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花の百名山87

时间: 2020-06-26    进入日语论坛
核心提示:葛城山  ミヤマラッキョウ(ユリ科) 春の北山を歩いて、大堰川沿いの宿に泊ったあくる日、同勢四十人の山仲間とバスで奈良の
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葛城山  ミヤマラッキョウ(ユリ科)   
 
 春の北山を歩いて、大堰川沿いの宿に泊ったあくる日、同勢四十人の山仲間とバスで奈良の|葛城《かつらぎ》山にむかった。
桓武天皇が、奈良から京に都を移されたのは、皇位をめぐって、肉親同士が血なまぐさい|殺戮《さつりく》をくりかえした平城京の、たくさんの皇子たちの血を吸った大地から逃れたかったのも、その理由の一つではないだろうか。
葛城山は南の金剛山と並んで、奈良から飛鳥にかけての盆地と、大阪湾に臨む河内平野とをさえぎって、千メートル前後の峰々が|屏風《びようぶ》のようにそびえたち、金剛山との間の鞍部が水越峠とよばれている。
北に、叔母の持統天皇に謀殺された大津皇子の墓のつくられた二上山が盛り上り、その間に竹内峠がある。
何千年の昔からか、奈良から飛鳥にかけての盆地に住みつこうとしたひとたちは、これらの峠を越え、これらの山々の尾根を歩いて、新らしい土地をさがし求めたのであろう。その原始の気持ちを味わってみたい。
近鉄で、大阪と名古屋の間をゆききする度、平地から急上昇したその山容が気になっていた。
『古事記』にも『日本書紀』にも、葛城の名がいっぱい出て来て、何人かの天皇は葛城山に近い丘に住みついている。大和朝廷をつくったひとたちがやってくる前から、葛城山麓を中心にして葛城王朝ともよばれる豪族が大きな勢力を持っていて、それを無視しては新らしい住人となれなかったのであろう。
あるいは、この方が、大和朝廷の始祖であったかもしれないという説のある仁徳天皇の皇后の|磐之媛《いわのひめ》は、葛城の|曾都毘古《そつひこ》の娘であった。嫉妬心のつよい方として知られ、自分の留守に天皇が異母妹の八田皇女を宮殿によんだのを怒って別居してしまった。天皇が吉備の黒媛を愛された時は、出身地の吉備に追い返している。それに対する天皇は、ひたすらに皇后にあやまり、許しを願うという低姿勢に徹している。皇后の背後にある葛城氏の勢力をおそれたのであろう。
君が|行日《ゆきけ》長くなりぬ山尋ね
迎へか往かむ待ちにか待たむ
かくばかり恋ひつつあらずは高山の
|磐根《いわね》し|枕《ま》きて死なましものを
磐之媛皇后の、天皇への深い愛情をあらわす歌が山をよみこんでいる。この山は、葛城あたりの山を胸に浮べての歌ではないだろうか。
雄略天皇は、勇猛豪気な人柄とされているけれど、葛城山に狩りにいって、猪を射たが、傷ついた猪に追われて|榛《はん》の木によじ登って逃げたり、葛城山にこもり住む|一言主《ひとことぬしの》大神に出あって、弓も太刀も家来たちの衣服も皆脱いで献上している。
先住者に対する表敬というところであろう。京の北山の京北町から|御所《ごせ》市まではたっぷり四時間かかって、この日、残念ながら、主峰の天神森の近くまでケーブルを利用した。
御所駅長が同行して、頂上の南西部にこちらよりは六十メートル高い金剛山の大きく迫るのを見ながら、眼の下の水越峠までの斜面が、五月はツツジの大群落でいろどられるのだと話してくれた。
一面の笹藪であったのだが、笹を刈ったらその根もとにびっしりとツツジが生えていたのだという。紫がかった赤のモチツツジではなくて、赤一いろのヤマツツジであるらしい。二上山にも三上山にも花の大きいモチツツジはいっぱいあった。全山のヤマツツジは、咲いたら花は小さいが群がって、これまた見事な眺めであろう。
頂上から北の平石峠まで、六キロの尾根道はブナやヤシャブシの大樹がまだ芽ぶかず、多分古代びともゆきかったであろう一メートル前後の小径の両側には、タチツボスミレやキジムシロが山路のおそい春を告げていた。ところどころに起伏があるけれど、ほとんどは平坦な道で、古代びとの道のつけ方の知恵がわかるようであった。
尾根道とは言っても、それより下の山腹をまくところが多いのは、風をよけての心づかいであろうか。
檜や樫や椎などの常緑樹もまじる山腹の樹間から、霞だつ盆地の中に、天香具山、|畝傍《うねび》山、耳成山と、大和三山が、島のように浮んでいるのが見える。遠く三輪山の端麗な常緑の姿もしずまりかえっていて、その奥は巻向山、初瀬である。盆地を越えて対しあうのは破裂、高取などの青垣の山々。その間にある芋峠は飛鳥から吉野に抜ける古代の道、あの女丈夫の持統天皇がしばしばこえられたところだ。
私は関東土着の民であるけれど、どの山の名も物語や史書や歌等によって親しく胸にきざみこまれていて、早く歩かなければ、日の暮れまでに二上山を登り降りして、今宵の宿の初瀬の長谷寺に辿りつけないと心は急ぎながら、まるでふるさとの山々を前にしたように、小休止をくりかえしては眺めいった。
修験道のはじまりは、大和朝廷によって追われた先住のひとびとが山にこもって神霊となったのだとは、どの本で得た知識であったろうか。葛城といえば修験者の先祖の一人として|役小角《えんのおづの》が思い出される。吉野の大峰山だけでなく、四国の石鎚山でも、東北の鳥海山でもその名を聞いたので、その行動範囲の広さにおどろくのだが、彼は葛城山麓に、葛城氏と並んで古くからの豪族であった鴨氏の子孫と言われている。
葛城の麓には宮司が栽培する日本サクラソウで名高い高鴨神社があって、『古事記』で鴨氏の祖先と書かれたアジスキタカヒコネノミコトを祭神としている。出雲族の王者、オオクニヌシノミコトの子である。
先住の民は出雲族であったのだろうか。平石峠にでる道にはカタクリがすでに実になり、ミヤマラッキョウが赤紫の花を咲かせていた。古代のひとたちは、狩りの帰りにはこれらの食用植物も摘んだのであろうと思った。
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