ヒメサユリ・タニギキョウ
守門岳を下りて浅草岳の麓の音松荘に泊まってマムシの話をすると、守門より浅草岳の方がもっとマムシが多いと言った。『平ケ岳』という本には平ケ岳にマムシがいることが書かれていて、越後の山々は雪が多く、夏も湿気が絶えないから、蛇の類にはよい棲みかなのであろう。もう十年以上の昔になる。只見の皆川旅館のご主人に浅草岳をすすめられた。ヒメサユリが咲いています。
ヒメサユリの花はまだ見たことがなかった。戦争中に鳥取に疎開して、買い出しに歩く山道で清々しい花の香りにあい、見ると、うす紅のかわいいユリの一輪があって、ササユリと教えられた。葉が笹の葉のような形をしている。ササユリは大杉谷でも、|船上《せんじよう》山でも、新潟の角田山でも見かけていて、その香りがヤマユリほど強くなくてすがすがしかった。ヒメサユリはどんな香りがするのか。
音松荘の夜は豪雨の音で眼がさめたが、翌朝は雨が弱まったので、いつもの通りの雨天決行の支度をする。マイクロバスを五味沢までまわして、ブナの大木の間の狭い急坂を登っていった。頂上まで五キロである。標高差は二〇〇メートル。急登がつづいて雨が大粒の本降りになり、雨ならマムシが出ないと安心しながらも、渓流のように流れ落ちる雨水が雨衣を通して肌着までぬれて来た。ブナやダケカンバの茂りあう、暗い道から稜線に出て、嘉平与ボッチの一四八五メートルには八時半につく。風が両方の谷から吹き上げてくる。前岳の一五五六メートルで九時。ヒメサユリは嘉平与ボッチの左斜面に群生していて、かわいい花というよりはたくましい感じである。匂いはササユリより淡い。先にいったひとたちが戻って来ていった。「頂上にはマムシは一匹もいませんでした」。
頂上まで標高差三〇メートル。雨量測定の施設がある。じつはそのあたりにマムシがウジャウジャいると聞いたのであった。タニギキョウの群落が雨にぬれそぼっている中をゆっくりと登った。しかし雨はいよいよ激しく、もうヒメサユリも見たから結構と、私は前岳の草地に傘をさしかけて停滞した。ネコに噛まれ、マムシにも噛まれたらどうしようもない。
私の学生時代の友人に私より山に強いひとがいて、ヨーロッパアルプスにもよく出かけている。
いつかあった時に蛇をこわがる私をわらって言った。蛇がこわくて山が歩けるの? 私は蛇が出てくると、よく出て来たねって、首から下を撫でてやるのよ、手のひらで。蛇は人間の体温が好きだからよろこんで、そこで棒のように一直線になるのよ、とてもかわいいものよ。一度やってごらんなさい。しかしマムシは気性が荒いので撫でないと彼女は言った。そのようにすすめられ、いつか機会を見てと思っているけれど、まだ実験には至っていない。
前岳でやせ尾根に咲くヒメサユリの花がいっせいに北をむいているのをおもしろく眺めていた。雨は南からくる。花は雨を避けている。その知慧に感心した。ヒメサユリは葉も茎も頑丈である。平地に咲くオニユリやコオニユリは、もっと花も大きく、花の色も濃いが、直立した茎の丈が高いから、これほどの強い雨や風に耐えられるかどうか。
高山植物が何故平地の花より美しいか。地味のやせた岩礫地帯に、風雪をしのいで精いっぱいに咲くからだと聞いた。守門岳も浅草岳も苗場山も小松原湿原も、安山岩熔岩によってできている。
雨がいっそう降りつのって来て、傘を持つ手が寒さにかじかみ、高さは低くても上越の山は東北圏に入るのだと思いつつ、ブナの大木の茂るごろごろ岩礫の道を二時間で下りた。ブナの樹肌には会津駒と同じにクマをとったひとの年月と名がきざまれている。ブナの実はクマの好物である。タニギキョウに見送られて下山。この花は四国の石鎚山の|面河《おもご》渓谷ではじめて知った。
ヒメサユリの花はまだ見たことがなかった。戦争中に鳥取に疎開して、買い出しに歩く山道で清々しい花の香りにあい、見ると、うす紅のかわいいユリの一輪があって、ササユリと教えられた。葉が笹の葉のような形をしている。ササユリは大杉谷でも、|船上《せんじよう》山でも、新潟の角田山でも見かけていて、その香りがヤマユリほど強くなくてすがすがしかった。ヒメサユリはどんな香りがするのか。
音松荘の夜は豪雨の音で眼がさめたが、翌朝は雨が弱まったので、いつもの通りの雨天決行の支度をする。マイクロバスを五味沢までまわして、ブナの大木の間の狭い急坂を登っていった。頂上まで五キロである。標高差は二〇〇メートル。急登がつづいて雨が大粒の本降りになり、雨ならマムシが出ないと安心しながらも、渓流のように流れ落ちる雨水が雨衣を通して肌着までぬれて来た。ブナやダケカンバの茂りあう、暗い道から稜線に出て、嘉平与ボッチの一四八五メートルには八時半につく。風が両方の谷から吹き上げてくる。前岳の一五五六メートルで九時。ヒメサユリは嘉平与ボッチの左斜面に群生していて、かわいい花というよりはたくましい感じである。匂いはササユリより淡い。先にいったひとたちが戻って来ていった。「頂上にはマムシは一匹もいませんでした」。
頂上まで標高差三〇メートル。雨量測定の施設がある。じつはそのあたりにマムシがウジャウジャいると聞いたのであった。タニギキョウの群落が雨にぬれそぼっている中をゆっくりと登った。しかし雨はいよいよ激しく、もうヒメサユリも見たから結構と、私は前岳の草地に傘をさしかけて停滞した。ネコに噛まれ、マムシにも噛まれたらどうしようもない。
私の学生時代の友人に私より山に強いひとがいて、ヨーロッパアルプスにもよく出かけている。
いつかあった時に蛇をこわがる私をわらって言った。蛇がこわくて山が歩けるの? 私は蛇が出てくると、よく出て来たねって、首から下を撫でてやるのよ、手のひらで。蛇は人間の体温が好きだからよろこんで、そこで棒のように一直線になるのよ、とてもかわいいものよ。一度やってごらんなさい。しかしマムシは気性が荒いので撫でないと彼女は言った。そのようにすすめられ、いつか機会を見てと思っているけれど、まだ実験には至っていない。
前岳でやせ尾根に咲くヒメサユリの花がいっせいに北をむいているのをおもしろく眺めていた。雨は南からくる。花は雨を避けている。その知慧に感心した。ヒメサユリは葉も茎も頑丈である。平地に咲くオニユリやコオニユリは、もっと花も大きく、花の色も濃いが、直立した茎の丈が高いから、これほどの強い雨や風に耐えられるかどうか。
高山植物が何故平地の花より美しいか。地味のやせた岩礫地帯に、風雪をしのいで精いっぱいに咲くからだと聞いた。守門岳も浅草岳も苗場山も小松原湿原も、安山岩熔岩によってできている。
雨がいっそう降りつのって来て、傘を持つ手が寒さにかじかみ、高さは低くても上越の山は東北圏に入るのだと思いつつ、ブナの大木の茂るごろごろ岩礫の道を二時間で下りた。ブナの樹肌には会津駒と同じにクマをとったひとの年月と名がきざまれている。ブナの実はクマの好物である。タニギキョウに見送られて下山。この花は四国の石鎚山の|面河《おもご》渓谷ではじめて知った。