東京で考えていた剣山は、その名の険しさを山容であらわして峨々たる岩山であった。しかし丸笹山で仰ぎ見れば、じつにゆるやかな弧線を描く温容|球《たま》の如しと言いたい姿をしていて、しかも千六百メートルまでのリフトが通っているという。
私は足弱の仲間とリフトの御厄介になる。眼の下にダケカンバ、ブナなどの落葉樹の森林からツガ、ヒメコマツ、ウラジロモミなどの針葉樹林帯になり、ナナカマドの白い花も見える森がつづき、四国の山というよりは、北海道の山中をゆくような気分になる。
リフトの終点からは右の山道に入り、緩やかな勾配の斜面に丸笹山と同じような小さな花々がぎっしりと咲いていて、イワボタン、ハナネコノメ、ツルネコノメ、ボタンネコノメ、ヤマネコノメと、ネコノメソウ属が賑やかに揃って出迎えてくれた。この楕円形の緑の葉のてっぺんに葉と同色の、薄いろに咲く地味な花をだれがネコノメソウと名づけたのであろう。
猫の好きな私は、この花の名を覚えた時から、どんなに緑一色の草むらの中からでも、ネコノメソウ属の花を見つけることができる。生涯に一つは、新発見のスミエネコノメソウが見つかりますようにと祈ったりもする。頂上に近く、シコクシラベの樹林帯に入って、タデの花に似て白々と小さく、フタバアオイに似てもっと細い、形のよい葉が、薄紅の茎に品よくついている草を見た。
私がネコノメソウにばかり気をとられていたから見つかったので、独自に生えていたら見過ごしてしまうような目立たない花である。しかし見れば見るほど、花と茎と葉が整っていて、安定感のある花である。クリンユキフデという。その名の心にくいばかりの美しさに感じ入った。
花は小さく目立たないものほど、そのはかなさをいとおしむように、美しい名がつけられているのではないのだろうか。ワチガイソウに似て、もっと小さく地味なオオヤマフスマの別名は、ヒメタガソデソウという。町中の道ばたや荒地に咲いて、だれにも見返られないような、キク科の帰化植物が、ヒメムカシヨモギと名づけられたりするのだ。
花の名はたしかにその姿によせるひとの心をあらわしているのではないだろうか。同じように荒地を埋めるばかりでなく、人に花粉症などを起させる花をブタクサと呼んでいる。この花はアメリカでもブタクサと呼ばれるそうだ。
剣山の頂きは、野球かサッカーでも出来そうに広々としたミヤコザサの原であった。
西方に大きく落ちこんだ祖谷川の上流の谷は、平家の子孫平国盛が、安徳天皇を奉じて逃れ住んだ場所と伝えられ、阿佐家を名乗る後裔が今も赤旗と系図をまもっているという。
笹原の一部に珪岩から成る大きな岩塊があり、宝蔵岩と名づけられて、安徳天皇が剣をかくされたなどという伝説がある。平家物語では、皇位のしるしの剣は、祖母君の二位尼が腰にたばさんで入水し、義経がいくらさがさせても、鏡と|璽玉《じぎよく》は見つかったけれど、剣だけは手に入れられなかったとある。あるいはその事実から、剣はこの山の頂きにという話になったのかもしれないが、リフトで容易に登れることと言い、伝説の内容と言い、頂きの地形とも合せて、剣山は意外に人くさい山であった。それでも東側の山腹をまいて、リフトをつかわずに宿舎まで歩いて下りると、針葉樹林の中に露出した石灰岩を利用して、狭い岩頭を回ったり、鎖に頼って急崖をよじったりの行場があり、観光客のかげもなくて、ウグイスの声がしきりであった。
イタヤカエデやコハウチワカエデやコミネカエデもあって芽ぶきの緑が美しく、下草にはスズタケが密生している。モミジガサに似て、華奢で小振りのテバコモミジガサも小さく薄紫の花をつけ、薄紅いろのカノコソウも花をひらきはじめていた。この花はいつか福岡の若杉山で見つけ、ザルツブルグに近い森の中やウィーンの高山植物園で見た。
剣山にくる前に恐れていたのは大蛇にあうことであったが、祖谷の伝説や民話には大蛇にであった話が多く、阿部近一氏の『剣山』という本の「動物」の章に「マムシの外、俗にウワバミと称せられるヤマカガシの老成したものが、行場附近の石灰岩地帯に稀に見受けられる」と書かれている。そのあたりは特産のケンザンシダが多いのだが、「いまもその大蛇は出ますか」とうかがうと、阿部氏はにっこりとうなずかれた。
私は足弱の仲間とリフトの御厄介になる。眼の下にダケカンバ、ブナなどの落葉樹の森林からツガ、ヒメコマツ、ウラジロモミなどの針葉樹林帯になり、ナナカマドの白い花も見える森がつづき、四国の山というよりは、北海道の山中をゆくような気分になる。
リフトの終点からは右の山道に入り、緩やかな勾配の斜面に丸笹山と同じような小さな花々がぎっしりと咲いていて、イワボタン、ハナネコノメ、ツルネコノメ、ボタンネコノメ、ヤマネコノメと、ネコノメソウ属が賑やかに揃って出迎えてくれた。この楕円形の緑の葉のてっぺんに葉と同色の、薄いろに咲く地味な花をだれがネコノメソウと名づけたのであろう。
猫の好きな私は、この花の名を覚えた時から、どんなに緑一色の草むらの中からでも、ネコノメソウ属の花を見つけることができる。生涯に一つは、新発見のスミエネコノメソウが見つかりますようにと祈ったりもする。頂上に近く、シコクシラベの樹林帯に入って、タデの花に似て白々と小さく、フタバアオイに似てもっと細い、形のよい葉が、薄紅の茎に品よくついている草を見た。
私がネコノメソウにばかり気をとられていたから見つかったので、独自に生えていたら見過ごしてしまうような目立たない花である。しかし見れば見るほど、花と茎と葉が整っていて、安定感のある花である。クリンユキフデという。その名の心にくいばかりの美しさに感じ入った。
花は小さく目立たないものほど、そのはかなさをいとおしむように、美しい名がつけられているのではないのだろうか。ワチガイソウに似て、もっと小さく地味なオオヤマフスマの別名は、ヒメタガソデソウという。町中の道ばたや荒地に咲いて、だれにも見返られないような、キク科の帰化植物が、ヒメムカシヨモギと名づけられたりするのだ。
花の名はたしかにその姿によせるひとの心をあらわしているのではないだろうか。同じように荒地を埋めるばかりでなく、人に花粉症などを起させる花をブタクサと呼んでいる。この花はアメリカでもブタクサと呼ばれるそうだ。
剣山の頂きは、野球かサッカーでも出来そうに広々としたミヤコザサの原であった。
西方に大きく落ちこんだ祖谷川の上流の谷は、平家の子孫平国盛が、安徳天皇を奉じて逃れ住んだ場所と伝えられ、阿佐家を名乗る後裔が今も赤旗と系図をまもっているという。
笹原の一部に珪岩から成る大きな岩塊があり、宝蔵岩と名づけられて、安徳天皇が剣をかくされたなどという伝説がある。平家物語では、皇位のしるしの剣は、祖母君の二位尼が腰にたばさんで入水し、義経がいくらさがさせても、鏡と|璽玉《じぎよく》は見つかったけれど、剣だけは手に入れられなかったとある。あるいはその事実から、剣はこの山の頂きにという話になったのかもしれないが、リフトで容易に登れることと言い、伝説の内容と言い、頂きの地形とも合せて、剣山は意外に人くさい山であった。それでも東側の山腹をまいて、リフトをつかわずに宿舎まで歩いて下りると、針葉樹林の中に露出した石灰岩を利用して、狭い岩頭を回ったり、鎖に頼って急崖をよじったりの行場があり、観光客のかげもなくて、ウグイスの声がしきりであった。
イタヤカエデやコハウチワカエデやコミネカエデもあって芽ぶきの緑が美しく、下草にはスズタケが密生している。モミジガサに似て、華奢で小振りのテバコモミジガサも小さく薄紫の花をつけ、薄紅いろのカノコソウも花をひらきはじめていた。この花はいつか福岡の若杉山で見つけ、ザルツブルグに近い森の中やウィーンの高山植物園で見た。
剣山にくる前に恐れていたのは大蛇にあうことであったが、祖谷の伝説や民話には大蛇にであった話が多く、阿部近一氏の『剣山』という本の「動物」の章に「マムシの外、俗にウワバミと称せられるヤマカガシの老成したものが、行場附近の石灰岩地帯に稀に見受けられる」と書かれている。そのあたりは特産のケンザンシダが多いのだが、「いまもその大蛇は出ますか」とうかがうと、阿部氏はにっこりとうなずかれた。