ずっと前、はじめて高知市から西に二十七キロ、佐川を訪れたとき、この町の酒造家の跡取りの牧野富太郎さんが、酒造りは番頭に任せ、|横倉《よこぐら》山に入っては植物採集に熱中したという話を聞いた。
数年前、石鎚山から剣山にと、仁淀川の流れに沿って佐川から高知に出る途中、越知町の近くで、横倉山を遠望した。標高は七四四メートルにすぎないが、山容は雄大で頂上には幾つもの起伏があり、ただものでない風情がある。横倉山には安徳天皇の御陵参考地があるという。
壇ノ浦で、二位尼に抱かれて沈んだのは身代りであり、安徳天皇は、平知盛に助けられ、屋島から祖谷に、更に吉野川をさかのぼって別府山に至り、越知などに身をひそめて、最後は横倉山中に入って二十三歳でなくなられたという。その日、私と一緒に山へ登って下さったのは、佐川町のプロテスタントの山田牧師であった。前夜、山麓の越知町で一泊して、午前八時に出発したが、どしゃぶりの雨である。どうしますかと聞かれて、何が何でも登りますと答えた。
日本で一番古い化石を含むシルル系の古生層に花崗岩や輝緑岩、蛇紋岩などが貫入して、複雑な地質構造を持つ横倉山は、東赤石と同じように植物が豊富で、昭和三十五年、高知県教育委員会発行の『横倉山』には、大倉幸也氏によって、七二七種の植物の名があげられている。
牧野富太郎氏命名のヨコグラノキ、ヨコグラブドウ、ヨコグラツクバネ、ヨコグラタチムカデなどもあり、私にとってあこがれの、トサジョウロウホトトギス、サルメンエビネ、ナツエビネなどもあるはずであった。
山の北斜面を切り拓いた林道を展望台まで車で送られて来たが、一面の霧で何も見えず、ここで車とわかれて横倉宮への道を辿る。大きな葉っぱのテンナンショウがある。ユキモチソウかと胸をとどろかしたけれど、残念にもアオノテンナンショウであった。この山にはハンゲショウもあるはずと、杉の林の中をのぞくけれど、あまり変ったものが目につかない。
やがて五百段もあるという参道の下に来て、その石の大きさにおどろいた。ずい分方々の寺や神社の石段を登ったけれど、こんな大きな自然石を並べたのを見たことがない。まさに累々たる姿で、その果てはモミやツガやスギ、アカマツなどのうっそうとした針葉樹林の中にかくれて見えず、急峻な斜面を一直線に、岩石の滝がなだれ落ちているように見える。雨に洗われて石灰岩はうすいピンクに、蛇紋岩は濃緑に光っていて、山の植物をさがすよりは石の美しさに見とれ、石灰岩の中にサンゴやウミユリの化石がないかと眼をこらしながら登っていったが、これだけ大きい石を動かして並べるという熱意はなみなみならぬものと思われ、やはり、横倉宮に|祀《まつ》られる安徳天皇の不幸の霊をなぐさめようとする旧臣たちのまごころが、石の一つ一つにこめられているような気がした。
石段の途中に、堂々たる大樹の二本が、根を一つにした|女夫杉《めおとすぎ》があり、尽きたところに杉原神社がある。このあたり杉の大樹が多く、小さな流れがあって、いかにもかくれすむのにふさわしい場所である。行在所のあとというのも左手の藪の中にあり、大きなタイミンガサやテバコモミジガサ、トチバニンジン、ナルコユリ、ホウチャクソウなどが目につく。ツルカノコソウやチャルメルソウ、ジンジソウもあって、食糧にもなるはずである。
横倉宮は大きな石灰岩の頂きにあり、春日造りの壮麗なもので、天皇崩御の正治二年(一二〇〇年)に創建されたとある。この神宮はもと御嶽神社とよばれ、平知盛が天皇崩御ののちも守護し、貞応三年(一二二四年)知盛が七十一歳で死んだ後は、今日まで子孫が祭祀をつとめているという。
もともと越知は平安時代の初期から町として栄え、横倉山も修験の道場であった。横倉宮のうしろには石灰岩の二十メートルに及ぶ大きな露頭があり、その下の洞穴からは平安時代からの古銭や|土師《はじ》|器《き》がたくさん出土したという。横倉宮の宝物となっている多くの古銭や経筒と共に、この山の歴史を物語るものであろう。
帰路は石段から左手に、屏風岩、カブト嶽などの岩場を経て道を急ぐ。南面の斜面は針葉樹林だが、こちらは濶葉樹林。ジョウロウホトトギスもエビネも一本として見つからなかったが、林道からそれて、旧道を下りながら、たくさんのオオバノトンボソウを見た。雑草のように多いのが珍らしかった。だが、ざんざん降りの雨の中を走り下りて、どれがヨコグラノキかわからなかった。
数年前、石鎚山から剣山にと、仁淀川の流れに沿って佐川から高知に出る途中、越知町の近くで、横倉山を遠望した。標高は七四四メートルにすぎないが、山容は雄大で頂上には幾つもの起伏があり、ただものでない風情がある。横倉山には安徳天皇の御陵参考地があるという。
壇ノ浦で、二位尼に抱かれて沈んだのは身代りであり、安徳天皇は、平知盛に助けられ、屋島から祖谷に、更に吉野川をさかのぼって別府山に至り、越知などに身をひそめて、最後は横倉山中に入って二十三歳でなくなられたという。その日、私と一緒に山へ登って下さったのは、佐川町のプロテスタントの山田牧師であった。前夜、山麓の越知町で一泊して、午前八時に出発したが、どしゃぶりの雨である。どうしますかと聞かれて、何が何でも登りますと答えた。
日本で一番古い化石を含むシルル系の古生層に花崗岩や輝緑岩、蛇紋岩などが貫入して、複雑な地質構造を持つ横倉山は、東赤石と同じように植物が豊富で、昭和三十五年、高知県教育委員会発行の『横倉山』には、大倉幸也氏によって、七二七種の植物の名があげられている。
牧野富太郎氏命名のヨコグラノキ、ヨコグラブドウ、ヨコグラツクバネ、ヨコグラタチムカデなどもあり、私にとってあこがれの、トサジョウロウホトトギス、サルメンエビネ、ナツエビネなどもあるはずであった。
山の北斜面を切り拓いた林道を展望台まで車で送られて来たが、一面の霧で何も見えず、ここで車とわかれて横倉宮への道を辿る。大きな葉っぱのテンナンショウがある。ユキモチソウかと胸をとどろかしたけれど、残念にもアオノテンナンショウであった。この山にはハンゲショウもあるはずと、杉の林の中をのぞくけれど、あまり変ったものが目につかない。
やがて五百段もあるという参道の下に来て、その石の大きさにおどろいた。ずい分方々の寺や神社の石段を登ったけれど、こんな大きな自然石を並べたのを見たことがない。まさに累々たる姿で、その果てはモミやツガやスギ、アカマツなどのうっそうとした針葉樹林の中にかくれて見えず、急峻な斜面を一直線に、岩石の滝がなだれ落ちているように見える。雨に洗われて石灰岩はうすいピンクに、蛇紋岩は濃緑に光っていて、山の植物をさがすよりは石の美しさに見とれ、石灰岩の中にサンゴやウミユリの化石がないかと眼をこらしながら登っていったが、これだけ大きい石を動かして並べるという熱意はなみなみならぬものと思われ、やはり、横倉宮に|祀《まつ》られる安徳天皇の不幸の霊をなぐさめようとする旧臣たちのまごころが、石の一つ一つにこめられているような気がした。
石段の途中に、堂々たる大樹の二本が、根を一つにした|女夫杉《めおとすぎ》があり、尽きたところに杉原神社がある。このあたり杉の大樹が多く、小さな流れがあって、いかにもかくれすむのにふさわしい場所である。行在所のあとというのも左手の藪の中にあり、大きなタイミンガサやテバコモミジガサ、トチバニンジン、ナルコユリ、ホウチャクソウなどが目につく。ツルカノコソウやチャルメルソウ、ジンジソウもあって、食糧にもなるはずである。
横倉宮は大きな石灰岩の頂きにあり、春日造りの壮麗なもので、天皇崩御の正治二年(一二〇〇年)に創建されたとある。この神宮はもと御嶽神社とよばれ、平知盛が天皇崩御ののちも守護し、貞応三年(一二二四年)知盛が七十一歳で死んだ後は、今日まで子孫が祭祀をつとめているという。
もともと越知は平安時代の初期から町として栄え、横倉山も修験の道場であった。横倉宮のうしろには石灰岩の二十メートルに及ぶ大きな露頭があり、その下の洞穴からは平安時代からの古銭や|土師《はじ》|器《き》がたくさん出土したという。横倉宮の宝物となっている多くの古銭や経筒と共に、この山の歴史を物語るものであろう。
帰路は石段から左手に、屏風岩、カブト嶽などの岩場を経て道を急ぐ。南面の斜面は針葉樹林だが、こちらは濶葉樹林。ジョウロウホトトギスもエビネも一本として見つからなかったが、林道からそれて、旧道を下りながら、たくさんのオオバノトンボソウを見た。雑草のように多いのが珍らしかった。だが、ざんざん降りの雨の中を走り下りて、どれがヨコグラノキかわからなかった。