シナノキンバイ・オヤマノエンドウ・チングルマ・タカネミミナグサ
鹿島槍には四百種もの高山植物があるという。私たちが山ゆきの目標をきめるときは大てい、花の多い山というのを一つの標準にする。花の多い山は、花のない山より、疲れ方が少なくてすむ。花になぐさめられるのか、どんな花があるかという好奇心が次から次と足に力をそそいでくれるのか。
娘の頃は、花もろくろく見ずに、飛ばし専門であったが、体力が|萎《な》えてくると、山の花の活気が補ってくれると、私は体験的に思うのである。
はじめて立山から上高地にと歩いたとき、足弱の私を助けてくれたガイドの志鷹光次郎さんは、それまであまりくわしく知らなかった高山植物の花々の名を教えてくれたひとであった。まだダムの出来ない頃で、室堂から一ノ越に登った朝、谷々をどよもして、大きな瀬音をたてて流れる黒部川の深い谷を前にして、向かいが鹿島槍、となりが蓮華、あそこにはコマクサがある。それから左に連なる後立山は、こちらの立山連峰より花が多く、白馬にもコマクサがありますと、遠くに眼を放ってなつかしそうに言い、この次にはぜひ後立山連峰を歩いてほしい、できれば自分が案内したいとも言った。
山のどの谷にどんな花が咲いているのか、北アルプス全体を自分の庭のように、よく知っていた。
鹿島槍に登ったのはその日から十五年以上たっていて、志鷹さんは亡くなられてしまった。山のガイドをしたひとは、よく山小屋の経営者になるが、志鷹さんは、ガイド一筋で亡くなられたのである。
鹿島槍には大町から扇沢に入り、柏原新道に入って種池小屋を目指した。九月の二十四日で、その年の五月に大町の仁科中学へゆき、校庭からまだ雪のある爺ケ岳、鹿島槍を近々と見て、この夏は鹿島槍にとふるいたつ思いになった。しかし天候不順の夏で、九月半ばすぎにようやく安定したのである。中学の国語の故佐藤総一郎先生が種池小屋の主人とお知り合いとかで、まずお風呂に入らして下さいと前もってたのんだのだが、前夜に大町温泉郷に泊まり、朝八時から扇沢の右の谷をつめてゆくと、チングルマは穂になり、ベニバナイチゴは実になったが、シナノキンバイ、ゴマナ、コバイケイソウ、コキンレイカ、ミヤマダイコンソウと、まだ盛大に咲き、小屋の南面にもハクサンフウロ、ウサギギク、ミヤマキンバイ、オヤマリンドウ、カライトソウといろとりどりの花がおそい夏さながらに咲いていた。小屋の前から爺ケ岳をまいてゆく道も黄や赤の花らしいものが見える。時間も十二時であったので、せっかくのお風呂をことわって、少しでも早くもっと多くの花を見たいと急げば、爺ケ岳は二六七〇メートル。種池山荘のあたりよりも一〇〇メートルは登っていて、一面の岩礫地にオヤマノエンドウ、タカネマツムシソウ、イワベンケイ、タカネコウゾリナが咲いていたが、冷池山荘まで、一〇〇メートル下る岩礫の道にさしかかると、晴れていた空が、急に灰墨色に被われたと見る間に吹雪となった。
冷池小屋にはガタガタ震えて午後二時に走りこんだが、有り難いことに種池のご主人が連絡してくれていて、ここでお風呂に入り、明日の天気予報は晴れと聞いて安心して八時には寝てしまった。鹿島槍は爺ケ岳より二〇〇メートル高い。どんな花があるかと期待した。
そして翌朝は四時半。懐中電灯をたよりに暗い中を山頂を目ざし、五時から六時と、星が消えてうす青い空に富士山、南アルプス、中央アルプス、八ケ岳と、紺青の山々が浮かび上がるのを見ながら大失敗に気づいた。眼鏡を小屋に忘れていた。それでも午前七時、南峰について、日本海を背に立山から薬師岳まで、志鷹光次郎さんと歩いた稜線が朝陽に朱色にかがやくのを見、志鷹さん、やっと私は来ましたよと胸につぶやき、さて、足許の花をさがしたが、眼鏡のない悲しさに、白い花だけがよく目につく。タカネツメクサ、タカネミミナグサ、フジハタザオ、ヒメコゴメグサなど。
帰りは午後四時大町発の急行に乗るため、冷乗越から、ナナカマドやダケカンバの黄紅葉する赤岩尾根を、|礫《こいし》を蹴とばし蹴とばして下りて走って、大冷沢に待つバスに飛びのった。
娘の頃は、花もろくろく見ずに、飛ばし専門であったが、体力が|萎《な》えてくると、山の花の活気が補ってくれると、私は体験的に思うのである。
はじめて立山から上高地にと歩いたとき、足弱の私を助けてくれたガイドの志鷹光次郎さんは、それまであまりくわしく知らなかった高山植物の花々の名を教えてくれたひとであった。まだダムの出来ない頃で、室堂から一ノ越に登った朝、谷々をどよもして、大きな瀬音をたてて流れる黒部川の深い谷を前にして、向かいが鹿島槍、となりが蓮華、あそこにはコマクサがある。それから左に連なる後立山は、こちらの立山連峰より花が多く、白馬にもコマクサがありますと、遠くに眼を放ってなつかしそうに言い、この次にはぜひ後立山連峰を歩いてほしい、できれば自分が案内したいとも言った。
山のどの谷にどんな花が咲いているのか、北アルプス全体を自分の庭のように、よく知っていた。
鹿島槍に登ったのはその日から十五年以上たっていて、志鷹さんは亡くなられてしまった。山のガイドをしたひとは、よく山小屋の経営者になるが、志鷹さんは、ガイド一筋で亡くなられたのである。
鹿島槍には大町から扇沢に入り、柏原新道に入って種池小屋を目指した。九月の二十四日で、その年の五月に大町の仁科中学へゆき、校庭からまだ雪のある爺ケ岳、鹿島槍を近々と見て、この夏は鹿島槍にとふるいたつ思いになった。しかし天候不順の夏で、九月半ばすぎにようやく安定したのである。中学の国語の故佐藤総一郎先生が種池小屋の主人とお知り合いとかで、まずお風呂に入らして下さいと前もってたのんだのだが、前夜に大町温泉郷に泊まり、朝八時から扇沢の右の谷をつめてゆくと、チングルマは穂になり、ベニバナイチゴは実になったが、シナノキンバイ、ゴマナ、コバイケイソウ、コキンレイカ、ミヤマダイコンソウと、まだ盛大に咲き、小屋の南面にもハクサンフウロ、ウサギギク、ミヤマキンバイ、オヤマリンドウ、カライトソウといろとりどりの花がおそい夏さながらに咲いていた。小屋の前から爺ケ岳をまいてゆく道も黄や赤の花らしいものが見える。時間も十二時であったので、せっかくのお風呂をことわって、少しでも早くもっと多くの花を見たいと急げば、爺ケ岳は二六七〇メートル。種池山荘のあたりよりも一〇〇メートルは登っていて、一面の岩礫地にオヤマノエンドウ、タカネマツムシソウ、イワベンケイ、タカネコウゾリナが咲いていたが、冷池山荘まで、一〇〇メートル下る岩礫の道にさしかかると、晴れていた空が、急に灰墨色に被われたと見る間に吹雪となった。
冷池小屋にはガタガタ震えて午後二時に走りこんだが、有り難いことに種池のご主人が連絡してくれていて、ここでお風呂に入り、明日の天気予報は晴れと聞いて安心して八時には寝てしまった。鹿島槍は爺ケ岳より二〇〇メートル高い。どんな花があるかと期待した。
そして翌朝は四時半。懐中電灯をたよりに暗い中を山頂を目ざし、五時から六時と、星が消えてうす青い空に富士山、南アルプス、中央アルプス、八ケ岳と、紺青の山々が浮かび上がるのを見ながら大失敗に気づいた。眼鏡を小屋に忘れていた。それでも午前七時、南峰について、日本海を背に立山から薬師岳まで、志鷹光次郎さんと歩いた稜線が朝陽に朱色にかがやくのを見、志鷹さん、やっと私は来ましたよと胸につぶやき、さて、足許の花をさがしたが、眼鏡のない悲しさに、白い花だけがよく目につく。タカネツメクサ、タカネミミナグサ、フジハタザオ、ヒメコゴメグサなど。
帰りは午後四時大町発の急行に乗るため、冷乗越から、ナナカマドやダケカンバの黄紅葉する赤岩尾根を、|礫《こいし》を蹴とばし蹴とばして下りて走って、大冷沢に待つバスに飛びのった。