『山と渓谷』編集部の節田重節さんに誘われて、苗場山から小松原湿原を歩いた。
苗場山は、天保年間に、越後湯沢のひと鈴木牧之翁によって書かれた『北越雪譜』に紹介されている。
娘の頃から私は、登りたくても登れない山は五万分の一の白地図を、等高線毎にうすい茶の色で塗り重ね、川を水いろであらわして、立体的に浮び上らせ、せめて川筋をたしかめ、谷あいや、頂上の眺めを地図の上で想像するという一人作業をよくやったものである。
苗場山も、『北越雪譜』の記事に惹かれて、九百メートル位から塗りつぶしていくと、千八百メートルから二千メートルの頂きが南に緩傾斜する広濶な湿原になり、その北側が急傾斜な山容でかこまれている地形とわかった。
その頃はもう夏の戦場ヶ原を湯元まで歩いていて、男体山や白根にかこまれ、一面の緑の湿原が、ギボウシやキスゲやアザミの類にいろどられていた華麗な姿を知っていたから、苗場山の湿原にはどんな花々が咲きみだれているかと思いしのんだ。
その日、『北越雪譜』と同じように湯沢から入って|祓川《はらいがわ》で車を捨て、いよいよ山路にかかる。
「|巉道《さんだう》を|踏嶮路《ふみけんろ》に登るに、|掬樹森列《ぶなのきしんれつ》して日を|遮《さへぎ》り、|山篠生《やまささお》ひ茂りて|径《みち》を|塞《ふさ》ぐ。」とあるような百五十年前の姿がしのべるブナの樹林帯がつづき、その下草は一面の笹藪である。
文化八年は将軍|家斉《いえなり》の頃で、町民の文化が栄え、ひとびとは太平を謳歌していたが、北に南にイギリスやロシアの船が日本の港をうかがって接触を求める動きがさかんであった。
富裕な質屋の主人であり、同時に俳諧や絵画をたしなむ文人であった翁は、滝沢馬琴や大田蜀山人や式亭三馬、山東京伝などとも交遊があって、絶えず江戸の空気に触れていた。鎖国の掟きびしい世ではあったが、時代を先取りする知識人として、日本におしよせる世界の潮の気配を鋭く感じ、うつぼつたる思いを苗場登山などに托したのではないだろうか。
ブナ帯とシラビソの林の境目のところに和田小屋がある。うしろを水量ゆたかな渓流が走り、ミゾホオズキの黄が満開であった。小屋の前の、自然木のテーブルで朝食。川の水を十分に飲む。道は勾配を増し、下の芝、中の芝と標識の立てられた湿原を越えると、前方に二〇二九メートルの神楽ヶ峰が濃緑のシラビソの林につつまれてあらわれた。
峰を左にまいて下りてゆくと雷清水と名づけられた水場があってここで昼食。『雪譜』ではここからまたのぼり、少し下ってお|花圃《はなばたけ》という所に達し、「山桜|盛《さかり》にひらき、百合、桔梗、石竹の花など」を見つけ、名を知らざる|異草《いそう》もあまたあったと書いている。
私はじつはこのお花畑にくるまでに、ゴゼンタチバナ、イワナシ、ツマトリソウなどの外、あまり珍らしい花もないようでやや失望していた。
それだけに遠くから見下して、白や黄や赤や紫のいろどりを、苗場山本峰の真下の崖に見出して、ようやく満ち足りた思いになっていた。
水場から走り下りるようにしてその花々の許に駆けつけ、ミヤマシシウド、クルマユリ、ミヤマアキノキリンソウ、キオン、マルバダケブキ、ミヤマシャジン、タカネナデシコ、タカネスミレ、イブキトラノオ、オオバギボウシ、ミヤマオダマキ、ウスユキソウ、ハクサンフウロと知っている限りの花の名を数えてうれしかった。カモメランの小さい花もあった。山桜らしいものは何も見えなかったが、百五十年の長い年月の間に、雪にでもやられてしまったのだろうか。
さて花に見とれてよろこんだのも束の間、道はここから急坂に次ぐ急坂で、『雪譜』でも「一歩に一声を|発《はつ》しつゝ気を張り|汗《あせ》をながし、千|辛《しん》万|苦《く》し」とそのけわしさをあらわしている。しかし『雪譜』の作者が、苗場山には頂上に人のつくったような田がある、それが見たいとあこがれあこがれ急坂を登りつくしたように、私は苗場の頂きの湿原にはどんな花がと胸がどきどきするような思いでさして疲れも覚えなかった。
午後三時近く、一歩足を踏み入れた頂きはまさに広濶な緑の芝生のような眺めで、眼路のはるか彼方が霧に|霞《かす》むまでにつづいていた。その果てには烏帽子岳、岩菅山、白砂山などの上越の山々から遠く信州の山々が見える。六・八平方キロに及ぶという広さの野には又、点々と鏡面のようにしずかな池塘があった。
『雪譜』の作者は多分大昔に、この頂きを耕作して|田圃《たんぼ》をつくったひとびとがあったのであろうと想像し、その亡びたあとをたずねた思いで感慨にふけっているが、私はここへくる前に『山と渓谷』一九七五年四月号の羽田健三氏の記事を読んで来た。苗場山の湿原はかつての火山活動の名残りであり、その熔岩流の上の凹地にたまった水が池塘である。養分がとぼしいのであろうか。花はタテヤマリンドウとワタスゲとイワイチョウぐらいしか目につかず、意外に少かった。
ところどころにウラジロヨウラクの群生があり、その茂みの中にツルコケモモの小さい薄紅があった。一口に湿原といっても、その成因によっては、あまり多彩な花は見られないことがわかった。それでも何十年も前に地図の上であこがれた山を、自分の足でたしかめ得たよろこびは大きく、口笛をふきながら、夕暮れの木道の上を西に東に歩きまわった。
この夜は満月で、『雪譜』の作者と同じ思いを味わうことができた。
「六日の月|皎々《かうかう》とてらして空もちかきやうにて、桂の枝もをるべきこゝちしつ」
そしてひとびとは詩をつくり歌をよんで、酒を飲みかわすのである。こちらはひたすらに眠るばかりであったけれど。そしてまた明けがた。すばらしい御来光を拝んだのも同じである。
苗場山は、天保年間に、越後湯沢のひと鈴木牧之翁によって書かれた『北越雪譜』に紹介されている。
娘の頃から私は、登りたくても登れない山は五万分の一の白地図を、等高線毎にうすい茶の色で塗り重ね、川を水いろであらわして、立体的に浮び上らせ、せめて川筋をたしかめ、谷あいや、頂上の眺めを地図の上で想像するという一人作業をよくやったものである。
苗場山も、『北越雪譜』の記事に惹かれて、九百メートル位から塗りつぶしていくと、千八百メートルから二千メートルの頂きが南に緩傾斜する広濶な湿原になり、その北側が急傾斜な山容でかこまれている地形とわかった。
その頃はもう夏の戦場ヶ原を湯元まで歩いていて、男体山や白根にかこまれ、一面の緑の湿原が、ギボウシやキスゲやアザミの類にいろどられていた華麗な姿を知っていたから、苗場山の湿原にはどんな花々が咲きみだれているかと思いしのんだ。
その日、『北越雪譜』と同じように湯沢から入って|祓川《はらいがわ》で車を捨て、いよいよ山路にかかる。
「|巉道《さんだう》を|踏嶮路《ふみけんろ》に登るに、|掬樹森列《ぶなのきしんれつ》して日を|遮《さへぎ》り、|山篠生《やまささお》ひ茂りて|径《みち》を|塞《ふさ》ぐ。」とあるような百五十年前の姿がしのべるブナの樹林帯がつづき、その下草は一面の笹藪である。
文化八年は将軍|家斉《いえなり》の頃で、町民の文化が栄え、ひとびとは太平を謳歌していたが、北に南にイギリスやロシアの船が日本の港をうかがって接触を求める動きがさかんであった。
富裕な質屋の主人であり、同時に俳諧や絵画をたしなむ文人であった翁は、滝沢馬琴や大田蜀山人や式亭三馬、山東京伝などとも交遊があって、絶えず江戸の空気に触れていた。鎖国の掟きびしい世ではあったが、時代を先取りする知識人として、日本におしよせる世界の潮の気配を鋭く感じ、うつぼつたる思いを苗場登山などに托したのではないだろうか。
ブナ帯とシラビソの林の境目のところに和田小屋がある。うしろを水量ゆたかな渓流が走り、ミゾホオズキの黄が満開であった。小屋の前の、自然木のテーブルで朝食。川の水を十分に飲む。道は勾配を増し、下の芝、中の芝と標識の立てられた湿原を越えると、前方に二〇二九メートルの神楽ヶ峰が濃緑のシラビソの林につつまれてあらわれた。
峰を左にまいて下りてゆくと雷清水と名づけられた水場があってここで昼食。『雪譜』ではここからまたのぼり、少し下ってお|花圃《はなばたけ》という所に達し、「山桜|盛《さかり》にひらき、百合、桔梗、石竹の花など」を見つけ、名を知らざる|異草《いそう》もあまたあったと書いている。
私はじつはこのお花畑にくるまでに、ゴゼンタチバナ、イワナシ、ツマトリソウなどの外、あまり珍らしい花もないようでやや失望していた。
それだけに遠くから見下して、白や黄や赤や紫のいろどりを、苗場山本峰の真下の崖に見出して、ようやく満ち足りた思いになっていた。
水場から走り下りるようにしてその花々の許に駆けつけ、ミヤマシシウド、クルマユリ、ミヤマアキノキリンソウ、キオン、マルバダケブキ、ミヤマシャジン、タカネナデシコ、タカネスミレ、イブキトラノオ、オオバギボウシ、ミヤマオダマキ、ウスユキソウ、ハクサンフウロと知っている限りの花の名を数えてうれしかった。カモメランの小さい花もあった。山桜らしいものは何も見えなかったが、百五十年の長い年月の間に、雪にでもやられてしまったのだろうか。
さて花に見とれてよろこんだのも束の間、道はここから急坂に次ぐ急坂で、『雪譜』でも「一歩に一声を|発《はつ》しつゝ気を張り|汗《あせ》をながし、千|辛《しん》万|苦《く》し」とそのけわしさをあらわしている。しかし『雪譜』の作者が、苗場山には頂上に人のつくったような田がある、それが見たいとあこがれあこがれ急坂を登りつくしたように、私は苗場の頂きの湿原にはどんな花がと胸がどきどきするような思いでさして疲れも覚えなかった。
午後三時近く、一歩足を踏み入れた頂きはまさに広濶な緑の芝生のような眺めで、眼路のはるか彼方が霧に|霞《かす》むまでにつづいていた。その果てには烏帽子岳、岩菅山、白砂山などの上越の山々から遠く信州の山々が見える。六・八平方キロに及ぶという広さの野には又、点々と鏡面のようにしずかな池塘があった。
『雪譜』の作者は多分大昔に、この頂きを耕作して|田圃《たんぼ》をつくったひとびとがあったのであろうと想像し、その亡びたあとをたずねた思いで感慨にふけっているが、私はここへくる前に『山と渓谷』一九七五年四月号の羽田健三氏の記事を読んで来た。苗場山の湿原はかつての火山活動の名残りであり、その熔岩流の上の凹地にたまった水が池塘である。養分がとぼしいのであろうか。花はタテヤマリンドウとワタスゲとイワイチョウぐらいしか目につかず、意外に少かった。
ところどころにウラジロヨウラクの群生があり、その茂みの中にツルコケモモの小さい薄紅があった。一口に湿原といっても、その成因によっては、あまり多彩な花は見られないことがわかった。それでも何十年も前に地図の上であこがれた山を、自分の足でたしかめ得たよろこびは大きく、口笛をふきながら、夕暮れの木道の上を西に東に歩きまわった。
この夜は満月で、『雪譜』の作者と同じ思いを味わうことができた。
「六日の月|皎々《かうかう》とてらして空もちかきやうにて、桂の枝もをるべきこゝちしつ」
そしてひとびとは詩をつくり歌をよんで、酒を飲みかわすのである。こちらはひたすらに眠るばかりであったけれど。そしてまた明けがた。すばらしい御来光を拝んだのも同じである。