いつか娘たちと中仙道、甲州街道を車で走る旅をした。
東京からいって軽井沢で一泊。追分から斜め西に入って木曾川沿いを走ったが、大雨であった。木曾福島の手前から左に入って駒の湯鉱泉に泊ったとき、山あいに一軒だけのひなびた木造の湯の宿が、木曾駒ヶ岳の登山基地の一つなのだと知った。
木曾川と天竜川にはさまれて、三千メートル近い高さで、そびえ連なる山々には、少女の頃からのあこがれがあった。
アルプスの山に咲くというエーデルワイスによく似た花があるという。
アルプスは鋭い岩山の谷々に、雪がかがやきながら、山腹の草地には、いろとりどりの花が咲いている。遠く近くひびく羊飼いの笛の音。羊の首につけた鈴の音。空はあくまでも青く、神秘の深さにしずまりかえり、やがて夕映えにいろどられて、山々の雪が真紅に燃える。そんな美しい景色の中に身をおいて、アルプスの娘のハイジのように、靴も軽く跳んで走っていきたかった。
一人の国語の先生が、ヒメウスユキソウの押し花をくれた。
夏休み中に友だちと、幾日もかかって、ふるさとの山の木曾駒ヶ岳に登って採って来たのだという。特に私にくれると言ったのでなく、教室で見せてくれ、ほしいほしいと私がもらったのである。
先生はからだを悪くして天竜川沿いの村に帰り、間もなくなくなられて、若い奥さんは実家に帰られたという。少女小説そのままの筋書きだが、ヒメウスユキソウの押し花の灰いろの濃淡は、先生の不幸な一生の象徴のようにも思えた。
その花の生きてみずみずしい姿が見たいと思いながら、絵や写真以外に、その後久しく、エーデルワイスもヒメウスユキソウも見たことがなかった。
駒の湯から駒ヶ岳までは、歩いて六時間はかかるという。足のおそい私は、八時間はたっぷりかかるであろう。
ヒメウスユキソウは木曾駒にだけあると言われ、他の山にあるのは、ヒナウスユキソウやミネウスユキソウと言い、少しずつ花も葉の形もちがうのだと図鑑で教えられた。
それに似た花をはじめて見たのは、北海道の黒岳の下りである。エゾウスユキソウとよばれていて、写真や図鑑のヒメウスユキソウより葉も花も大きく、また堅い感じがした。
追分の|石尊山《せきそんざん》に登ったとき、ヒメウスユキソウに似てもっと背が高く、頂上にかたまった花をつけ、白い綿毛の多い葉にかこまれているけれど、どこかちがうウスユキソウを見つけた。星野温泉から小瀬にゆく道にもあった。いろも形も似ているけれど、ずっと大きくたくましい。
少女の頃に先生にもらったヒメウスユキソウはとうになくしてしまっている。いまは写真と図鑑での知識しかない。なのに、ヒメウスユキソウ、ヒメウスユキソウとよく口走るので、ヨーロッパに旅をしたひとが、スイスにいってみやげものやで押し花したのを買って来てくれた。自分もスイスにいったときに買った。実物を見ると、白い綿毛のついた葉や包状葉が、綿でつくった造花のようである。何故、この何の変哲もない花に惹かれるのだろうと考えこんでしまった。
平地で似た花にハハコグサがある。黄いろい卵の黄身をつぶして小さく丸めて並べたような花がびっしりとついている。子供の時のおままごとの貴重な材料である。卵焼きの代りにする。白い綿毛につつまれた葉はむしって御飯の代りにした。
幼い日のそのような思い出と、ハハコグサという母と子を結びつけた名が、何かこの花にあたたかい、情愛深いものの|聯想《れんそう》をよびおこさせるのであろうか。
エーデルワイスというのは、高貴な純白を意味するとは牧野富太郎さんの『植物記』に書かれたことである。
さて木曾駒の頂上に立つ機会を得たのは、わりに最近の十月のはじめである。
辰野まで用があったので、その帰りに登った。東京からいつもの山仲間が大ぜい来て、三十人の団体になった。駒ヶ根からシラビ平までバス。その上はロープウェイであっという間に|千畳敷《せんじようじき》のカールにつく。こんな安直なことでは、もしかして歩いて登ったのが病気のもとになったのかもしれない国語の先生に申しわけない気がしたが、その夜は満月であったので、どうしても早く頂上にゆきたかった。
しかし二九五六メートルの山はさすがに手強く、その日は氷河のあとの谷底を歩いて、千畳敷の山小舎に泊るのがやっとであった。昨日は初雪が降ったとかで、草たちはもう枯れ枯れて、ハクサンコザクラやハハコヨモギやミヤマダイコンソウやハクサンイチゲやシナノキンバイが、それでもわずかに花と葉のいろを残していた。
翌朝は日の出を見るために、ほの暗いうちから頂上にむかって氷河地形の急斜面を、這松の根につかまりつかまり急登した。岩のかげにタカネツメクサがまだ生き生きと白い花をつけ、コケモモの実が赤い。
そしてヒメウスユキソウの半ば霜がれて、黄ばんだ花と葉も岩の間に見つけた。その根もとに雪がうすく積もっていた。
東京からいって軽井沢で一泊。追分から斜め西に入って木曾川沿いを走ったが、大雨であった。木曾福島の手前から左に入って駒の湯鉱泉に泊ったとき、山あいに一軒だけのひなびた木造の湯の宿が、木曾駒ヶ岳の登山基地の一つなのだと知った。
木曾川と天竜川にはさまれて、三千メートル近い高さで、そびえ連なる山々には、少女の頃からのあこがれがあった。
アルプスの山に咲くというエーデルワイスによく似た花があるという。
アルプスは鋭い岩山の谷々に、雪がかがやきながら、山腹の草地には、いろとりどりの花が咲いている。遠く近くひびく羊飼いの笛の音。羊の首につけた鈴の音。空はあくまでも青く、神秘の深さにしずまりかえり、やがて夕映えにいろどられて、山々の雪が真紅に燃える。そんな美しい景色の中に身をおいて、アルプスの娘のハイジのように、靴も軽く跳んで走っていきたかった。
一人の国語の先生が、ヒメウスユキソウの押し花をくれた。
夏休み中に友だちと、幾日もかかって、ふるさとの山の木曾駒ヶ岳に登って採って来たのだという。特に私にくれると言ったのでなく、教室で見せてくれ、ほしいほしいと私がもらったのである。
先生はからだを悪くして天竜川沿いの村に帰り、間もなくなくなられて、若い奥さんは実家に帰られたという。少女小説そのままの筋書きだが、ヒメウスユキソウの押し花の灰いろの濃淡は、先生の不幸な一生の象徴のようにも思えた。
その花の生きてみずみずしい姿が見たいと思いながら、絵や写真以外に、その後久しく、エーデルワイスもヒメウスユキソウも見たことがなかった。
駒の湯から駒ヶ岳までは、歩いて六時間はかかるという。足のおそい私は、八時間はたっぷりかかるであろう。
ヒメウスユキソウは木曾駒にだけあると言われ、他の山にあるのは、ヒナウスユキソウやミネウスユキソウと言い、少しずつ花も葉の形もちがうのだと図鑑で教えられた。
それに似た花をはじめて見たのは、北海道の黒岳の下りである。エゾウスユキソウとよばれていて、写真や図鑑のヒメウスユキソウより葉も花も大きく、また堅い感じがした。
追分の|石尊山《せきそんざん》に登ったとき、ヒメウスユキソウに似てもっと背が高く、頂上にかたまった花をつけ、白い綿毛の多い葉にかこまれているけれど、どこかちがうウスユキソウを見つけた。星野温泉から小瀬にゆく道にもあった。いろも形も似ているけれど、ずっと大きくたくましい。
少女の頃に先生にもらったヒメウスユキソウはとうになくしてしまっている。いまは写真と図鑑での知識しかない。なのに、ヒメウスユキソウ、ヒメウスユキソウとよく口走るので、ヨーロッパに旅をしたひとが、スイスにいってみやげものやで押し花したのを買って来てくれた。自分もスイスにいったときに買った。実物を見ると、白い綿毛のついた葉や包状葉が、綿でつくった造花のようである。何故、この何の変哲もない花に惹かれるのだろうと考えこんでしまった。
平地で似た花にハハコグサがある。黄いろい卵の黄身をつぶして小さく丸めて並べたような花がびっしりとついている。子供の時のおままごとの貴重な材料である。卵焼きの代りにする。白い綿毛につつまれた葉はむしって御飯の代りにした。
幼い日のそのような思い出と、ハハコグサという母と子を結びつけた名が、何かこの花にあたたかい、情愛深いものの|聯想《れんそう》をよびおこさせるのであろうか。
エーデルワイスというのは、高貴な純白を意味するとは牧野富太郎さんの『植物記』に書かれたことである。
さて木曾駒の頂上に立つ機会を得たのは、わりに最近の十月のはじめである。
辰野まで用があったので、その帰りに登った。東京からいつもの山仲間が大ぜい来て、三十人の団体になった。駒ヶ根からシラビ平までバス。その上はロープウェイであっという間に|千畳敷《せんじようじき》のカールにつく。こんな安直なことでは、もしかして歩いて登ったのが病気のもとになったのかもしれない国語の先生に申しわけない気がしたが、その夜は満月であったので、どうしても早く頂上にゆきたかった。
しかし二九五六メートルの山はさすがに手強く、その日は氷河のあとの谷底を歩いて、千畳敷の山小舎に泊るのがやっとであった。昨日は初雪が降ったとかで、草たちはもう枯れ枯れて、ハクサンコザクラやハハコヨモギやミヤマダイコンソウやハクサンイチゲやシナノキンバイが、それでもわずかに花と葉のいろを残していた。
翌朝は日の出を見るために、ほの暗いうちから頂上にむかって氷河地形の急斜面を、這松の根につかまりつかまり急登した。岩のかげにタカネツメクサがまだ生き生きと白い花をつけ、コケモモの実が赤い。
そしてヒメウスユキソウの半ば霜がれて、黄ばんだ花と葉も岩の間に見つけた。その根もとに雪がうすく積もっていた。