娘であった頃、何を考えながら、山の道を歩いていたろうか。十数年前までの私は、もっぱら、からだの弱い息子のことを考えていた。立山から上高地までの長い長い道も、とにかくゆき通さなければ息子の許に帰れぬと、重い靴を惰性的に前に踏み出していた。
彼をせめて上高地までつれていきたいと思ったのは、その長い山旅のあとで、大腿骨骨折の手術を二度して、数年間の空白のあと、西穂高に登ろうとしたときである。
梓川の谷をわけて上高地に一歩足を入れる時、いつも私は、一瞬、|寒気《そうけ》だつような身の引き締まりを感じる。上高地はかつて、神河内とも書かれて、連なりわたる峻嶺の下に、空を被うばかりの大樹巨木が茂りあい、清冽な流れが茂みを貫いて走り、わずかに魚を獲り、けものを追うひとたちの小屋があった頃とはちがって、ホテルや旅館がひしめきあい、大型のバスのゆきかう観光地になってしまった。しかし、山々の姿が変らず、川の流れが絶えない限り、私はやはり日本の観光地のどこにもない、おごそかな雰囲気をたたえているように思われる。
それは上高地を過ぎて、ふたたび上高地にもどりたいと願いながら、果せずに死んだいのちがあまりにも多いことを知るせいかもしれない。私には、上高地が、それらのいのちの墓場のように思われるときがある。そしてそれらのいのちが惜しまれるから、なお一そう、上高地の土を踏みながら、「生き残っている自分は、何をしなければならないか」という問いかけを、いつも心に新たにさせられる。息子は十年間も結核を病んで、肺活量が常人の半分である。健康優良児であった四歳五歳の頃、よく奥多摩の山に連れて登った。それ以後脳腫瘍という難病にかかって、視力の半分を失い、結核をふくめて、二十年の闘病生活がつづいていた。
山が好きな彼は山の本を買い集め、槍も穂高も書物の上でよく知っていた。大島亮吉の文章にも親しみ、その不幸な遭難を惜しんだ。彼がもっとも深い感動をもって読んだのは、昭和二十三年の一月に、北鎌尾根から千丈沢に転落した友人のかたわらで、友に殉じて果てた松涛明の遺書のようであった。
最後のぎりぎりのきわに至るまで、おそいくる死とたたかっているいのちの壮絶さが、難病を克服するために、必死な自分の生き方と重ね合されたのではないだろうか。西穂にはからだの丈夫な娘もつれてゆくことにした。私たちの、十月も半ばすぎた山ゆきを心配して、三木慶介さんと、そのとき、国立公園上高地管理事務所づとめになった沢田栄介さん、お願いしていたガイドの有馬卯一さんも来てくれた。
ありがたいことに五千尺旅館での一夜が明けると快晴で、黄に赤に、燃えるようなカラマツやカエデが美しく、たとえ山に登れなくても、せめてこの|錦繍《きんしゆう》の秋の上高地を歩けただけでもよいと、息子と一緒に語りあいながら、西穂高岳の麓に急いだ。
夏ならばこのあたりに、ツバメオモトもキヌガサソウも、咲いているのだと説明しながら、ふと、かたわらの化粧柳の茂みの下草に、枯れ残っているセンジュガンピの小さな白い花を見つけた。昨夜の霜にやられて、葉も花も凍りながら、あざやかな色を残している。
フシグロセンノウに似て形も小さく、純白のこの花を、ずっと前に平湯の大滝のそばで見つけ、家に帰って図鑑をひらきながら、息子に教えたことがある。
しかし今、十月の寒冷期に入った上高地のセンジュガンピは、図鑑ではなく、生で息子に見てもらうのを待っているような姿であった。よかった。この花にあえただけでも来てよかったと息子はよろこび、このあたりで待っているようにという私に、西穂の登り口までと言い、登り口にさしかかると、五十メートルでも百メートルでも歩けるところまでと言い、娘とつれだって、私の先を登りはじめた。西穂高の東面の谷は、ゆけどもゆけども針葉樹林の連続で、眺めもなくて辛いばかりであったが、一歩一歩のろい足をあげていく私は、いつかたった一人になり、やがて西穂の小屋のあたりから、打ち鳴らす鐘の音と、息子の大きな叫び声を聞いた。「お母さんがんばれよ」娘も叫んでいた。息子には、私より早く登れる体力がついていたのだ。トドマツの根もとに一息ついて、「大丈夫だよ」私もうれしさに叫んだ。
彼をせめて上高地までつれていきたいと思ったのは、その長い山旅のあとで、大腿骨骨折の手術を二度して、数年間の空白のあと、西穂高に登ろうとしたときである。
梓川の谷をわけて上高地に一歩足を入れる時、いつも私は、一瞬、|寒気《そうけ》だつような身の引き締まりを感じる。上高地はかつて、神河内とも書かれて、連なりわたる峻嶺の下に、空を被うばかりの大樹巨木が茂りあい、清冽な流れが茂みを貫いて走り、わずかに魚を獲り、けものを追うひとたちの小屋があった頃とはちがって、ホテルや旅館がひしめきあい、大型のバスのゆきかう観光地になってしまった。しかし、山々の姿が変らず、川の流れが絶えない限り、私はやはり日本の観光地のどこにもない、おごそかな雰囲気をたたえているように思われる。
それは上高地を過ぎて、ふたたび上高地にもどりたいと願いながら、果せずに死んだいのちがあまりにも多いことを知るせいかもしれない。私には、上高地が、それらのいのちの墓場のように思われるときがある。そしてそれらのいのちが惜しまれるから、なお一そう、上高地の土を踏みながら、「生き残っている自分は、何をしなければならないか」という問いかけを、いつも心に新たにさせられる。息子は十年間も結核を病んで、肺活量が常人の半分である。健康優良児であった四歳五歳の頃、よく奥多摩の山に連れて登った。それ以後脳腫瘍という難病にかかって、視力の半分を失い、結核をふくめて、二十年の闘病生活がつづいていた。
山が好きな彼は山の本を買い集め、槍も穂高も書物の上でよく知っていた。大島亮吉の文章にも親しみ、その不幸な遭難を惜しんだ。彼がもっとも深い感動をもって読んだのは、昭和二十三年の一月に、北鎌尾根から千丈沢に転落した友人のかたわらで、友に殉じて果てた松涛明の遺書のようであった。
最後のぎりぎりのきわに至るまで、おそいくる死とたたかっているいのちの壮絶さが、難病を克服するために、必死な自分の生き方と重ね合されたのではないだろうか。西穂にはからだの丈夫な娘もつれてゆくことにした。私たちの、十月も半ばすぎた山ゆきを心配して、三木慶介さんと、そのとき、国立公園上高地管理事務所づとめになった沢田栄介さん、お願いしていたガイドの有馬卯一さんも来てくれた。
ありがたいことに五千尺旅館での一夜が明けると快晴で、黄に赤に、燃えるようなカラマツやカエデが美しく、たとえ山に登れなくても、せめてこの|錦繍《きんしゆう》の秋の上高地を歩けただけでもよいと、息子と一緒に語りあいながら、西穂高岳の麓に急いだ。
夏ならばこのあたりに、ツバメオモトもキヌガサソウも、咲いているのだと説明しながら、ふと、かたわらの化粧柳の茂みの下草に、枯れ残っているセンジュガンピの小さな白い花を見つけた。昨夜の霜にやられて、葉も花も凍りながら、あざやかな色を残している。
フシグロセンノウに似て形も小さく、純白のこの花を、ずっと前に平湯の大滝のそばで見つけ、家に帰って図鑑をひらきながら、息子に教えたことがある。
しかし今、十月の寒冷期に入った上高地のセンジュガンピは、図鑑ではなく、生で息子に見てもらうのを待っているような姿であった。よかった。この花にあえただけでも来てよかったと息子はよろこび、このあたりで待っているようにという私に、西穂の登り口までと言い、登り口にさしかかると、五十メートルでも百メートルでも歩けるところまでと言い、娘とつれだって、私の先を登りはじめた。西穂高の東面の谷は、ゆけどもゆけども針葉樹林の連続で、眺めもなくて辛いばかりであったが、一歩一歩のろい足をあげていく私は、いつかたった一人になり、やがて西穂の小屋のあたりから、打ち鳴らす鐘の音と、息子の大きな叫び声を聞いた。「お母さんがんばれよ」娘も叫んでいた。息子には、私より早く登れる体力がついていたのだ。トドマツの根もとに一息ついて、「大丈夫だよ」私もうれしさに叫んだ。