スズラン
結婚式を一ケ月あとに控えた十月、娘時代の最後の登山に大菩薩嶺をえらんだ。弟の友人二人が一緒であった。風邪をひいていて、午後の新宿を出る時、七度五分の熱。もう半世紀以上昔のことである。私はキュロットスカートに山靴を履いてスエーターを着ていた。
バスもタクシーもない時代で、|初鹿野《はじかの》から天目山|栖雲《せいうん》寺の下を通り、八キロ歩いて嵯峨塩温泉に一泊。あくる日は日川尾根から二〇五七メートルの針葉樹林帯の頂きに着いて熱は八度。嶺の南の草紅葉の美しい斜面を横切り、裂岩からバス。すがれたシシウドの点々と朽ちかけながら立っているのが哀れをそそった。その夜帰京して七度に熱が下がり、よい空気をいっぱい吸ったからと思った。結婚してからも、青々とした大菩薩の南に傾く草原を見たい、すがすがしい白にかがやくシシウドにあいたいと思ったが、願いが叶ったのはそれから四十年たち、私は六十歳を越えていた。そして、大菩薩にはいくつもの道が通じているのを知った。中里介山が長篇小説『大菩薩峠』の舞台にえらぶのにふさわしく、甲斐と武蔵をつなぐ重要な道路の甲州街道は南の山麓を、青梅街道は北麓をめぐっている。
二度目はやはり秋の十月の紅葉の美しい時期で、大菩薩峠から北に小管まで一七キロ近く歩き、岩場の下にはナギナタコウジュやリュウノウギクが咲き残っていた。
シシウドが見たくて九月のはじめに嶺から柳沢峠まで歩き、南面の草原になつかしいシシウドの咲き残りを見つけた。アマニュウかシラネセンキュウかよくわからないものもあり、マツムシソウがいっぱいあった。
次の年の七月に天目山の右側の焼山沢に入り、焼山峠から湯ノ沢峠を右折して大蔵高丸から破魔射場丸の稜線を歩くと、ここにはコオニユリが咲き、シシウドが咲き、スズランまであって、その眺め全体が、前年に歩いたスイスの山々の牧場風景そっくりであった。
バスもタクシーもない時代で、|初鹿野《はじかの》から天目山|栖雲《せいうん》寺の下を通り、八キロ歩いて嵯峨塩温泉に一泊。あくる日は日川尾根から二〇五七メートルの針葉樹林帯の頂きに着いて熱は八度。嶺の南の草紅葉の美しい斜面を横切り、裂岩からバス。すがれたシシウドの点々と朽ちかけながら立っているのが哀れをそそった。その夜帰京して七度に熱が下がり、よい空気をいっぱい吸ったからと思った。結婚してからも、青々とした大菩薩の南に傾く草原を見たい、すがすがしい白にかがやくシシウドにあいたいと思ったが、願いが叶ったのはそれから四十年たち、私は六十歳を越えていた。そして、大菩薩にはいくつもの道が通じているのを知った。中里介山が長篇小説『大菩薩峠』の舞台にえらぶのにふさわしく、甲斐と武蔵をつなぐ重要な道路の甲州街道は南の山麓を、青梅街道は北麓をめぐっている。
二度目はやはり秋の十月の紅葉の美しい時期で、大菩薩峠から北に小管まで一七キロ近く歩き、岩場の下にはナギナタコウジュやリュウノウギクが咲き残っていた。
シシウドが見たくて九月のはじめに嶺から柳沢峠まで歩き、南面の草原になつかしいシシウドの咲き残りを見つけた。アマニュウかシラネセンキュウかよくわからないものもあり、マツムシソウがいっぱいあった。
次の年の七月に天目山の右側の焼山沢に入り、焼山峠から湯ノ沢峠を右折して大蔵高丸から破魔射場丸の稜線を歩くと、ここにはコオニユリが咲き、シシウドが咲き、スズランまであって、その眺め全体が、前年に歩いたスイスの山々の牧場風景そっくりであった。