浅間連峰が幾枚かの屏風をたて並べたように紺青の濃淡を重ねて連なりあっている。うれしくて涙が出たが、感謝している間もなく時が迫っていて、暗い中では無我夢中で登った露岩の急勾配の道を下った。
山の端をはなれた太陽が、すぐ眼の下に大地が真二つに引き裂かれたようにひろがる大明神沢の大きな谷をくろぐろと浮び上らしている。
下りも草原を横切って走った。放牧された牛が、あちらこちらに草を食べていて、その一匹が私が走ると走るのでこわくなって、悲鳴をあげて先をゆく連れの先生をよぶと、腰の手拭いにくくりつけていた夏みかんを遠くに投げた。牛がゆっくりとそちらに向かったのをチャンスと思って又走った。菅平のようにひとが多く来る土地の牛は、ひとから食べもの、ことに塩がもらいたいのですと先生は言われた。ゆくときは暗くてわからなかったが、草地の中にはウメバチソウが点々と白い花を咲かせていた。
走っているので、その白い花がどんどん足許に近づき、又去ってゆく。先生が牛が追うから歩きなさいと声をかけてくれるけれど、もしおくれたら無謀なことをしてと夫に叱られる。それがこわさに走った。ズボンに山靴の登山者がぼつぼつ上って来た。浴衣の裾をからげ、手拭いを姉さんかぶりにした女が走ってゆくのをどう見ることか。そんなこともかまわず、ただただ走った。
根子岳と四阿山は一つの火山であったのが、爆発して山頂部がなくなり、外輪山としての根子岳が残ったのだという。大明神沢を流れる水は神川となって千曲川にそそぐ。上田から長野に向かう車窓から、左に千曲川、右に根子岳あたりの山々を見る度、あのウメバチソウは今もあるかしらとなつかしい。