私は中仙道が、江戸の日本橋を出て、西北に武蔵野を横切り、|碓氷《うすい》峠を登って、百三十五里二十三丁を京に向かう道のりの、日本橋から二里八丁の板橋宿で生まれ育った。
かつては|東仙道岐蘇路《とうせんどうきそじ》とよばれ、東海道が川の洪水で悩めば、中仙道には、谷深い木曾路をゆくおそろしさもあった。しかし、東海道に、富士を眺めるたのしみがあったように、中仙道には、|御嶽《おんたけ》の懐に抱かれるというよろこびがあった。
殊に山麓の福島は、江戸と京の、ちょうど、まんなかあたりにあったし、寝覚床や桟道など、珍らしい眺めにも恵まれて、山国は山国なりの興趣にそそられたことであろう。土産ものには、クマやシカやイノシシ、テンの皮などが売られたという。
御嶽は三〇六三メートル、富士山より七百十三メートル低く、加賀の白山よりは三百六十一メートル高い。立山、焼岳、乗鞍などと同じ火山系にぞくし、焼岳がいまなお活火山であるのにくらべて、成層火山型の休火山となっている。
中仙道がひらけたのは十三世紀にさかのぼるという。信濃から木曾谷に入って、|贄《にえ》川、平沢、奈良井と辿ってくるあたりから御嶽の雄大な山容が近づいてくるのを見た旅びとたちはいつか、その山にこめられた神霊を信じて、健脚なものは、進んで、頂上を極めようとしたことであろう。当然、案内者としての先達も生まれ、神霊を中心にした信仰も育っていったことであろう。
御嶽講は徳川の安定政権の許で発達し、先達につれられた登山者たちは、幕末から明治にかけては、年間三十万人にも及んだという。世情の不安に動揺する心を、神霊によって鎮めたかったのかもしれない。
木曾節とよばれる歌は、子供の頃からよく聞かされた。浅間の裾野の追分あたりの馬子唄もよく聞いたことがある。
宿場の町には、街道筋の歌々が旅びとによって伝えられていったのであろう。
馬子唄も木曾節も、まことに哀調切々として、荒涼たる火山灰地の野の姿や、山岳重畳たる木曾谷を、|毀《こぼ》ち削って走る激流に、|竿《さお》一つで生きる|業《わざ》のきびしさを、そのひびきに歌いこめていた。
いつか中仙道を辿って京までいきたいというのが、娘の頃からの願いとなっていた。
それは歩いてゆく旅であったのだが、実現したのは戦後で、それも板橋を基点として、自動車に頼ってしまった。
その前に名古屋から馬籠まで車でいって泊っていた。二度目の中仙道行は和田峠から鳥居峠にかけて暮れたので、駒の湯温泉に泊り、藪原、宮越から福島にいって、興禅寺にある木曾義仲の墓をたずねた。
迫りくる谷のけわしさに、このあたりから、はるばる六十四里余を京に馳せ上り、乳母子の今井四郎兼平と共に、琵琶湖のほとりで果てた義仲が哀れだった。
八幡太郎義家の嫡流という誇りを秘めた義仲が、いつか天下に志を成そうとして朝夕に心身を鍛えた時、いつもその支えになったのは御嶽の豪壮な山容ではなかったろうか。
中仙道をゆく旅びとの心もまた、御嶽に近づき、御嶽から遠ざかる思いの中に、旅路の平安への祈りを重ねたはずである。
御嶽には、加賀の白山に登った翌年の夏に、高尾発朝五時すぎの鈍行に乗っていった。福島で、いつもの山仲間に彦根教育委員会の小林重幸、北川鉄男両氏が合流。天気予報は小型台風の来襲を告げていたが、まだ風も吹かず、天気も晴れていた。
七合目の二千二百メートルの地点、田の原までバス。昔の登山者に申訳ないような立派な道路、大きな駐車場。何となくうしろめたいが、六十代なのだからゴメンナサイと心で詫びて、石がごろごろの急坂を登りながらびっくりした。
前後左右の白衣の登山者たちの中には、七十代はおろか、九十代までいて、口々に六根清浄を唱え、必死の形相である。九十のひとは両側から孫だという青年が支えている。自分に九十までのいのちがあったとして、どんな形で登るのだろうと思ったりした。
這松を押しわけて登山路の両側に自然石の碑が林立している。この山を死後の霊のよりどころとしたという先達たちを記念するものである。
登るにつれて雲が重く垂れこめ、あたりも暗くなったが、いつか碑がなくなって、熔岩地帯をゆく道ばたにチシマギキョウ、ヨツバシオガマ、ミヤマダイコンソウ、トウヤクリンドウの花々がようやく高山らしい眺めをつくってくれた。
あくる日は土砂降りの雨に風も強く、幾度か吹きとばされそうになりながら、摩利支天、剣ヶ峰を過ぎ、四ノ池の湿原や五ノ池を通って、飛騨側の|濁河《にごりご》温泉にむかって千二百メートルの高度を下った。雨と霧で足許の石がようやく見えるばかり。這松の根元に小さいリンネソウの花が一生けんめいに風に耐えていた。この小さい小さい薄紅の花を咲かせるのが、草ではなくて、潅木だというのにおどろく。
今度は是非晴れた日にもう一度、人の少い飛騨側から登ってもっといろいろな花を見つけたいと思った。七十、八十になっても。
木曾御嶽は昭和五十四年(一九七九年)十月二十八日に、有史以来初めて噴火した。そのニュースほど近ごろ胸をとどろかしたことはない。死火山は死んでいなかったのである。飛んでいってその山肌にひびく大地の鼓動を聞きたかった。
かつては|東仙道岐蘇路《とうせんどうきそじ》とよばれ、東海道が川の洪水で悩めば、中仙道には、谷深い木曾路をゆくおそろしさもあった。しかし、東海道に、富士を眺めるたのしみがあったように、中仙道には、|御嶽《おんたけ》の懐に抱かれるというよろこびがあった。
殊に山麓の福島は、江戸と京の、ちょうど、まんなかあたりにあったし、寝覚床や桟道など、珍らしい眺めにも恵まれて、山国は山国なりの興趣にそそられたことであろう。土産ものには、クマやシカやイノシシ、テンの皮などが売られたという。
御嶽は三〇六三メートル、富士山より七百十三メートル低く、加賀の白山よりは三百六十一メートル高い。立山、焼岳、乗鞍などと同じ火山系にぞくし、焼岳がいまなお活火山であるのにくらべて、成層火山型の休火山となっている。
中仙道がひらけたのは十三世紀にさかのぼるという。信濃から木曾谷に入って、|贄《にえ》川、平沢、奈良井と辿ってくるあたりから御嶽の雄大な山容が近づいてくるのを見た旅びとたちはいつか、その山にこめられた神霊を信じて、健脚なものは、進んで、頂上を極めようとしたことであろう。当然、案内者としての先達も生まれ、神霊を中心にした信仰も育っていったことであろう。
御嶽講は徳川の安定政権の許で発達し、先達につれられた登山者たちは、幕末から明治にかけては、年間三十万人にも及んだという。世情の不安に動揺する心を、神霊によって鎮めたかったのかもしれない。
木曾節とよばれる歌は、子供の頃からよく聞かされた。浅間の裾野の追分あたりの馬子唄もよく聞いたことがある。
宿場の町には、街道筋の歌々が旅びとによって伝えられていったのであろう。
馬子唄も木曾節も、まことに哀調切々として、荒涼たる火山灰地の野の姿や、山岳重畳たる木曾谷を、|毀《こぼ》ち削って走る激流に、|竿《さお》一つで生きる|業《わざ》のきびしさを、そのひびきに歌いこめていた。
いつか中仙道を辿って京までいきたいというのが、娘の頃からの願いとなっていた。
それは歩いてゆく旅であったのだが、実現したのは戦後で、それも板橋を基点として、自動車に頼ってしまった。
その前に名古屋から馬籠まで車でいって泊っていた。二度目の中仙道行は和田峠から鳥居峠にかけて暮れたので、駒の湯温泉に泊り、藪原、宮越から福島にいって、興禅寺にある木曾義仲の墓をたずねた。
迫りくる谷のけわしさに、このあたりから、はるばる六十四里余を京に馳せ上り、乳母子の今井四郎兼平と共に、琵琶湖のほとりで果てた義仲が哀れだった。
八幡太郎義家の嫡流という誇りを秘めた義仲が、いつか天下に志を成そうとして朝夕に心身を鍛えた時、いつもその支えになったのは御嶽の豪壮な山容ではなかったろうか。
中仙道をゆく旅びとの心もまた、御嶽に近づき、御嶽から遠ざかる思いの中に、旅路の平安への祈りを重ねたはずである。
御嶽には、加賀の白山に登った翌年の夏に、高尾発朝五時すぎの鈍行に乗っていった。福島で、いつもの山仲間に彦根教育委員会の小林重幸、北川鉄男両氏が合流。天気予報は小型台風の来襲を告げていたが、まだ風も吹かず、天気も晴れていた。
七合目の二千二百メートルの地点、田の原までバス。昔の登山者に申訳ないような立派な道路、大きな駐車場。何となくうしろめたいが、六十代なのだからゴメンナサイと心で詫びて、石がごろごろの急坂を登りながらびっくりした。
前後左右の白衣の登山者たちの中には、七十代はおろか、九十代までいて、口々に六根清浄を唱え、必死の形相である。九十のひとは両側から孫だという青年が支えている。自分に九十までのいのちがあったとして、どんな形で登るのだろうと思ったりした。
這松を押しわけて登山路の両側に自然石の碑が林立している。この山を死後の霊のよりどころとしたという先達たちを記念するものである。
登るにつれて雲が重く垂れこめ、あたりも暗くなったが、いつか碑がなくなって、熔岩地帯をゆく道ばたにチシマギキョウ、ヨツバシオガマ、ミヤマダイコンソウ、トウヤクリンドウの花々がようやく高山らしい眺めをつくってくれた。
あくる日は土砂降りの雨に風も強く、幾度か吹きとばされそうになりながら、摩利支天、剣ヶ峰を過ぎ、四ノ池の湿原や五ノ池を通って、飛騨側の|濁河《にごりご》温泉にむかって千二百メートルの高度を下った。雨と霧で足許の石がようやく見えるばかり。這松の根元に小さいリンネソウの花が一生けんめいに風に耐えていた。この小さい小さい薄紅の花を咲かせるのが、草ではなくて、潅木だというのにおどろく。
今度は是非晴れた日にもう一度、人の少い飛騨側から登ってもっといろいろな花を見つけたいと思った。七十、八十になっても。
木曾御嶽は昭和五十四年(一九七九年)十月二十八日に、有史以来初めて噴火した。そのニュースほど近ごろ胸をとどろかしたことはない。死火山は死んでいなかったのである。飛んでいってその山肌にひびく大地の鼓動を聞きたかった。