クロクモソウ・コバイケイソウ
もう二十年以上も前の秋に、はじめて雨の三平峠を越えて尾瀬に入った時、黒い洋傘に雨ズボンで平野長英さんが、峠の登り口で待っていてくれた。お互いにまだ六十代であったが、長英さんはたしか軽い脳溢血の予後であったと思う。それでも元気で、もう葉の落ちつくしたゴヨウツツジやタムシバの木を教えてくれ、またぜひ来られるようにとすすめた。ニッコウキスゲの満開の頃に。でも、そんな季節は、尾瀬はひとで埋まるでしょうと私が言えば、そしたら会津駒へ案内しましょう、あそこにはハクサンコザクラがいっぱい咲きます。
しかし、会津駒に私が登ったのはそれから十五年もあとである。
はじめての尾瀬の頃、長蔵小屋には、京都大学の史学科を卒業し、北海道新聞記者となっていたのが、職をやめて紀子夫人と共に小屋の仕事を助けていた長男の長靖さんが元気で、私たちへの心のこもる応対をしてくれていた。
会津駒へは深夜、新宿をバスで出発、|檜枝岐《ひのえまた》の滝沢橋で仮眠して、七時から歩き出した。急坂つづきで、三平峠より苦しい。
長靖さんを、尾瀬の自然保護のために、雪の三平峠で亡くされた長英さんも、この道を、あの三平峠を軽々と歩かれたように歩かれたであろうかとふと思った。この十五年間に、私もまた、家族に重病にかかる者があって、心身ともに疲れはてていた。
ブナの大木がところどころにそびえ、その幹のいくつかに、昭和〇年〇月〇日×××、と日と名前がほってある。その〇月は春か秋である。
会津駒ケ岳は二一三二メートル。全山秩父古生層である。滝沢橋は一〇〇〇メートル。駒小屋は二〇六〇メートル。稲妻形の急坂を休み休み登って、勾配がゆるやかになり、湿原に出たのが十二時。ここまでもクガイソウやソバナの紫、オオバミゾホオズキやイワオトギリの黄、タニギキョウ、ツマトリソウ、ゴゼンタチバナ、トチバニンジン、ノウゴウイチゴ、サンカヨウ、モミジカラマツ、ミヤマカラマツ、オオバユキザサ、タケシマラン、ツバメオモト、コバイケイソウ、イワハゼの白、ヤナギラン、ベニバナイチゴ、クロクモソウ、イワナシの赤の濃淡、アラシグサの緑などのいろとりどりの花になぐさめられながら、やっとこさっとこ、上へと来たのであった。
木道の上で昼食。湿原にはイワイチョウやミズバショウやワタスゲもある豪華さに、北海道の夕張岳か、大雪山の沼ノ平を歩いているような気持ち。小屋直下の斜面にはハクサンシャクナゲ、ニッコウキスゲ、ウラジロヨウラクと賑やかである。小屋の前は雪どけの泥濘で、また、スローテンポとなり、午後二時の到着。ここで昼食をとった仲間は、往復四キロの中門岳へいったとのこと。小屋主が署名簿を見せてくれた。前の年の七月、今西錦司さんが八十二歳で、本年三十数回目の登山と書いてある。私より七、八歳上のはず。ただただ脱帽である。
あくる朝午前二時、二人の連れと中門岳に向かった。石のがらがら道を頂上の西側を通ってゆく。雪どけの道である。雪渓をいくつか越えて下り坂となり、木道のついた湿原となる。空の雲が緋に燃えて、暁闇の空が水色の黎明となり、朱赤の朝焼け雲が池塘にかげを映すその美しさ。そして、池塘のまわりはすべてハクサンコザクラである。左手に平ケ岳の濃い緑の山容が、朝陽に映えてかがやく。まさに平ケ岳で、平らな頂きである。
小屋に帰って八時。主人に聞くと、登り口で見たブナの木の刀痕は、あそこでクマをしとめたというしるしだとか。この山には、春や秋にはクマが出るのだ。夏でもあうことがありますとおどかされて、富士見林道を、|大津岐《おおつまた》峠を経て、|麒麟手《きりんて》まで五キロ下る。ここもオオバキスミレやシナノキンバイなどの花に迎えられ見送られる。駒ケ岳の方を望むと頂上が頭で、中門岳が背の、大きな馬のような感じがする。そして明日登る|燧《ひうち》ケ岳は、大杉岳に半身を埋めながら、兜をかぶって肩をいからした古武士のような姿で、ぐんぐん眼に迫って来た。
しかし、会津駒に私が登ったのはそれから十五年もあとである。
はじめての尾瀬の頃、長蔵小屋には、京都大学の史学科を卒業し、北海道新聞記者となっていたのが、職をやめて紀子夫人と共に小屋の仕事を助けていた長男の長靖さんが元気で、私たちへの心のこもる応対をしてくれていた。
会津駒へは深夜、新宿をバスで出発、|檜枝岐《ひのえまた》の滝沢橋で仮眠して、七時から歩き出した。急坂つづきで、三平峠より苦しい。
長靖さんを、尾瀬の自然保護のために、雪の三平峠で亡くされた長英さんも、この道を、あの三平峠を軽々と歩かれたように歩かれたであろうかとふと思った。この十五年間に、私もまた、家族に重病にかかる者があって、心身ともに疲れはてていた。
ブナの大木がところどころにそびえ、その幹のいくつかに、昭和〇年〇月〇日×××、と日と名前がほってある。その〇月は春か秋である。
会津駒ケ岳は二一三二メートル。全山秩父古生層である。滝沢橋は一〇〇〇メートル。駒小屋は二〇六〇メートル。稲妻形の急坂を休み休み登って、勾配がゆるやかになり、湿原に出たのが十二時。ここまでもクガイソウやソバナの紫、オオバミゾホオズキやイワオトギリの黄、タニギキョウ、ツマトリソウ、ゴゼンタチバナ、トチバニンジン、ノウゴウイチゴ、サンカヨウ、モミジカラマツ、ミヤマカラマツ、オオバユキザサ、タケシマラン、ツバメオモト、コバイケイソウ、イワハゼの白、ヤナギラン、ベニバナイチゴ、クロクモソウ、イワナシの赤の濃淡、アラシグサの緑などのいろとりどりの花になぐさめられながら、やっとこさっとこ、上へと来たのであった。
木道の上で昼食。湿原にはイワイチョウやミズバショウやワタスゲもある豪華さに、北海道の夕張岳か、大雪山の沼ノ平を歩いているような気持ち。小屋直下の斜面にはハクサンシャクナゲ、ニッコウキスゲ、ウラジロヨウラクと賑やかである。小屋の前は雪どけの泥濘で、また、スローテンポとなり、午後二時の到着。ここで昼食をとった仲間は、往復四キロの中門岳へいったとのこと。小屋主が署名簿を見せてくれた。前の年の七月、今西錦司さんが八十二歳で、本年三十数回目の登山と書いてある。私より七、八歳上のはず。ただただ脱帽である。
あくる朝午前二時、二人の連れと中門岳に向かった。石のがらがら道を頂上の西側を通ってゆく。雪どけの道である。雪渓をいくつか越えて下り坂となり、木道のついた湿原となる。空の雲が緋に燃えて、暁闇の空が水色の黎明となり、朱赤の朝焼け雲が池塘にかげを映すその美しさ。そして、池塘のまわりはすべてハクサンコザクラである。左手に平ケ岳の濃い緑の山容が、朝陽に映えてかがやく。まさに平ケ岳で、平らな頂きである。
小屋に帰って八時。主人に聞くと、登り口で見たブナの木の刀痕は、あそこでクマをしとめたというしるしだとか。この山には、春や秋にはクマが出るのだ。夏でもあうことがありますとおどかされて、富士見林道を、|大津岐《おおつまた》峠を経て、|麒麟手《きりんて》まで五キロ下る。ここもオオバキスミレやシナノキンバイなどの花に迎えられ見送られる。駒ケ岳の方を望むと頂上が頭で、中門岳が背の、大きな馬のような感じがする。そして明日登る|燧《ひうち》ケ岳は、大杉岳に半身を埋めながら、兜をかぶって肩をいからした古武士のような姿で、ぐんぐん眼に迫って来た。