キンコウカ・ツルコケモモ
私は何よりも、山に人影の少ないことが望ましい。東京のような乱雑な町に生きていると無性に人間にあいたくなくなる。それを満たしてくれるのが山のような気がする。そして会津駒のあくる日の裏燧の登りは、日曜というのに、登山者は私たち山仲間だけで、山の閑寂さを十分に味わわしてくれた。
私たちの山仲間は長英林道を通って、表燧に登ることを二度計画し、二度とも雨で果たせなかった。
一度は見晴十字路から富士見峠を越えて戸倉に出、一度は沼田街道を沼山峠に出て、峠の休息所から帰った。おかげで、雨にぬれながらではあったけれど、雨のおかげで人も少ないままにニッコウキスゲの盛りを見、富士見峠への道ではザゼンソウの群落にあうことができた。沼山峠に出る途中の大江川湿原の左のヤナギランの丘で、長蔵小屋をひらいた平野長蔵さんのお墓にお詣りすることができた。それから一、二年して、長靖さんが、この丘に眠ることなどとは夢にも思わずに。
さて、三度目の燧ケ岳を裏から登る日は前日につづいての晴天で、七時半に御池に着いて右手の御池田代を三十分ほど歩いた。ヒオウギアヤメの多いところだが花はもう終わっていた。
八時にコメツガやトウヒやアオモリトドマツの大木が茂り、前年の台風で倒木もまたやたらに道をふさいでいる急坂を、またいだり、下をくぐったりの難行苦行で、とにかく上へ上へと高度をかせぐ。標高差八〇〇メートル、十二時には上で食事したいところである。帰りも同じ道の都合だが、帰りはいつも急がされるので、ゆきが大事と林間の植物を書きとめながらゆく。オオバヨツバムグラ、カニコウモリ、ツルアリドオシと大して珍しいものはなかったが、樹林帯が尽きて、広沢田代が一眼で見わたせる高みに立って、やれやれと一息ついた時、樹林帯と草地との|岐《わか》れ目に一本のオサバグサが白い花をうつむかせて咲いているのを発見、早池峰の向かい側の薬師岳での大群落を見て以来なので、この樹林帯のどこかに群落があるかと左右に眼を放ったが、倒木の重なりあいに足の踏み場もない感じ。県立公園なのに、この倒木の整理までは手が届かないのかなあ、そのまま朽ちさせて林の自然肥料にするのかなあなどと思いつつ、仲間の全部におくれてたった一人広沢田代から熊沢田代へと木道を登り、木道を下っていった。木道のまわりには、盛んに黄の細かい花を咲かせるキンコウカや、ようやく蕾をひらいたばかりのニッコウキスゲが咲き、小さいシクラメンのようなうす紅のツルコケモモの花がうつむいて咲いている。小灌木である。五センチほどのを示して、いつか、鳩待峠から一緒に下りて、中田代に向かう木道のそばで見つけ、平野長英さんが教えてくれた。これだけの大きさになるのに五年はかかっているでしょう。
ヒオウギアヤメもまだ花を残す湿原を過ぎて、ウラジロヨウラクの群落のある針葉樹林に入り、また急坂を倒木との格闘になる。一九八六メートル地点まで二時間かかり、一五〇〇メートルの御池から五〇〇メートル近く登ったのだが、まだあと三〇〇メートル以上は登らなければならぬ。右手に平ケ岳の大きな山容が迫り、左手に男体山や日光白根が見えて来て、山腹に雪を残した燧が頭の上からのしかかってくるようだ。針葉樹林が終わって、ヤマハンノキやダケカンバが両側に迫る雪渓があらわれ、アイゼンがないので、左手の木につかまりながら登ってゆくと、賑やかな若ものたちの声がして、高校生らしいのがシリセードで急斜面を下りてくる。老婆心がつい起こって「あぶないよ」とどなってしまった。
午前十一時に前方がひらけて尾瀬湿原がとびこんで来た。岩場をトラバースして、かっきり十二時に頂上の燧神社の前に立つ。狭い岩場は足の踏み場もない混みようである。仲間は皆十一時に着いて、長英新道を下ったと二、三人の友が教えてくれ、たいへんたいへん、あちらの道の方が楽なはず。先に着かれてはと、ころげるようにして二時間で御池に着いて、ほとんど同時到着になった。
私たちの山仲間は長英林道を通って、表燧に登ることを二度計画し、二度とも雨で果たせなかった。
一度は見晴十字路から富士見峠を越えて戸倉に出、一度は沼田街道を沼山峠に出て、峠の休息所から帰った。おかげで、雨にぬれながらではあったけれど、雨のおかげで人も少ないままにニッコウキスゲの盛りを見、富士見峠への道ではザゼンソウの群落にあうことができた。沼山峠に出る途中の大江川湿原の左のヤナギランの丘で、長蔵小屋をひらいた平野長蔵さんのお墓にお詣りすることができた。それから一、二年して、長靖さんが、この丘に眠ることなどとは夢にも思わずに。
さて、三度目の燧ケ岳を裏から登る日は前日につづいての晴天で、七時半に御池に着いて右手の御池田代を三十分ほど歩いた。ヒオウギアヤメの多いところだが花はもう終わっていた。
八時にコメツガやトウヒやアオモリトドマツの大木が茂り、前年の台風で倒木もまたやたらに道をふさいでいる急坂を、またいだり、下をくぐったりの難行苦行で、とにかく上へ上へと高度をかせぐ。標高差八〇〇メートル、十二時には上で食事したいところである。帰りも同じ道の都合だが、帰りはいつも急がされるので、ゆきが大事と林間の植物を書きとめながらゆく。オオバヨツバムグラ、カニコウモリ、ツルアリドオシと大して珍しいものはなかったが、樹林帯が尽きて、広沢田代が一眼で見わたせる高みに立って、やれやれと一息ついた時、樹林帯と草地との|岐《わか》れ目に一本のオサバグサが白い花をうつむかせて咲いているのを発見、早池峰の向かい側の薬師岳での大群落を見て以来なので、この樹林帯のどこかに群落があるかと左右に眼を放ったが、倒木の重なりあいに足の踏み場もない感じ。県立公園なのに、この倒木の整理までは手が届かないのかなあ、そのまま朽ちさせて林の自然肥料にするのかなあなどと思いつつ、仲間の全部におくれてたった一人広沢田代から熊沢田代へと木道を登り、木道を下っていった。木道のまわりには、盛んに黄の細かい花を咲かせるキンコウカや、ようやく蕾をひらいたばかりのニッコウキスゲが咲き、小さいシクラメンのようなうす紅のツルコケモモの花がうつむいて咲いている。小灌木である。五センチほどのを示して、いつか、鳩待峠から一緒に下りて、中田代に向かう木道のそばで見つけ、平野長英さんが教えてくれた。これだけの大きさになるのに五年はかかっているでしょう。
ヒオウギアヤメもまだ花を残す湿原を過ぎて、ウラジロヨウラクの群落のある針葉樹林に入り、また急坂を倒木との格闘になる。一九八六メートル地点まで二時間かかり、一五〇〇メートルの御池から五〇〇メートル近く登ったのだが、まだあと三〇〇メートル以上は登らなければならぬ。右手に平ケ岳の大きな山容が迫り、左手に男体山や日光白根が見えて来て、山腹に雪を残した燧が頭の上からのしかかってくるようだ。針葉樹林が終わって、ヤマハンノキやダケカンバが両側に迫る雪渓があらわれ、アイゼンがないので、左手の木につかまりながら登ってゆくと、賑やかな若ものたちの声がして、高校生らしいのがシリセードで急斜面を下りてくる。老婆心がつい起こって「あぶないよ」とどなってしまった。
午前十一時に前方がひらけて尾瀬湿原がとびこんで来た。岩場をトラバースして、かっきり十二時に頂上の燧神社の前に立つ。狭い岩場は足の踏み場もない混みようである。仲間は皆十一時に着いて、長英新道を下ったと二、三人の友が教えてくれ、たいへんたいへん、あちらの道の方が楽なはず。先に着かれてはと、ころげるようにして二時間で御池に着いて、ほとんど同時到着になった。