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花の百名山167

时间: 2020-06-28    进入日语论坛
核心提示:小松原湿原《こまつばらしつげん》   ウラジロヨウラク・トキソウ・オノエラン・モウセンゴケ 苗場山の高層湿原は、尾瀬湿原
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小松原湿原《こまつばらしつげん》
   ウラジロヨウラク・トキソウ・オノエラン・モウセンゴケ
 
 苗場山の高層湿原は、尾瀬湿原と共にまだゆかないうちからあこがれていた。
草に被われた地平線が空に続き、ところどころに小灌木の茂みがある。まだフイルムが白黒ばかりの時から、その水墨画のような風景は、そこに身をおいてみたいという願いをつのらせたものである。小鳥と湿原の中を流れる川のせせらぎと、まわりの山々の木々を過ぎゆく風の音の外、何の物音もしない静寂な世界。足許には湿原の花々が咲いている。
空に白い雲がうっすらと流れて、湿原が成立するまでの悠久の時間が、一瞬に自分のいのちの中を走り去ってゆく。静寂。その中で、ひとは何を思うか。などなど、あこがれは果てしなくひろがっていったが、戦後にあちらこちらの山々を歩きまわってみると、湿原は苗場や尾瀬だけでなく、ときにそれらより心惹かれるものがあると知った。たとえば暑寒別岳の裾の雨龍沼。田代山の頂上の高層湿原。火打山の高谷池周辺、秋田駒の|千沼《せんしよう》ケ原。豊橋の|葦毛《いもう》湿原。南会津の|駒止《こまと》湿原など。そしてそれは、すべて尾瀬よりはひとが少ないので私には魅力があった。また、苗場山でいえば、その湿原より|祓《はらい》川からの途中の神楽ケ峰を左に、霧ノ塔の一九九四メートルを越え、日陰山の一八四〇メートルの三つのピークを過ぎたとき、眼の下にひろがる小松原湿原の方が、ずっと私に大きなおどろきを与えてくれた。
苗場山はウラジロヨウラクが群生していて、その紅紫の花の、たっぷりとついたのが素敵だ。ヨウラクツツジは、安達太良山にもあったが、それは急坂の両側に、ドウダンツツジやベニドウダンなどにまじっていた。ここのはほとんどがウラジロヨウラクなので、その優雅さが引きたつようであった。しかし花はツルコケモモやタテヤマリンドウやワタスゲ、イワイチョウぐらいきり眼に入らず、かえって雷清水からの鞍部のオノエランやハクサンフウロやタカネナデシコなどがみごとであった。湯沢の鈴木牧之が書いた『北越雪譜』にお|花圃《はなばたけ》としていることを思い出し、百五十年以上もたって、なお、お花畑が健在なのに感激した。
しかしオノエランをのぞいては、はじめてみる花はなく、小松原湿原に入って、まず一面のイグサやカヤが緑も鮮やかに生い茂る中に池塘が点々とし、そのまわりに朱赤の色のモウセンゴケが盛りあがるように水をかこんでいる不気味さに息をのまれた。モウセンゴケはあちらこちらにあがって、飛んでくる羽虫を待っているのだが、眼に入る限りが緑色の中に朱赤の大きな輪が点在し、そのまん中に、空の色を映す水が青々としずまりかえっていると、その水さえ底しれぬもののように不気味である。モウセンゴケは羽虫をとらえ、水はのぞきこむひとをずるずるとその中におびきよせようとするのではないか。草の緑を囲んで濃い緑のシラビソやコメツガの林がある。それはいったんこの緑の草原に入ったら、一歩も前に出すまいとする城壁にも似ていた。
私は自然にこころがあるとは思っていない人間だけれど、ときにあまりにも美しい自然にあうと神秘というよりは恐怖を感じてしまう。その美しさに釘づけられてそこにたちつくし、そこから出られなくなって、心身の力が尽きはてるまで、この中を彷徨して朽ち果ててしまうのではないかと。
救いはその池塘と池塘の間のイグサの中に、サワランやトキソウの紅の濃淡がいろどりを添えていること。高山植物の店に売られているトキソウよりもイキイキとしているだけでもすばらしい。サワランは尾瀬でも田代山でも見たが、トキソウははじめて。サワランの華やかさに対して、やや花も小振りに、色も淡いトキソウは見のがしたのかもしれない。
鳥のトキの色にも似ているこの花が、高山植物専門の泥棒に盗まれ、鳥のトキのように絶滅しないことを祈りたい。小松原湿原は幾段にもなって流れてきた熔岩台地であろうか。一つを過ぎると倒木が多い樹林帯と深い熊笹の藪を下ってまた一つ。また樹林帯を下ってまた一つとあり、最後は秘境の秋山郷に辿り着く。
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