京都の下鴨に十年近く住んだ戦後の日々、毎日のように|葵《あおい》橋をわたりながら、比叡山の西に連なる北山が気になっていた。
『源氏物語』の若紫の章に、「わらわやみにわづらひ給ひて」とある光君が、まだ明けがたの暗い町を出て、何人かの供と急いだあたり、山城から丹波につづく山なみが、緑をふくんだ紫紺の濃淡に染められて美しい。
大文字と比叡山には下駄履きに着物で歩いて登ったが、北山を実際に歩いたのは、数年前にNHKの連続テレビ小説『花ぐるま』の舞台にえらんでからである。
事情あって母子の対面のできない祇園の芸妓の娘のかくれ住む里を、北山の|芹生《せりよう》とした。菅原道真の夫人や若君を、かつての家臣で、園部の代官武部源蔵が、妻と共に、わが子を犠牲にしてまもったという『|菅原伝授《すがわらでんじゆ》 |手習鑑《てならいかがみ》』の舞台に描かれた場所である。
一度目は洛北の市原から貴船川の流れをさかのぼり、謡曲『鉄輪』で、深夜の森に嫉妬に狂った女が、呪いの人形を樹肌に打ちつける舞台となった神社のかたわらをすぎて、芹生峠の頂きに着き、真下にひろがる杉林の道を辿って、岩走る清流のほとりに、数戸の家がある芹生に着いた。
貴船口で車と別れて歩いて二時間半。もう一つの道は、鞍馬川に沿って、源氏の君のたずねた聖僧のいる鞍馬寺の前を右に、両側が北山杉に被われた道を進んで峠下で車を捨てて左折。旧花背峠にむかってだらだら登りに登り、京見坂を下って芹生に。いずれも八百メートル前後の峠越えで、鞍馬からの方が距離も短く、四十分ほど早く着くことができる。自動車などのない昔は、馬をつかっても京の中心からは、四、五時間はかかったであろう。
かつては寺小屋をしても、子供が集まるほどたくさんの戸数のあった芹生も、洪水や火災で今は廃村に近くなり、小学校の分教場も閉ざされている。しかしその名の示すように、芹が生い、水底の石まで数えられるような清澄な流れがひらいたしずかな谷間で、水は北に灰屋川となって、|大堰《おおい》川に注ぐ。桂川の上流である。
貴船からの道は、京都御所用の建材を運ぶために早くから開けたが、もともと北山の谷々は、大昔、京都盆地が湖沼であった頃から、川筋をつたって入りこんで来た出雲族のひとたちが住みついたとされている。
芹生から西に医王沢に入って、狼峠から八一一メートルの石仏峠を越え、イモジ谷を井戸まで四時間近く歩いたことがある。
杉林ばかりの道なのだけれど、同じ北山の杉でも、空をつき刺す緑の|鑓《やり》のような鋭さを見せるのばかりではなくて、奥まったあたりには、下枝も奔放に伸び茂り、昼なお暗いような密林の姿のところもたくさんにあって、北山杉と言っても、俊敏な脚を持つ競走馬と、太く短く、力の強そうな脚の野生馬ほどのちがいがある。
都をのがれてかくれ住んだひとがえらぶにふさわしく、谷の道は、つねに流れのままにくねくねと曲りながらついていて、ところどころは木材を運ぶためにつくられた|木馬《きんま》道になっている。人間をわたすためではないから|桟《さん》の合間も荒く、ときに腐っていて、私の仲間の一人は、ふみ外して谷川に落っこちてしまった。
芹生は雪の日と四月と十月に訪れ、|千木《ちぎ》をわたして風格のある草葺屋根の家の里びとから、イノシシは言うに及ばず、クマも年に数頭はとれると聞いた。川沿いにはクロモジ、ウツギ、ヤシャブシ、ミズナラなどの落葉樹が密生していて紅葉が美しく、芹生から井戸までの四時間の山道は、一人のひとに出あうことがなくて、京の近くにこんな深山の眺めがあろうとは想像もつかなかった。
いつかの九月のおわりに、北桑田高校の先生方二人と京北町役場の末西信夫氏に案内されて、国道一六二号線から五時間ほど昔の愛宕道を歩いた。田尻の廃村を経て、馬谷、ウジウジ谷を抜け、サカサマ峠から愛宕に。愛宕山は、火伏の神として、古典にもしばしば登場する洛西の名山だが、丹波からのこの道は、今はほとんど登山者以外は辿るものもないらしい。
帰りの|月輪《つきのわ》寺から清滝に出たが、幾つかの遭難碑に出あうほど、枝みちが多く、沢沿いをゆくときは額と肩でかきわけるようなヤブコキ道であったが、クリンソウの花がらを見たり、オタカラコウとツリフネソウの大群落があって、京の奥に、こんなにも原始の自然が残っているかとうれしかった。赤いヘビや青黒いヘビが這いまわっていたのはありがたくなかったけれど。愛宕には、戦前に表からケーブルで上ったことがある。それがなくなって却って自然がもどったようだ。
四月のときは、井戸から灰屋川沿いに下って、|光巌《こうごん》院の陵のある常照皇寺に詣った。満開のシダレ桜がすばらしかった。
光巌院は、足利尊氏によって後醍醐天皇が隠岐に流されたあと、即位されたが、後醍醐天皇がもどられて廃帝となられた方である。歴史は「不遇のひと」と伝えているけれど、春はサクラやクリンソウ、夏から秋にかけて谷々を埋める黄金の炎のようなオタカラコウにつつまれて憂き世をはなれて暮された方が、ずっと仕合わせではなかったろうか。オタカラコウは、メタカラコウによく似ているけれど、その名の通り男性的でたくましい。
『源氏物語』の若紫の章に、「わらわやみにわづらひ給ひて」とある光君が、まだ明けがたの暗い町を出て、何人かの供と急いだあたり、山城から丹波につづく山なみが、緑をふくんだ紫紺の濃淡に染められて美しい。
大文字と比叡山には下駄履きに着物で歩いて登ったが、北山を実際に歩いたのは、数年前にNHKの連続テレビ小説『花ぐるま』の舞台にえらんでからである。
事情あって母子の対面のできない祇園の芸妓の娘のかくれ住む里を、北山の|芹生《せりよう》とした。菅原道真の夫人や若君を、かつての家臣で、園部の代官武部源蔵が、妻と共に、わが子を犠牲にしてまもったという『|菅原伝授《すがわらでんじゆ》 |手習鑑《てならいかがみ》』の舞台に描かれた場所である。
一度目は洛北の市原から貴船川の流れをさかのぼり、謡曲『鉄輪』で、深夜の森に嫉妬に狂った女が、呪いの人形を樹肌に打ちつける舞台となった神社のかたわらをすぎて、芹生峠の頂きに着き、真下にひろがる杉林の道を辿って、岩走る清流のほとりに、数戸の家がある芹生に着いた。
貴船口で車と別れて歩いて二時間半。もう一つの道は、鞍馬川に沿って、源氏の君のたずねた聖僧のいる鞍馬寺の前を右に、両側が北山杉に被われた道を進んで峠下で車を捨てて左折。旧花背峠にむかってだらだら登りに登り、京見坂を下って芹生に。いずれも八百メートル前後の峠越えで、鞍馬からの方が距離も短く、四十分ほど早く着くことができる。自動車などのない昔は、馬をつかっても京の中心からは、四、五時間はかかったであろう。
かつては寺小屋をしても、子供が集まるほどたくさんの戸数のあった芹生も、洪水や火災で今は廃村に近くなり、小学校の分教場も閉ざされている。しかしその名の示すように、芹が生い、水底の石まで数えられるような清澄な流れがひらいたしずかな谷間で、水は北に灰屋川となって、|大堰《おおい》川に注ぐ。桂川の上流である。
貴船からの道は、京都御所用の建材を運ぶために早くから開けたが、もともと北山の谷々は、大昔、京都盆地が湖沼であった頃から、川筋をつたって入りこんで来た出雲族のひとたちが住みついたとされている。
芹生から西に医王沢に入って、狼峠から八一一メートルの石仏峠を越え、イモジ谷を井戸まで四時間近く歩いたことがある。
杉林ばかりの道なのだけれど、同じ北山の杉でも、空をつき刺す緑の|鑓《やり》のような鋭さを見せるのばかりではなくて、奥まったあたりには、下枝も奔放に伸び茂り、昼なお暗いような密林の姿のところもたくさんにあって、北山杉と言っても、俊敏な脚を持つ競走馬と、太く短く、力の強そうな脚の野生馬ほどのちがいがある。
都をのがれてかくれ住んだひとがえらぶにふさわしく、谷の道は、つねに流れのままにくねくねと曲りながらついていて、ところどころは木材を運ぶためにつくられた|木馬《きんま》道になっている。人間をわたすためではないから|桟《さん》の合間も荒く、ときに腐っていて、私の仲間の一人は、ふみ外して谷川に落っこちてしまった。
芹生は雪の日と四月と十月に訪れ、|千木《ちぎ》をわたして風格のある草葺屋根の家の里びとから、イノシシは言うに及ばず、クマも年に数頭はとれると聞いた。川沿いにはクロモジ、ウツギ、ヤシャブシ、ミズナラなどの落葉樹が密生していて紅葉が美しく、芹生から井戸までの四時間の山道は、一人のひとに出あうことがなくて、京の近くにこんな深山の眺めがあろうとは想像もつかなかった。
いつかの九月のおわりに、北桑田高校の先生方二人と京北町役場の末西信夫氏に案内されて、国道一六二号線から五時間ほど昔の愛宕道を歩いた。田尻の廃村を経て、馬谷、ウジウジ谷を抜け、サカサマ峠から愛宕に。愛宕山は、火伏の神として、古典にもしばしば登場する洛西の名山だが、丹波からのこの道は、今はほとんど登山者以外は辿るものもないらしい。
帰りの|月輪《つきのわ》寺から清滝に出たが、幾つかの遭難碑に出あうほど、枝みちが多く、沢沿いをゆくときは額と肩でかきわけるようなヤブコキ道であったが、クリンソウの花がらを見たり、オタカラコウとツリフネソウの大群落があって、京の奥に、こんなにも原始の自然が残っているかとうれしかった。赤いヘビや青黒いヘビが這いまわっていたのはありがたくなかったけれど。愛宕には、戦前に表からケーブルで上ったことがある。それがなくなって却って自然がもどったようだ。
四月のときは、井戸から灰屋川沿いに下って、|光巌《こうごん》院の陵のある常照皇寺に詣った。満開のシダレ桜がすばらしかった。
光巌院は、足利尊氏によって後醍醐天皇が隠岐に流されたあと、即位されたが、後醍醐天皇がもどられて廃帝となられた方である。歴史は「不遇のひと」と伝えているけれど、春はサクラやクリンソウ、夏から秋にかけて谷々を埋める黄金の炎のようなオタカラコウにつつまれて憂き世をはなれて暮された方が、ずっと仕合わせではなかったろうか。オタカラコウは、メタカラコウによく似ているけれど、その名の通り男性的でたくましい。