「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と、いささか世をはすかいに眺めて、すべて完全でないと気のすまないひとたちに一矢を放ったのは、京の西、|双《ならび》ヶ|岡《おか》に住んだ吉田兼好という坊さんである。その六十七年の生涯に、鎌倉幕府が亡び、南北朝が競いたって争うのを見ている。
栄達の中にある人生だけでなく、敗亡にくだかれた日々にも生甲斐があると、ひとびとをはげましたかったのであろうか。
秋の山道は、何かひとの心をしみじみとおちつかしてくれる。まことに山は緑であるばかりがよいとは言えない。木々の葉も落ちつくし、人のかげには滅多に出あわない林間の道や尾根道に、冬の気配がひしひしと迫っているのを感じながら、ふとたちどまると、風の冷たさが鋭く、指先も凍えそうになるのを知りながら、山よさようなら、また、来年の春までと心につぶやきながら、日かげの霜柱を、踏みしだいてゆく。山のおわりは、自分にとっての一年のおわりでもある。いつもいつもその頃は、今年も思うことの何分の一も果せなかったという苦い悔が胸を刺す。そんな時に訪れる山ほど、やさしく胸をなごませてくれるものはない。
北八ツにいったのは、十一月のはじめであった。
その年は殊に仕事がいそがしく、そのどれも思うような結果が得られなくて、私は何か重い心に、北八ツにゆけばふんだんにあるという森や水が、自分をすっかりつつみこんでくれるであろうというような、心弱まりにも浸されていた。
車は茅野から入って麦草峠まで。有料道路となっている幅広の道は、開拓農家の点在する高原を走り抜けてひたすらに明るく、空は曇って明日は雨というのに、からりと乾いた風景で、とても人生の終りを思わせるような深刻な眺めはなかった。
峠から左折して茶臼山に。ヒメジョオンやオオバコのような帰化植物が車道をはなれたかなり奥まで生えていて、私の思いの中の北八ツの幽玄さとは程遠く、むしろ人里に近い気がした。
しかし、私は、この峠へくるまでの車窓の右に、じつに変った山容を見出していた。盛り上った針葉樹林の緑を灰いろの枯れ木の群れが幾重にも平行して横切っている。それは山全体に|蕭条《しようじよう》たる景観を与え、山全体がまさに枯死寸前の姿であえいでいるように見える。茶臼山の頂きに着くと、すぐ眼の前にその緑まだらの山があった。何という不思議な姿であろう。こんな山ははじめて見た。縞枯山と名づけられているのは、昔から、このようなかたちであったのであろう。
いつか道はその山中に入っていて、枯れ木の林を抜けながらまた、びっくりした。遠くからは、枯れ木ばかりと見えながら、次の代を生きつづける新らしい実生の林が、二メートルほどにびっしりと生え揃っている。すべてシラビソである。ふと、沓掛にあるシラビソとドイツトウヒの植樹林を思い出した。トウヒはどんどん大木に伸びてゆくのに、シラビソは、三、四メートルほどになると枯死してゆく。この木には何か、ある条件の下では生育しにくいものがあるのではないだろうか。寒風に弱いとか、根を張ってゆく土壌をえらぶとか。とまれ、白骨のような枯れ木の林と、新鮮な緑の若木群との対比は爽快とも言いたいようで、まったく人生の交替劇を、|直截《ちよくせつ》にあらわしているようである。
横岳との鞍部を、雨池峠を経て、自動車道路にむかう急坂を下る途中で、夕闇の樹林帯の下草に、オサバグサが密生しているのを見た。一属一種で、日本だけのものである。
この花をはじめて見たのは、早池峰の麓の針葉樹林帯の中であった。シダかとも思われるような濃緑の葉の中から、白い花もすがすがしい花茎が一本直立していたが、この山ではすでに花は枯れ、櫛の歯の形に裂けた葉が、ふかふかとした腐葉土の上に、大小無数に繁茂している。とうとう雨になって、露出した石の間を跳んでゆくような道は歩きづらかったが、あの縞枯れの木々の復活や冬越しのオサバグサの健気さに、私はいつか元気いっぱいになって、今宵の宿の双子池ヒュッテへと足を急がせていた。帰宅後、『植物手帳』の長谷川真魚氏に縞枯山のことをうかがうと、浅川実験林の小林義雄氏に聞いて下さり、沼田・岩瀬両氏の『日本の植生』に図説されてあるのがおくられて来た。縞枯山の幅十メートルから四十メートルに及ぶ立ち枯れの部分について、生木帯が枯死帯になり、更にまた、生木帯になるのに、百年かかると書かれていた。
栄達の中にある人生だけでなく、敗亡にくだかれた日々にも生甲斐があると、ひとびとをはげましたかったのであろうか。
秋の山道は、何かひとの心をしみじみとおちつかしてくれる。まことに山は緑であるばかりがよいとは言えない。木々の葉も落ちつくし、人のかげには滅多に出あわない林間の道や尾根道に、冬の気配がひしひしと迫っているのを感じながら、ふとたちどまると、風の冷たさが鋭く、指先も凍えそうになるのを知りながら、山よさようなら、また、来年の春までと心につぶやきながら、日かげの霜柱を、踏みしだいてゆく。山のおわりは、自分にとっての一年のおわりでもある。いつもいつもその頃は、今年も思うことの何分の一も果せなかったという苦い悔が胸を刺す。そんな時に訪れる山ほど、やさしく胸をなごませてくれるものはない。
北八ツにいったのは、十一月のはじめであった。
その年は殊に仕事がいそがしく、そのどれも思うような結果が得られなくて、私は何か重い心に、北八ツにゆけばふんだんにあるという森や水が、自分をすっかりつつみこんでくれるであろうというような、心弱まりにも浸されていた。
車は茅野から入って麦草峠まで。有料道路となっている幅広の道は、開拓農家の点在する高原を走り抜けてひたすらに明るく、空は曇って明日は雨というのに、からりと乾いた風景で、とても人生の終りを思わせるような深刻な眺めはなかった。
峠から左折して茶臼山に。ヒメジョオンやオオバコのような帰化植物が車道をはなれたかなり奥まで生えていて、私の思いの中の北八ツの幽玄さとは程遠く、むしろ人里に近い気がした。
しかし、私は、この峠へくるまでの車窓の右に、じつに変った山容を見出していた。盛り上った針葉樹林の緑を灰いろの枯れ木の群れが幾重にも平行して横切っている。それは山全体に|蕭条《しようじよう》たる景観を与え、山全体がまさに枯死寸前の姿であえいでいるように見える。茶臼山の頂きに着くと、すぐ眼の前にその緑まだらの山があった。何という不思議な姿であろう。こんな山ははじめて見た。縞枯山と名づけられているのは、昔から、このようなかたちであったのであろう。
いつか道はその山中に入っていて、枯れ木の林を抜けながらまた、びっくりした。遠くからは、枯れ木ばかりと見えながら、次の代を生きつづける新らしい実生の林が、二メートルほどにびっしりと生え揃っている。すべてシラビソである。ふと、沓掛にあるシラビソとドイツトウヒの植樹林を思い出した。トウヒはどんどん大木に伸びてゆくのに、シラビソは、三、四メートルほどになると枯死してゆく。この木には何か、ある条件の下では生育しにくいものがあるのではないだろうか。寒風に弱いとか、根を張ってゆく土壌をえらぶとか。とまれ、白骨のような枯れ木の林と、新鮮な緑の若木群との対比は爽快とも言いたいようで、まったく人生の交替劇を、|直截《ちよくせつ》にあらわしているようである。
横岳との鞍部を、雨池峠を経て、自動車道路にむかう急坂を下る途中で、夕闇の樹林帯の下草に、オサバグサが密生しているのを見た。一属一種で、日本だけのものである。
この花をはじめて見たのは、早池峰の麓の針葉樹林帯の中であった。シダかとも思われるような濃緑の葉の中から、白い花もすがすがしい花茎が一本直立していたが、この山ではすでに花は枯れ、櫛の歯の形に裂けた葉が、ふかふかとした腐葉土の上に、大小無数に繁茂している。とうとう雨になって、露出した石の間を跳んでゆくような道は歩きづらかったが、あの縞枯れの木々の復活や冬越しのオサバグサの健気さに、私はいつか元気いっぱいになって、今宵の宿の双子池ヒュッテへと足を急がせていた。帰宅後、『植物手帳』の長谷川真魚氏に縞枯山のことをうかがうと、浅川実験林の小林義雄氏に聞いて下さり、沼田・岩瀬両氏の『日本の植生』に図説されてあるのがおくられて来た。縞枯山の幅十メートルから四十メートルに及ぶ立ち枯れの部分について、生木帯が枯死帯になり、更にまた、生木帯になるのに、百年かかると書かれていた。