まぼろしの花とも、あこがれの花とも言いたい花の幾つかのうちにトガクシショウマがある。深山の渓間にのみ咲くという。
図鑑できり知らないこの花にあいたくて、何度、戸隠の中社、|宝光社《ほうこうしや》のあたりを歩いたことだろう。
明治十七年六月、矢田部博士によって発見され、ソビエトの植物学者マキシモウィッチに日本の特産種と折紙つけられ、薄紫のキキョウにも似てもっと繊細な花が咲くという。
戦後と言っても、今日のように、幅広い自動車道路が、戸隠高原のまんなかを貫いて走らなかった頃である。長野からいっても、柏原から入っても、道幅が狭く、路肩すれすれに、バスの車輪が崖沿いの草をなぎ倒しながら進む。いつの時も落ちる、落ちるとハラハラした。事実、何度かバスは落ちた。トガクシショウマをさがしにゆくこともいのちがけだったわけだが、ショウマは見つからなかったけれど、私にとって、はじめての花に幾種類か出あった。中社の道ばたのハクサンチドリ。中社の奥の越水ヶ原でリュウキンカとミズバショウ。雨の日に中社から奥社まで、ただ一人歩きに歩いていって、参道のかたわらの溝の中に、クリンソウの赤い花を見つけたこともある。
私は、木のサクラの花よりも、草のサクラソウの花が好きである。子供の頃、荒川べりの浮間ヶ原にサクラソウ狩りにいった記憶がなつかしいからかもしれない。クリンソウをはじめて見たとき、サクラソウの種類であることだけはわかって、帰って図鑑を見るまで名を知らなかった。ただ、サクラソウよりも葉も茎もたくましく、花も傘状にたくさんついた花が、老杉しげりあう奥社の、雨のせいもあって、昼尚暗いような道のほとりに、あでやかないろどりに咲き誇っているのを見たとき、その妖艶とも言いたい美しさが、かつてはこの山内で、密教のきびしい修行をした山伏たちの眼にどうとらえられたであろうと思った。即身成仏を念願に、禁欲の日々を送った修験者たちは、ふと、この花に女を思い出したのではないかと俗人らしい空想もした。
宝光社への道のほとりでオキナグサを何本も見たことがある。宝光社から中社へ通う道に面した農家の庭に、薄紫の美しい花を見出して、家のひとにトガクシショウマですかと聞いたら、シラネアオイだとのことであった。これらも皆、その日はじめて見た。中社の裏の池のほとりには私の好きなサワギキョウの群落があり、花々が紫の波のように咲きつづき、その間にモウセンゴケがいっぱいあった。うっとりとしてそのあたりを歩きまわって帰って来たら、竹かごやの主人からあのあたりはマムシの名所で、毎夏二十匹位とれると聞いて寒気立った。
戸隠表山に登ったのは、つい最近の秋の十月である。信越放送の安田浄さんや池ノ平どんぐり荘の池田さんがついて来てくれた。
花はあきらめて紅葉だけをたのしむつもりであったが、奥社のうしろから八方睨へとゆく道には、オヤマリンドウやヤマトリカブトが咲き残り、草紅葉の中に紫のいろが美しかった。三十三間窟とか百軒長屋とかの名のついたところは、この山をつくっている凝灰角礫岩とかいうもろい岩石が、洞穴になったり、オーバーハング状に削られたもので、修験者たちはここで経を誦して一生懸命に行をしたのだという。
約五百万年前、海中火山が爆発し、その噴出物が積もってできたのが戸隠山だそうだけれど、フォッサマグナによってできた海が干上るときの最後の地層を示しているという。しばらくゆくと、劒の刃渡りとか蟻の戸渡りというやせ尾根があったが、私は意外と、こういうところを立って歩くのが好きである。
頂上について、すぐ眼の前に連なる後立山連峰の山々が、うっすらと新雪に被われているのを見た。そのどの峰にも登りたいと溜息をつきながら、その立派さに見入っていると、三木慶介さんが、眼の下にひろがる西側の裾花源流の樹海を指さして言った。トガクシショウマはあの樹海の中にあるらしいですよ。しかし、あのあたりはツキノワグマの|棲《す》み|処《か》です。
図鑑できり知らないこの花にあいたくて、何度、戸隠の中社、|宝光社《ほうこうしや》のあたりを歩いたことだろう。
明治十七年六月、矢田部博士によって発見され、ソビエトの植物学者マキシモウィッチに日本の特産種と折紙つけられ、薄紫のキキョウにも似てもっと繊細な花が咲くという。
戦後と言っても、今日のように、幅広い自動車道路が、戸隠高原のまんなかを貫いて走らなかった頃である。長野からいっても、柏原から入っても、道幅が狭く、路肩すれすれに、バスの車輪が崖沿いの草をなぎ倒しながら進む。いつの時も落ちる、落ちるとハラハラした。事実、何度かバスは落ちた。トガクシショウマをさがしにゆくこともいのちがけだったわけだが、ショウマは見つからなかったけれど、私にとって、はじめての花に幾種類か出あった。中社の道ばたのハクサンチドリ。中社の奥の越水ヶ原でリュウキンカとミズバショウ。雨の日に中社から奥社まで、ただ一人歩きに歩いていって、参道のかたわらの溝の中に、クリンソウの赤い花を見つけたこともある。
私は、木のサクラの花よりも、草のサクラソウの花が好きである。子供の頃、荒川べりの浮間ヶ原にサクラソウ狩りにいった記憶がなつかしいからかもしれない。クリンソウをはじめて見たとき、サクラソウの種類であることだけはわかって、帰って図鑑を見るまで名を知らなかった。ただ、サクラソウよりも葉も茎もたくましく、花も傘状にたくさんついた花が、老杉しげりあう奥社の、雨のせいもあって、昼尚暗いような道のほとりに、あでやかないろどりに咲き誇っているのを見たとき、その妖艶とも言いたい美しさが、かつてはこの山内で、密教のきびしい修行をした山伏たちの眼にどうとらえられたであろうと思った。即身成仏を念願に、禁欲の日々を送った修験者たちは、ふと、この花に女を思い出したのではないかと俗人らしい空想もした。
宝光社への道のほとりでオキナグサを何本も見たことがある。宝光社から中社へ通う道に面した農家の庭に、薄紫の美しい花を見出して、家のひとにトガクシショウマですかと聞いたら、シラネアオイだとのことであった。これらも皆、その日はじめて見た。中社の裏の池のほとりには私の好きなサワギキョウの群落があり、花々が紫の波のように咲きつづき、その間にモウセンゴケがいっぱいあった。うっとりとしてそのあたりを歩きまわって帰って来たら、竹かごやの主人からあのあたりはマムシの名所で、毎夏二十匹位とれると聞いて寒気立った。
戸隠表山に登ったのは、つい最近の秋の十月である。信越放送の安田浄さんや池ノ平どんぐり荘の池田さんがついて来てくれた。
花はあきらめて紅葉だけをたのしむつもりであったが、奥社のうしろから八方睨へとゆく道には、オヤマリンドウやヤマトリカブトが咲き残り、草紅葉の中に紫のいろが美しかった。三十三間窟とか百軒長屋とかの名のついたところは、この山をつくっている凝灰角礫岩とかいうもろい岩石が、洞穴になったり、オーバーハング状に削られたもので、修験者たちはここで経を誦して一生懸命に行をしたのだという。
約五百万年前、海中火山が爆発し、その噴出物が積もってできたのが戸隠山だそうだけれど、フォッサマグナによってできた海が干上るときの最後の地層を示しているという。しばらくゆくと、劒の刃渡りとか蟻の戸渡りというやせ尾根があったが、私は意外と、こういうところを立って歩くのが好きである。
頂上について、すぐ眼の前に連なる後立山連峰の山々が、うっすらと新雪に被われているのを見た。そのどの峰にも登りたいと溜息をつきながら、その立派さに見入っていると、三木慶介さんが、眼の下にひろがる西側の裾花源流の樹海を指さして言った。トガクシショウマはあの樹海の中にあるらしいですよ。しかし、あのあたりはツキノワグマの|棲《す》み|処《か》です。