アカバナ・ハナイカリ・ヤマラッキョウ
鉢伏山は、中央本線岡谷駅から北に一二キロ。草競馬で名高い高ボッチ高原の道を五キロほど。標高差三、四〇メートルほどのところが広場で、駐車場になる。
よく私は友だちにいう。山の花が見たくて、あなたがとても山になど登れないというなら、どうぞ塩尻の奥の鉢伏山にいって下さい。
しかし、とまた、私は言う。鉢伏山は美ケ原のように、霧ケ峰のように、すっかり人間くさくなってしまったところではなくて、原始の日本の野山はこんなに花々に満ちていたであろうと想像できる大事な大事な場所なのだから、ただ花の中を歩くだけで帰ってきて下さいと。
はじめて鉢伏山の話を聞いたのは、戦前に、ようやく歩けるようになった長男をつれて、北アルプスの展望台としての塩尻峠の旅館に泊まった時である。その部屋の窓からは、|大天井《おてんしよう》や常念や槍や穂高まで見え、今に坊やが大きくなったら、お母さんと一緒に登りましょうなどと私は言っていた。宿の主人が、もうちょっと足をのばしてこの上の高ボッチから鉢伏山へいかれたらどうですかとすすめてくれた。中央アルプス、南アルプス、八ケ岳もよく見えます。花もいっぱい咲いています。
しかし私はその旅では大町の奥の葛温泉にゆき、木崎湖にいって、鉢伏山の名だけを記憶していた。
戦後になって山の仲間で塩尻峠から鉢伏山へいったのはもう二十年前の六月である。「小鳥バス」で名高い小平万栄氏に塩尻峠で小鳥の声を学び、鉢伏山では花をという計画であったが、あいにくの雨でレンゲツツジのつぼみの固い高ボッチ高原に裏から歩いて登るのが精いっぱい。皆すべりやすい急坂でドロンコになり、鉢伏山は霧にすっぽりつつまれてしまったので、高ボッチだけを歩いて帰り、二回目は塩尻に講演にいった秋の半ば。山上旅館の百瀬氏運転の車で山上直下までゆき、展望台まで歩いて十分。快晴の秋空に、戦前、塩尻峠の宿で聞いた通りの山々が、すでに新雪をかむって、頂きの白くかがやくのを見てその素晴らしい視界の広さに、ただただ嘆声をあげるばかりであった。塩尻の西には鉢盛山の二四四六メートルが、くろぐろとした常緑のみどりに被われているのも見た。木曾義仲は木曾川沿いの木曾福島から、打倒平氏の旗をなびかし、あの鉢盛山の麓を通って、松本平を抜けて、越後路に向かったと聞くと、いつかその山にも登りたいと思った。
さて山々の眺めはよかったけれど、十月も末の鉢伏山はすっかり草が枯れていて、北斜面は霜ばしらを踏みくだいての歩きであった。
ここの華麗な花々に出あったのは、北アルプスの針ノ木岳、蓮華岳に登るため、東京から大町を目ざす途中であった。
その日のうちに大町に一泊の予定なので、鉢伏山で費やす時間は二時間。二時間から登り下りの三十分をひいて、一時間半のうちに見た花々は、すぐに五十種をこえてしまった。
カワラナデシコやアサマフウロやシオガマギクやアカバナの紅いろ。ヤマハギも多い。マルバダケブキ、オミナエシ、ミヤマアキノキリンソウ、ハンゴンソウ、ハンカイソウの黄いろ。オオバギボウシ、コバギボウシ、トリカブト、マツムシソウ、ヤマラッキョウ、カワミドリ、ルリトラノオ、クガイソウ、オヤマリンドウ、クサフジの紫。ニッコウキスゲ、コウリンカ、フシグロセンノウの朱赤。そしてハナイカリ、カワラマツバ、コゴメグサのうす緑、うす紅とただ嘆声をあげ、自然に咲く花の美しさに見とれて、ひとりでにこにこして来て、この素晴らしさをあのひとに見せたい、このひとに見せたい。この花々にかこまれたら、人間は皆ひとりでに心がきよめられ、心がうるおい、悪人は善人になるにちがいないなどと思うばかり。駐車場のところに、光明会という浄土真宗の修行用の山荘があり、松本のひと、多田助一郎さんが昭和三十八年に建設したものだという。その後何回となく、花の盛りに登ったけれど、多田氏の精神が生きていて、空きかん一つない清潔さが保たれている。
よく私は友だちにいう。山の花が見たくて、あなたがとても山になど登れないというなら、どうぞ塩尻の奥の鉢伏山にいって下さい。
しかし、とまた、私は言う。鉢伏山は美ケ原のように、霧ケ峰のように、すっかり人間くさくなってしまったところではなくて、原始の日本の野山はこんなに花々に満ちていたであろうと想像できる大事な大事な場所なのだから、ただ花の中を歩くだけで帰ってきて下さいと。
はじめて鉢伏山の話を聞いたのは、戦前に、ようやく歩けるようになった長男をつれて、北アルプスの展望台としての塩尻峠の旅館に泊まった時である。その部屋の窓からは、|大天井《おてんしよう》や常念や槍や穂高まで見え、今に坊やが大きくなったら、お母さんと一緒に登りましょうなどと私は言っていた。宿の主人が、もうちょっと足をのばしてこの上の高ボッチから鉢伏山へいかれたらどうですかとすすめてくれた。中央アルプス、南アルプス、八ケ岳もよく見えます。花もいっぱい咲いています。
しかし私はその旅では大町の奥の葛温泉にゆき、木崎湖にいって、鉢伏山の名だけを記憶していた。
戦後になって山の仲間で塩尻峠から鉢伏山へいったのはもう二十年前の六月である。「小鳥バス」で名高い小平万栄氏に塩尻峠で小鳥の声を学び、鉢伏山では花をという計画であったが、あいにくの雨でレンゲツツジのつぼみの固い高ボッチ高原に裏から歩いて登るのが精いっぱい。皆すべりやすい急坂でドロンコになり、鉢伏山は霧にすっぽりつつまれてしまったので、高ボッチだけを歩いて帰り、二回目は塩尻に講演にいった秋の半ば。山上旅館の百瀬氏運転の車で山上直下までゆき、展望台まで歩いて十分。快晴の秋空に、戦前、塩尻峠の宿で聞いた通りの山々が、すでに新雪をかむって、頂きの白くかがやくのを見てその素晴らしい視界の広さに、ただただ嘆声をあげるばかりであった。塩尻の西には鉢盛山の二四四六メートルが、くろぐろとした常緑のみどりに被われているのも見た。木曾義仲は木曾川沿いの木曾福島から、打倒平氏の旗をなびかし、あの鉢盛山の麓を通って、松本平を抜けて、越後路に向かったと聞くと、いつかその山にも登りたいと思った。
さて山々の眺めはよかったけれど、十月も末の鉢伏山はすっかり草が枯れていて、北斜面は霜ばしらを踏みくだいての歩きであった。
ここの華麗な花々に出あったのは、北アルプスの針ノ木岳、蓮華岳に登るため、東京から大町を目ざす途中であった。
その日のうちに大町に一泊の予定なので、鉢伏山で費やす時間は二時間。二時間から登り下りの三十分をひいて、一時間半のうちに見た花々は、すぐに五十種をこえてしまった。
カワラナデシコやアサマフウロやシオガマギクやアカバナの紅いろ。ヤマハギも多い。マルバダケブキ、オミナエシ、ミヤマアキノキリンソウ、ハンゴンソウ、ハンカイソウの黄いろ。オオバギボウシ、コバギボウシ、トリカブト、マツムシソウ、ヤマラッキョウ、カワミドリ、ルリトラノオ、クガイソウ、オヤマリンドウ、クサフジの紫。ニッコウキスゲ、コウリンカ、フシグロセンノウの朱赤。そしてハナイカリ、カワラマツバ、コゴメグサのうす緑、うす紅とただ嘆声をあげ、自然に咲く花の美しさに見とれて、ひとりでにこにこして来て、この素晴らしさをあのひとに見せたい、このひとに見せたい。この花々にかこまれたら、人間は皆ひとりでに心がきよめられ、心がうるおい、悪人は善人になるにちがいないなどと思うばかり。駐車場のところに、光明会という浄土真宗の修行用の山荘があり、松本のひと、多田助一郎さんが昭和三十八年に建設したものだという。その後何回となく、花の盛りに登ったけれど、多田氏の精神が生きていて、空きかん一つない清潔さが保たれている。