|霊仙《りようざん》という山の名を教えてくれたのは、その山麓の上|丹生《にう》で、木彫の仏像をつくることにはげんでいた年若い詩人山本紀康氏である。丹生には同じような仕事に就いているひとたちが多いという。
霊仙は鈴鹿山地の北端にあって、その山麓は霊仙山と伊吹山との間に関ヶ原の盆地がひろがっている。古代にあっては東国と畿内を結ぶ重要な地点となっていたことであろう。伊吹山で傷つき、伊勢の|能褒野《のぼの》で死なれたというヤマトタケルノミコトは、病んで痛む眼に霊仙の尾根の彼方、はるか南西のヤマト盆地の上の空を見やって、あの有名な望郷の詩をつくられたのではないだろうか。いのちの丈夫なものたちは、緑|美《うる》わしいヤマトで、どうぞいのちのよろこびを歌いあげてくれ——。
ミコトは霊仙の峠をこえて伊勢に入られたにちがいない。上丹生は霊仙の北麓で|醒《さめ》ヶ|井《い》の奥にある谷間にある。このあたりは|惟喬《これたか》親王の末裔と称する木地師の住みついたところとされている。
文徳天皇の第一皇子でありながら、御母が紀氏の出であるために藤原氏に邪魔されて、立太子の機を外された不遇の親王は、世を捨てて山野の自然に心の憂さをいやしたのであろうか。木地師は全国の山々の木を、お盆やお椀をつくるのに必要なだけ伐採して、また次の地に移ってゆくという。上丹生は京都に近く、いかにも失意の貴公子の子孫が世にかくれて、こつこつと、一丁のノミをもって、大地自然の恵みである樹木を彫りつづける業を営むにふさわしい。
霊仙とは惟喬親王とほぼ同じ時代に生きて、六年間唐に学び、日本に帰ろうとして、彼地で暗殺された高僧の名であるという。
木地師とは何のかかわりもないかもしれないが、世に志をいれられなかったものたちの思いをしのばせる地名や、里の状況にもひかれて、以来、新幹線の窓から一方に伊吹山を見れば、必ず、一方に霊仙を仰いで来た。いつかの春の午後、米原で途中下車して、山本氏やその数人の友人とコンロンソウの群生する谷を頂上まであと半分の霊仙滝まで登り、ミヤマキケマンが黄いろの霞のようにたなびくばかりに咲き満ちているのを見たが、その日のうちに、帰京しなければならないので、惜しみながら、夕暮れの沢を下って来た。
藤原岳に登ったあくる日、醒ヶ井から入って、上丹生への道と別れ、創設後百年、東洋一という養鱒場を見物して午前十一時に山にかかる。湿った谷ぞいの道のかたわらに数戸の家が廃棄されていて、|榑《くれ》ヶ|畑《ばた》という。かつて栽培していたのであろうか、廃屋の周辺は一面のワサビの花盛りであった。
|汗拭《あせふき》峠までの道にはルイヨウショウマ、ハルリンドウ、イチヤクソウ、イチリンソウ、ヤマエンゴサク、イカリソウ、タキミチャルメルソウ、ヤマネコノメソウ、スズシロソウの花が咲き、ヤマツツジ、ムラサキヤシオ、モチツツジのつぼみがふくらみ、オトギリソウ、カワラナデシコの芽が出ている。地質学者の小林重幸氏が、露呈した石灰岩の中にウミユリの化石のあるのを教えて下さる。峠を南にくだれば、延寿招福の神をまつる多賀神社のある多賀の町に出る。町から東に大君ヶ畑、鞍掛峠をこえて伊勢に至るので、湖東のひとびとの神詣りは、この汗拭峠まで一汗かくところからはじまったのであろう。
霊仙の頂きは準平原のように、北霊仙、中霊仙などにわかれ、ゆるやかにうねる石灰岩台地となっていて、北霊仙の真上で小林氏は大きな地質図をひろげ、眼の下にひろがる琵琶湖のあたりを示されて、二億五千万年のはるかな昔にさかのぼる大地の歴史を語られた。藤原では谷間にあったヒロハノアマナが、ここでは頂き近い枯れカヤ原の中にいっぱいある。
北にはすでに登った加賀の白山や、木曾の御嶽の雪のある姿が遠望され、伊吹山の真うしろからこれも雪を残す|金糞《かなくそ》岳がのぞく。一三一四メートル。近江第二の高山である。
帰途は柏原にむかって十キロを下る。ひどいヤブコキの道もあるが、尾根筋の眺めがすばらしく、夕暮れ迫る比良の山なみ、竹生島、沖の島の浮ぶ琵琶湖、深くきざまれた谷々などが、ある時は夕陽をあびて朱に映え、また山かげになって紫に沈んでいた。広葉樹の多い山腹に、カエデの類であろうか、鮮緑色の木々が点在し、コブシの花の白もまじって、まだ、雪のとけたばかりの霊仙は、人生の青年期にあるようなみずみずしさに満ちている。足許にカタクリが、ショウジョウバカマが咲きさかり、だれがさげた札であろう、「カタクリに注意」と書かれたその心づかいがうれしかった。
霊仙は鈴鹿山地の北端にあって、その山麓は霊仙山と伊吹山との間に関ヶ原の盆地がひろがっている。古代にあっては東国と畿内を結ぶ重要な地点となっていたことであろう。伊吹山で傷つき、伊勢の|能褒野《のぼの》で死なれたというヤマトタケルノミコトは、病んで痛む眼に霊仙の尾根の彼方、はるか南西のヤマト盆地の上の空を見やって、あの有名な望郷の詩をつくられたのではないだろうか。いのちの丈夫なものたちは、緑|美《うる》わしいヤマトで、どうぞいのちのよろこびを歌いあげてくれ——。
ミコトは霊仙の峠をこえて伊勢に入られたにちがいない。上丹生は霊仙の北麓で|醒《さめ》ヶ|井《い》の奥にある谷間にある。このあたりは|惟喬《これたか》親王の末裔と称する木地師の住みついたところとされている。
文徳天皇の第一皇子でありながら、御母が紀氏の出であるために藤原氏に邪魔されて、立太子の機を外された不遇の親王は、世を捨てて山野の自然に心の憂さをいやしたのであろうか。木地師は全国の山々の木を、お盆やお椀をつくるのに必要なだけ伐採して、また次の地に移ってゆくという。上丹生は京都に近く、いかにも失意の貴公子の子孫が世にかくれて、こつこつと、一丁のノミをもって、大地自然の恵みである樹木を彫りつづける業を営むにふさわしい。
霊仙とは惟喬親王とほぼ同じ時代に生きて、六年間唐に学び、日本に帰ろうとして、彼地で暗殺された高僧の名であるという。
木地師とは何のかかわりもないかもしれないが、世に志をいれられなかったものたちの思いをしのばせる地名や、里の状況にもひかれて、以来、新幹線の窓から一方に伊吹山を見れば、必ず、一方に霊仙を仰いで来た。いつかの春の午後、米原で途中下車して、山本氏やその数人の友人とコンロンソウの群生する谷を頂上まであと半分の霊仙滝まで登り、ミヤマキケマンが黄いろの霞のようにたなびくばかりに咲き満ちているのを見たが、その日のうちに、帰京しなければならないので、惜しみながら、夕暮れの沢を下って来た。
藤原岳に登ったあくる日、醒ヶ井から入って、上丹生への道と別れ、創設後百年、東洋一という養鱒場を見物して午前十一時に山にかかる。湿った谷ぞいの道のかたわらに数戸の家が廃棄されていて、|榑《くれ》ヶ|畑《ばた》という。かつて栽培していたのであろうか、廃屋の周辺は一面のワサビの花盛りであった。
|汗拭《あせふき》峠までの道にはルイヨウショウマ、ハルリンドウ、イチヤクソウ、イチリンソウ、ヤマエンゴサク、イカリソウ、タキミチャルメルソウ、ヤマネコノメソウ、スズシロソウの花が咲き、ヤマツツジ、ムラサキヤシオ、モチツツジのつぼみがふくらみ、オトギリソウ、カワラナデシコの芽が出ている。地質学者の小林重幸氏が、露呈した石灰岩の中にウミユリの化石のあるのを教えて下さる。峠を南にくだれば、延寿招福の神をまつる多賀神社のある多賀の町に出る。町から東に大君ヶ畑、鞍掛峠をこえて伊勢に至るので、湖東のひとびとの神詣りは、この汗拭峠まで一汗かくところからはじまったのであろう。
霊仙の頂きは準平原のように、北霊仙、中霊仙などにわかれ、ゆるやかにうねる石灰岩台地となっていて、北霊仙の真上で小林氏は大きな地質図をひろげ、眼の下にひろがる琵琶湖のあたりを示されて、二億五千万年のはるかな昔にさかのぼる大地の歴史を語られた。藤原では谷間にあったヒロハノアマナが、ここでは頂き近い枯れカヤ原の中にいっぱいある。
北にはすでに登った加賀の白山や、木曾の御嶽の雪のある姿が遠望され、伊吹山の真うしろからこれも雪を残す|金糞《かなくそ》岳がのぞく。一三一四メートル。近江第二の高山である。
帰途は柏原にむかって十キロを下る。ひどいヤブコキの道もあるが、尾根筋の眺めがすばらしく、夕暮れ迫る比良の山なみ、竹生島、沖の島の浮ぶ琵琶湖、深くきざまれた谷々などが、ある時は夕陽をあびて朱に映え、また山かげになって紫に沈んでいた。広葉樹の多い山腹に、カエデの類であろうか、鮮緑色の木々が点在し、コブシの花の白もまじって、まだ、雪のとけたばかりの霊仙は、人生の青年期にあるようなみずみずしさに満ちている。足許にカタクリが、ショウジョウバカマが咲きさかり、だれがさげた札であろう、「カタクリに注意」と書かれたその心づかいがうれしかった。