はじめて松本から大糸線に乗りかえて大町までいった時、車窓に迫る後立山連峰の高峻な姿が忘れられない。安曇野から|屹立《きつりつ》して、二千五百メートルから三千メートル近い峰々が、来り去ってゆく。
そのとき、私は、生まれた子供が三歳になり、ようやくよく歩けるようになったので、矢も楯もなく山が見たくなって、はじめは北アルプスの展望台と言われる塩尻峠の宿に泊り、更にもっと山に近づきたくて大町の奥の|葛《くず》温泉まで入り、幾日か滞在して、木崎湖に宿をかえ、青木湖、中綱湖のあたりまでよく足をのばした。
大町での用をすませた去年の秋、私はすぐに帰りに爺ヶ岳から鹿島槍に登ろうと思いたった。子供をつれ歩いた三十歳の日からもう三十何年とたっていた。
木崎湖では子供を宿の一室に残して、一人でよく泳いだ。その頃は山に登るよりも、海や川で泳ぐことに自信があった。しかし、二十年前に骨折して以来、左右の足の力の均衡が破れ、泳ぎの方はすっかりあきらめていたのが、去年の夏は三歳の孫をつれて、御前崎で泳ぎ、足の力の復調していることを知った。この十数年、せっせと山歩きをしたおかげであろう。
鹿島槍は、娘の頃からのあこがれである。写真で眺めて、北アルプスとよばれる山地の中で一番好きな山容を持っていた。根張りが太くたくましく、悠然たる趣があって、頂上からなだれ落ちる谷の稜線がけわしくきびしい。人にたとえるなら、柔和さと厳格さを併せ持っているような魅力とも言おうか。私は忙しい日常に追われていたが、体調のよいこの秋に登らなければ、もう残り少い生涯に鹿島槍には登れないような気がした。
大町の仁科中学の佐藤総一郎先生に前もって便りして、扇沢から入って種池小屋に泊りたいので、小屋のひとに是非風呂の用意をとおねがいした。次の日に爺ヶ岳に登って|冷池《つべたいけ》の小屋泊り。三日目に鹿島槍と、地図の上で測った。
三木慶介さんをはじめ、いつもの山仲間が十二人同行して、その朝大町温泉郷を出発。黒部へとつくられたバス道と別れて、扇沢の右の谷を登りはじめた。
十月にあと二、三日という山路には、まだ夏の名残りのコキンレイカやキヌタソウ、ネバリゼキショウ、オオバギボウシ、ミヤマダイコンソウ、ダイモンジソウ、ゴマナ、コバイケイソウなどの花が咲き、ベニバナイチゴ、ゴヨウイチゴ、ノウゴイチゴ、タケシマラン、サンカヨウ、マイヅルソウ、ゴゼンタチバナなどが、赤に紫に実をつけていた。
かなり急な道だけれど、次々と花があらわれ、高度を増すと共に、蓮華、赤沢岳の間に、スバリ、針ノ木が見え、鳴沢、岩小屋沢と峰々の頂きが近づく眺めに疲れが吸いとられる思いである。
ゴヨウノマツの大木が濃い緑にそそりたつ合間を、ミネカエデやダケカンバが赤に黄に染めて、その美しさにも疲れが消えてしまう。山にくる度に、岩や石だけの道で花のない時は疲れるけれど、そこに花さえあれば足も軽いといつも思っていて、自分ながら意外にも、正午すぎには種池小屋についてしまった。
小屋のうしろに鬱然と盛り上った巨大な峰、鹿島槍の豪壮な姿のすばらしさ。脊梁はあくまでもゆったりと頂きまでなごやかな線をつくって伸び、その両端に鋭くきびしい切れ込みを見せて支稜が深い谷に沈んでいる。
この分では夕刻までに冷池小屋までゆけるであろうと、せっかくのお風呂はおことわりして、小屋の前の草つきの斜面で昼食をとった。南面して日がよく当り、北風からもまもられているせいか、ハクサンフウロ、ミヤマキンバイ、ウサギギク、ガンコウラン、タテヤマリンドウが花を残し、コケモモ、ショウジョウバカマ、チダケサシ、ハンカイソウが実や種子をつけていた。あたたかいので、千メートル以下で咲く花も登って来たのであろう。
爺ヶ岳は三つある峰の一つだけに登り、あとは斜めにまいてゆくのだが、種池小屋の竹村昭八さんが、疲れたものたちのために、幾つものリュックをかついで、爺ヶ岳の頂きまで運んでくれた。山男はさすがに強いと感謝したりおどろいたりした。
一面の岩礫地につけられた道のかたわらの這松のかげにはコウゾリナ、ミヤマヨモギ、イワベンケイ、コウリンカ、ヒゴタイ、ハクサンイチゲ、ミヤマダイコンソウ、オヤマノエンドウ、タカネマツムシソウなどが半ば枯れながらも花がらを残していて、何故ジイガ岳などと哀れな名をつけたのであろう。この花のゆたかさは|乙女《おとめ》岳の名こそふさわしいのにと思った。
白馬から鹿島槍、爺ヶ岳、針ノ木岳へとつづく後立山連峰には、四百種以上の高山植物があるという。南側の日だまりの道には、カライトソウの薄紅の花も咲き残っていて、ワレモコウにも似た優雅なかたちを見せていた。唐土より来た美しい絹の糸でつくった房にも似ているとしてつけられた名であろうが、古代の大和盆地の山ぎわにもたくさん咲いていたのであろうか。
爺ヶ岳の下りから天候が急変して雪。それも風が加わって吹雪となった。
そのとき、私は、生まれた子供が三歳になり、ようやくよく歩けるようになったので、矢も楯もなく山が見たくなって、はじめは北アルプスの展望台と言われる塩尻峠の宿に泊り、更にもっと山に近づきたくて大町の奥の|葛《くず》温泉まで入り、幾日か滞在して、木崎湖に宿をかえ、青木湖、中綱湖のあたりまでよく足をのばした。
大町での用をすませた去年の秋、私はすぐに帰りに爺ヶ岳から鹿島槍に登ろうと思いたった。子供をつれ歩いた三十歳の日からもう三十何年とたっていた。
木崎湖では子供を宿の一室に残して、一人でよく泳いだ。その頃は山に登るよりも、海や川で泳ぐことに自信があった。しかし、二十年前に骨折して以来、左右の足の力の均衡が破れ、泳ぎの方はすっかりあきらめていたのが、去年の夏は三歳の孫をつれて、御前崎で泳ぎ、足の力の復調していることを知った。この十数年、せっせと山歩きをしたおかげであろう。
鹿島槍は、娘の頃からのあこがれである。写真で眺めて、北アルプスとよばれる山地の中で一番好きな山容を持っていた。根張りが太くたくましく、悠然たる趣があって、頂上からなだれ落ちる谷の稜線がけわしくきびしい。人にたとえるなら、柔和さと厳格さを併せ持っているような魅力とも言おうか。私は忙しい日常に追われていたが、体調のよいこの秋に登らなければ、もう残り少い生涯に鹿島槍には登れないような気がした。
大町の仁科中学の佐藤総一郎先生に前もって便りして、扇沢から入って種池小屋に泊りたいので、小屋のひとに是非風呂の用意をとおねがいした。次の日に爺ヶ岳に登って|冷池《つべたいけ》の小屋泊り。三日目に鹿島槍と、地図の上で測った。
三木慶介さんをはじめ、いつもの山仲間が十二人同行して、その朝大町温泉郷を出発。黒部へとつくられたバス道と別れて、扇沢の右の谷を登りはじめた。
十月にあと二、三日という山路には、まだ夏の名残りのコキンレイカやキヌタソウ、ネバリゼキショウ、オオバギボウシ、ミヤマダイコンソウ、ダイモンジソウ、ゴマナ、コバイケイソウなどの花が咲き、ベニバナイチゴ、ゴヨウイチゴ、ノウゴイチゴ、タケシマラン、サンカヨウ、マイヅルソウ、ゴゼンタチバナなどが、赤に紫に実をつけていた。
かなり急な道だけれど、次々と花があらわれ、高度を増すと共に、蓮華、赤沢岳の間に、スバリ、針ノ木が見え、鳴沢、岩小屋沢と峰々の頂きが近づく眺めに疲れが吸いとられる思いである。
ゴヨウノマツの大木が濃い緑にそそりたつ合間を、ミネカエデやダケカンバが赤に黄に染めて、その美しさにも疲れが消えてしまう。山にくる度に、岩や石だけの道で花のない時は疲れるけれど、そこに花さえあれば足も軽いといつも思っていて、自分ながら意外にも、正午すぎには種池小屋についてしまった。
小屋のうしろに鬱然と盛り上った巨大な峰、鹿島槍の豪壮な姿のすばらしさ。脊梁はあくまでもゆったりと頂きまでなごやかな線をつくって伸び、その両端に鋭くきびしい切れ込みを見せて支稜が深い谷に沈んでいる。
この分では夕刻までに冷池小屋までゆけるであろうと、せっかくのお風呂はおことわりして、小屋の前の草つきの斜面で昼食をとった。南面して日がよく当り、北風からもまもられているせいか、ハクサンフウロ、ミヤマキンバイ、ウサギギク、ガンコウラン、タテヤマリンドウが花を残し、コケモモ、ショウジョウバカマ、チダケサシ、ハンカイソウが実や種子をつけていた。あたたかいので、千メートル以下で咲く花も登って来たのであろう。
爺ヶ岳は三つある峰の一つだけに登り、あとは斜めにまいてゆくのだが、種池小屋の竹村昭八さんが、疲れたものたちのために、幾つものリュックをかついで、爺ヶ岳の頂きまで運んでくれた。山男はさすがに強いと感謝したりおどろいたりした。
一面の岩礫地につけられた道のかたわらの這松のかげにはコウゾリナ、ミヤマヨモギ、イワベンケイ、コウリンカ、ヒゴタイ、ハクサンイチゲ、ミヤマダイコンソウ、オヤマノエンドウ、タカネマツムシソウなどが半ば枯れながらも花がらを残していて、何故ジイガ岳などと哀れな名をつけたのであろう。この花のゆたかさは|乙女《おとめ》岳の名こそふさわしいのにと思った。
白馬から鹿島槍、爺ヶ岳、針ノ木岳へとつづく後立山連峰には、四百種以上の高山植物があるという。南側の日だまりの道には、カライトソウの薄紅の花も咲き残っていて、ワレモコウにも似た優雅なかたちを見せていた。唐土より来た美しい絹の糸でつくった房にも似ているとしてつけられた名であろうが、古代の大和盆地の山ぎわにもたくさん咲いていたのであろうか。
爺ヶ岳の下りから天候が急変して雪。それも風が加わって吹雪となった。