十二月五日、新潟駅から車で四十五分、出湯、村杉温泉の後方にある|五頭《ごず》山に登った。
前夜の宿は出湯温泉。新潟市に本拠を持つ新潟県ゴミ会議によばれての帰りである。
ゴミ会議は猪俣信市氏を事務局長として、団体加盟三十六、個人加盟二百五十人を有し、自然破壊の一つの元凶である山のゴミの持ち帰りを推進しているグループである。四十七年に結成され、一般参加者との合流によって、すでに実施したのは五頭連峰、飯豊連峰、粟ヶ岳、二王子岳、|巻機《まきはた》山、妙高、谷川連峰、|焼峰《やけみね》山、越後三山、苗場山、|平 《たいらつ》|標《ぴよう》山など、二十回近い実績を積んでいる。
五十三年の妙高高原には、二百八十四人が、巻機山には延べ三百五十八人が参加し、ヘリコプターまで出動した。
近江の三上山で、奥多摩の日の出山で、私は地元の山岳会の若者たちが、山の清掃にはげんでいたのを知っている。しかしこのゴミ会議のように、大挙して行動範囲もひろく、高度も高いところを戦車のように驀進するひとたちには、はじめて出あった。
五頭山への道は出湯温泉のうしろから砂子沢に入って流れをわたり、ミヤマカタバミが群生する杉林の中をしばらくいってジグザグの急坂となる。花崗岩の礫に二、三日前の雪が積もり、急な割にはすべらないから歩きよい。宿での明け方の夢に、私は五頭山に登っていた。道の左手に神社があり、空にそびえる赤松の幹が陽にかがやいていた。夢の中のは朱塗の神社であったが、砂子沢の川沿いの右岸に石の鳥居が見えた。山の神をまつるのだという。
五頭山については、白鳥の飛来する|瓢湖《ひようこ》の写真で、湖水の背景にうつっている山だという位の知識でやって来て、新潟で、藤島玄氏の『越後の山旅』を読み、そのくわしい内容に触れ得たのである。毎年の登山人口が十万に近く、新潟の山好きのひとたちが先ず登る山。五つの峰にそれぞれの仏をおいて、白衣を着ての信仰登山者が絶えぬという。
しかし私の登った日は、天気予報が低気圧の近接を告げ、午後から、山も海も荒れるから要注意とあったせいか、私を案内してくれるゴミ会議のひとたちの外はだれ一人のかげもなかった。
急坂が終ると、ミズナラやミネカエデ、ウリハダカエデなどの落葉木の樹間の道となり、ところどころに抜きん出て高く赤松がある。まさに夢の通りなので不思議な気がした。
落葉に埋もれた山腹にはコシノカンアオイであろうか、タマノカンアオイのように模様がなくて楕円形のカンアオイがいっぱいあり、ツルリンドウやツルアリドオシやツルシキミが赤い実をつけ、ノギランやトンボソウ、キッコウハグマ、オトギリソウなどの花がらも目につく。びっしりと樹間を埋めているのはイワカガミかイワウチワかと紅葉しかけた葉を見てゆくうちに、その葉の形で、イワウチワもあるけれど、オオイワカガミがもっとも多いようであった。花が咲きかかる頃は、どんなに美しかろうと思う。斜面の見える限りがオオイワカガミである。
風化した花崗岩の巨石が露出して、烏帽子岩と名づけられた地点で休む。四の峯、三の峯の稜線が重なりあう南西に当って、遠く守門岳が霞み、粟ヶ岳、菱ヶ岳がその手前に連なっている。西には蛇行する阿賀野川の対岸に秋葉丘陵がつづいて、その上に弥彦山と角田山がゆるやかな山容で浮んでいる。角田山は植物の宝庫であるとか、今度新潟に来た時、是非いってみたいと思った。
午後は風雨となるであろうことを予想して早目の食事をとったが、五の峯の頂きまでの道は、台風の目に入ったように風もなく、ユズリハやツバキなどのあたたかい土地に茂る木々の間を落葉を踏みながら、緩急の登り降りをくりかえしていった。海からの風が強いのであろう、ブナもヤシャブシも根もとから枝が|岐《わか》れて背が低く、タムシバもタニウツギも小さい。
頂上には赤いよだれかけをした石の地蔵様がすえられていて、この山がふだんからひとびとに親しまれていることを思わせたが、私にとって、登って来て何よりもよかったと思われたのは、北東にひらかれた谷の向うに、白銀の飯豊連峰が一目に見わたせたことである。地神、北股、飯豊本山、大日と、ことごとくが新雪に被われ、午後の陽を浴びて薄紅いろにかがやいている。初冬の今頃、晴れてこれらの山々を見ることの出来るのは珍らしいとひとびとは言い、夕方の列車で帰るのでなければ、その華麗な眺めを左手に見て、五の峯から四、三、二、一と縦走して歩きたかった。
前夜の宿は出湯温泉。新潟市に本拠を持つ新潟県ゴミ会議によばれての帰りである。
ゴミ会議は猪俣信市氏を事務局長として、団体加盟三十六、個人加盟二百五十人を有し、自然破壊の一つの元凶である山のゴミの持ち帰りを推進しているグループである。四十七年に結成され、一般参加者との合流によって、すでに実施したのは五頭連峰、飯豊連峰、粟ヶ岳、二王子岳、|巻機《まきはた》山、妙高、谷川連峰、|焼峰《やけみね》山、越後三山、苗場山、|平 《たいらつ》|標《ぴよう》山など、二十回近い実績を積んでいる。
五十三年の妙高高原には、二百八十四人が、巻機山には延べ三百五十八人が参加し、ヘリコプターまで出動した。
近江の三上山で、奥多摩の日の出山で、私は地元の山岳会の若者たちが、山の清掃にはげんでいたのを知っている。しかしこのゴミ会議のように、大挙して行動範囲もひろく、高度も高いところを戦車のように驀進するひとたちには、はじめて出あった。
五頭山への道は出湯温泉のうしろから砂子沢に入って流れをわたり、ミヤマカタバミが群生する杉林の中をしばらくいってジグザグの急坂となる。花崗岩の礫に二、三日前の雪が積もり、急な割にはすべらないから歩きよい。宿での明け方の夢に、私は五頭山に登っていた。道の左手に神社があり、空にそびえる赤松の幹が陽にかがやいていた。夢の中のは朱塗の神社であったが、砂子沢の川沿いの右岸に石の鳥居が見えた。山の神をまつるのだという。
五頭山については、白鳥の飛来する|瓢湖《ひようこ》の写真で、湖水の背景にうつっている山だという位の知識でやって来て、新潟で、藤島玄氏の『越後の山旅』を読み、そのくわしい内容に触れ得たのである。毎年の登山人口が十万に近く、新潟の山好きのひとたちが先ず登る山。五つの峰にそれぞれの仏をおいて、白衣を着ての信仰登山者が絶えぬという。
しかし私の登った日は、天気予報が低気圧の近接を告げ、午後から、山も海も荒れるから要注意とあったせいか、私を案内してくれるゴミ会議のひとたちの外はだれ一人のかげもなかった。
急坂が終ると、ミズナラやミネカエデ、ウリハダカエデなどの落葉木の樹間の道となり、ところどころに抜きん出て高く赤松がある。まさに夢の通りなので不思議な気がした。
落葉に埋もれた山腹にはコシノカンアオイであろうか、タマノカンアオイのように模様がなくて楕円形のカンアオイがいっぱいあり、ツルリンドウやツルアリドオシやツルシキミが赤い実をつけ、ノギランやトンボソウ、キッコウハグマ、オトギリソウなどの花がらも目につく。びっしりと樹間を埋めているのはイワカガミかイワウチワかと紅葉しかけた葉を見てゆくうちに、その葉の形で、イワウチワもあるけれど、オオイワカガミがもっとも多いようであった。花が咲きかかる頃は、どんなに美しかろうと思う。斜面の見える限りがオオイワカガミである。
風化した花崗岩の巨石が露出して、烏帽子岩と名づけられた地点で休む。四の峯、三の峯の稜線が重なりあう南西に当って、遠く守門岳が霞み、粟ヶ岳、菱ヶ岳がその手前に連なっている。西には蛇行する阿賀野川の対岸に秋葉丘陵がつづいて、その上に弥彦山と角田山がゆるやかな山容で浮んでいる。角田山は植物の宝庫であるとか、今度新潟に来た時、是非いってみたいと思った。
午後は風雨となるであろうことを予想して早目の食事をとったが、五の峯の頂きまでの道は、台風の目に入ったように風もなく、ユズリハやツバキなどのあたたかい土地に茂る木々の間を落葉を踏みながら、緩急の登り降りをくりかえしていった。海からの風が強いのであろう、ブナもヤシャブシも根もとから枝が|岐《わか》れて背が低く、タムシバもタニウツギも小さい。
頂上には赤いよだれかけをした石の地蔵様がすえられていて、この山がふだんからひとびとに親しまれていることを思わせたが、私にとって、登って来て何よりもよかったと思われたのは、北東にひらかれた谷の向うに、白銀の飯豊連峰が一目に見わたせたことである。地神、北股、飯豊本山、大日と、ことごとくが新雪に被われ、午後の陽を浴びて薄紅いろにかがやいている。初冬の今頃、晴れてこれらの山々を見ることの出来るのは珍らしいとひとびとは言い、夕方の列車で帰るのでなければ、その華麗な眺めを左手に見て、五の峯から四、三、二、一と縦走して歩きたかった。