浅間山を詠んだ歌はたくさんあるけれど、私は伊勢物語の中にあるのが一番好きである。都に住みにくくなった男が、東国をさして旅に出る。信濃路に入って、浅間の麓の野を横切ってゆく。
しなのなる浅間のたけに立煙
をちこち人のみやはとがめぬ
空に流れる浅間の煙は、遠くからでも見えるであろうとなつかしむ心は、この山の麓で親しんだ女との別れを惜しむ心でもあろうか。
伊勢物語の主人公の東下りは、伊勢から尾張、三河と来て、|八橋《やつはし》のカキツバタの群落を眺めているから、尾張と三河の間に、信濃の浅間が入ってくるのはおかしい。しかしそのあたりのところは「道しれる人もなくてまとひいきけり」とあって、信濃の次に三河の話がでてくるのは、道を知らないので、あっちこっちと迷っていったのだと話の辻褄を合せている。もともと在原業平の恋の物語を中心にしてまとめたのが伊勢物語である。東海道筋の話だけでなく、是非、中仙道のあの有名な浅間山も加えたかったのであろう。業平の頃といえば千年以上も前だけれど、当時は東山道とよばれた信濃路の浅間山麓に、別れを惜しむような女たちの群がる宿場などあったかどうか——。
とまれ、東海道筋の名山が富士山ならば、中仙道筋は浅間山。共に富士火山帯に属して成層火山型の活火山である。業平の頃は、度々爆発をくりかえしていた富士山が、一七〇七年、宝永四年の噴火以後、沈静しているのにくらべて、浅間の方は近世に入っての爆発が多く、一七八三年、天明三年の五月から八月の噴火では群馬県側で千人を越える死者が出た。一九〇〇年代に入っても、しばしば死者多数の噴火があり、戦後にも何回かの爆発で死者を出している。言うなれば浅間山は、人や車の多い主要幹線道路にもっとも近く、もっともおそろしい山である。
娘の頃から何度も登り、そのうちの一回は、登る前に北軽井沢の岸田国士邸を訪れていて、見事に眼の前で噴火したので中止になった。音が先であったか地鳴りが先であったか、その一瞬は、まさに大地が腹にためていた怒りを爆発させたという感じで、山そのものが生きていることをまざまざと見せつけられる思いであった。
浅間の西南の麓の追分に浅間神社がある。この御神体は大山津見神、石長姫となっている。
姫は大山津見神の娘で、ニニギノミコトが|笠沙御前《かささのみさき》で、その美しさに見とれたのは妹のコノハナサクヤであった。父のオオヤマツミに姫がほしいと申出ると、姉のイワナガを共にもらってくれと言う。イワナガは醜いのでそのまま返すと、父は残念がって言った。コノハナは美しいけれどもろい。イワナガは醜いけれど頑丈で長く|保《も》つのに。そして、イワナガは以来、嫉妬心の権化となって妹の仕合わせをそねむことになる。多くの爆発歴を持つ浅間山には、まことにふさわしい女神の設定である。浅間は千七百メートルの上は砂礫の山である。しかし何べん登っても、直径四百五十メートルの大火口の底に、大地のいのちが露出しているように見える真紅の熔岩のいろは魅惑的だ。
そしてその裾野の花のすばらしさ。娘の頃はいつも千ヶ滝から朝四時出発で歩いて登ったのである。万山望から小浅間までの道は、オミナエシやマツムシソウやオニユリやカワラナデシコが咲きみだれていた。北軽井沢へゆく草軽電鉄の車窓から、キキョウの大群落で、窓硝子がムラサキいろに染まるばかりなのを見たこともある。いまはもう、それらの花たちは、かつての場所のどこにもない。この二十数年来、夏の一ときを沓掛の林の中にすごしていて、わが家の庭にもノハナショウブやサワギキョウやルリトラノオやヤマオダマキやトリカブトやオミナエシがあったのだけれど、この年月に絶えてしまった。家族が引揚げたあとで、他人の庭の山草を盗んで歩くものがいるのだという。家がふえ、山も野もひとの心も荒れたようだけれど、つい最近、千ヶ滝の林の隅で、小さなムラサキの一本を見つけてうれしかった。
むらさきの一もとゆゑにむさし野の
草はみながらあわれとぞ見る
古代の夢を残すムラサキにあって、もう一度浅間の裾野を見なおす気持ちになったけれど、あのムラサキは最後の一本であったかもしれない。
しなのなる浅間のたけに立煙
をちこち人のみやはとがめぬ
空に流れる浅間の煙は、遠くからでも見えるであろうとなつかしむ心は、この山の麓で親しんだ女との別れを惜しむ心でもあろうか。
伊勢物語の主人公の東下りは、伊勢から尾張、三河と来て、|八橋《やつはし》のカキツバタの群落を眺めているから、尾張と三河の間に、信濃の浅間が入ってくるのはおかしい。しかしそのあたりのところは「道しれる人もなくてまとひいきけり」とあって、信濃の次に三河の話がでてくるのは、道を知らないので、あっちこっちと迷っていったのだと話の辻褄を合せている。もともと在原業平の恋の物語を中心にしてまとめたのが伊勢物語である。東海道筋の話だけでなく、是非、中仙道のあの有名な浅間山も加えたかったのであろう。業平の頃といえば千年以上も前だけれど、当時は東山道とよばれた信濃路の浅間山麓に、別れを惜しむような女たちの群がる宿場などあったかどうか——。
とまれ、東海道筋の名山が富士山ならば、中仙道筋は浅間山。共に富士火山帯に属して成層火山型の活火山である。業平の頃は、度々爆発をくりかえしていた富士山が、一七〇七年、宝永四年の噴火以後、沈静しているのにくらべて、浅間の方は近世に入っての爆発が多く、一七八三年、天明三年の五月から八月の噴火では群馬県側で千人を越える死者が出た。一九〇〇年代に入っても、しばしば死者多数の噴火があり、戦後にも何回かの爆発で死者を出している。言うなれば浅間山は、人や車の多い主要幹線道路にもっとも近く、もっともおそろしい山である。
娘の頃から何度も登り、そのうちの一回は、登る前に北軽井沢の岸田国士邸を訪れていて、見事に眼の前で噴火したので中止になった。音が先であったか地鳴りが先であったか、その一瞬は、まさに大地が腹にためていた怒りを爆発させたという感じで、山そのものが生きていることをまざまざと見せつけられる思いであった。
浅間の西南の麓の追分に浅間神社がある。この御神体は大山津見神、石長姫となっている。
姫は大山津見神の娘で、ニニギノミコトが|笠沙御前《かささのみさき》で、その美しさに見とれたのは妹のコノハナサクヤであった。父のオオヤマツミに姫がほしいと申出ると、姉のイワナガを共にもらってくれと言う。イワナガは醜いのでそのまま返すと、父は残念がって言った。コノハナは美しいけれどもろい。イワナガは醜いけれど頑丈で長く|保《も》つのに。そして、イワナガは以来、嫉妬心の権化となって妹の仕合わせをそねむことになる。多くの爆発歴を持つ浅間山には、まことにふさわしい女神の設定である。浅間は千七百メートルの上は砂礫の山である。しかし何べん登っても、直径四百五十メートルの大火口の底に、大地のいのちが露出しているように見える真紅の熔岩のいろは魅惑的だ。
そしてその裾野の花のすばらしさ。娘の頃はいつも千ヶ滝から朝四時出発で歩いて登ったのである。万山望から小浅間までの道は、オミナエシやマツムシソウやオニユリやカワラナデシコが咲きみだれていた。北軽井沢へゆく草軽電鉄の車窓から、キキョウの大群落で、窓硝子がムラサキいろに染まるばかりなのを見たこともある。いまはもう、それらの花たちは、かつての場所のどこにもない。この二十数年来、夏の一ときを沓掛の林の中にすごしていて、わが家の庭にもノハナショウブやサワギキョウやルリトラノオやヤマオダマキやトリカブトやオミナエシがあったのだけれど、この年月に絶えてしまった。家族が引揚げたあとで、他人の庭の山草を盗んで歩くものがいるのだという。家がふえ、山も野もひとの心も荒れたようだけれど、つい最近、千ヶ滝の林の隅で、小さなムラサキの一本を見つけてうれしかった。
むらさきの一もとゆゑにむさし野の
草はみながらあわれとぞ見る
古代の夢を残すムラサキにあって、もう一度浅間の裾野を見なおす気持ちになったけれど、あのムラサキは最後の一本であったかもしれない。