フタバアオイ
石が裂けると書いてオザクとよぶ。
その数年前に鹿沼から大芦川の谷をつめて|古峰《こぶ》ケ原へ入っていた。|古峰《ふるふね》神社の前から車道を歩き、古峰原峠から、横根山へと歩き、三枚石という三段になった巨岩の横に古峰神社の奥社があった。高原はレンゲツツジの花盛りで、北に日光の山々、西に赤城がよく見えたが、この旅で知ったのは、日光開山の勝道上人が、日光の前にこの古峰ケ原で修行したということ。古峰ケ原の東南に石裂山があり、これも開山は勝道上人とされていることである。勝道上人は平安初期のひとだが、神仏混淆の修験者として、日光に入る前に、まず石裂山、つづいて古峰ケ原にと進んでいったのだと思うと、次は石裂山に登って、修験者が、どんな山容を修験の場としてえらんだのかを知りたくなった。
石裂神社前でバスを下り、右手の杉の大樹の茂る道をゆき、加蘇山神社の横を通る。加蘇とは気になる名前である。同県内の阿蘇郡の阿蘇は百済から来た阿佐太子のことという。『続日本紀』に、|下野《しもつけ》、|上野《こうずけ》に新羅人が多数移住したとあって、何か大陸渡来を感じさせるが、ご神体は磐裂、根裂、タケミカズチと何か勇ましい。タケミカズチは『古事記』の大国主の「国譲り」に、息子のタケミナカタと戦って勝ったひとである。
タケミカズチを大和朝廷をつくった天孫族とすれば、これもやはり、先住者のいた下野を大陸から来て征服したということになろうか。
石裂山は最高峰の月山が八七九メートルと低いが、沢に入ると、ハルトラノオとフタバアオイの大群落があり、天然記念物の桂の大木がある。フタバアオイは、葵の紋に似ているので、日光東照宮のお膝元で大事にされて来たものか。沢をつめると岩場の連続で、東剣ケ峰、西剣ケ峰と通過するのに、かなりのスリル感を味わえる。月山までくると道も安全となり、すぐ眼の前に男体山、大真名子、小真名子山が迫っていて、改めて石裂山が、日光という一大修験道場の一部だということがわかる。
その数年前に鹿沼から大芦川の谷をつめて|古峰《こぶ》ケ原へ入っていた。|古峰《ふるふね》神社の前から車道を歩き、古峰原峠から、横根山へと歩き、三枚石という三段になった巨岩の横に古峰神社の奥社があった。高原はレンゲツツジの花盛りで、北に日光の山々、西に赤城がよく見えたが、この旅で知ったのは、日光開山の勝道上人が、日光の前にこの古峰ケ原で修行したということ。古峰ケ原の東南に石裂山があり、これも開山は勝道上人とされていることである。勝道上人は平安初期のひとだが、神仏混淆の修験者として、日光に入る前に、まず石裂山、つづいて古峰ケ原にと進んでいったのだと思うと、次は石裂山に登って、修験者が、どんな山容を修験の場としてえらんだのかを知りたくなった。
石裂神社前でバスを下り、右手の杉の大樹の茂る道をゆき、加蘇山神社の横を通る。加蘇とは気になる名前である。同県内の阿蘇郡の阿蘇は百済から来た阿佐太子のことという。『続日本紀』に、|下野《しもつけ》、|上野《こうずけ》に新羅人が多数移住したとあって、何か大陸渡来を感じさせるが、ご神体は磐裂、根裂、タケミカズチと何か勇ましい。タケミカズチは『古事記』の大国主の「国譲り」に、息子のタケミナカタと戦って勝ったひとである。
タケミカズチを大和朝廷をつくった天孫族とすれば、これもやはり、先住者のいた下野を大陸から来て征服したということになろうか。
石裂山は最高峰の月山が八七九メートルと低いが、沢に入ると、ハルトラノオとフタバアオイの大群落があり、天然記念物の桂の大木がある。フタバアオイは、葵の紋に似ているので、日光東照宮のお膝元で大事にされて来たものか。沢をつめると岩場の連続で、東剣ケ峰、西剣ケ峰と通過するのに、かなりのスリル感を味わえる。月山までくると道も安全となり、すぐ眼の前に男体山、大真名子、小真名子山が迫っていて、改めて石裂山が、日光という一大修験道場の一部だということがわかる。