カライトソウ・ウサギギク・タマガワホトトギス
はじめて立山から上高地へと歩くために美女平から弥陀ケ原、天狗平と登ってゆくとき、前面に立山連峰、左手に大日連峰がまだ雪をかぶって、私を見まもっていた。
大日とは大日如来のことであろう。地獄谷とか弥陀ケ原とか浄土とか薬師とか、立山周辺には立山権現布教のためにつけられた仏教的な名前が多く、奈良時代の開山伝説以来、平安時代から江戸にかけて、全国的な信仰登山の対象になり、信者たちは|芦峅寺《あしくらじ》に住む先達にひきいられて登山した。
先達は修験者であり、志鷹光次郎さんの志鷹姓と佐伯民一さんの佐伯姓がほとんどで、開山は国司の息子の佐伯有頼になっている。白鷹を追って山に導かれ、山頂で阿弥陀如来に出あったということになっているのだが、立山の神変じて仏になるということで、いかにも神仏混淆説らしい伝承である。現在のアルペン黒部ルート開設が、年間百万人近い人間を運ぶというのも、立山詣りを目的とするひとが多いからであろう。
前夜は室堂の「ホテル立山」に一泊。三十年近い昔の雷鳥沢の小屋や室堂小屋を思い出すと、百年も一挙に時間が経過したような気がした。
翌朝の室堂乗越へと下る道でも、雪どけのぬかるみを山靴でなく、ローヒールにスカートの女のひとたちが苦労して歩いている。立山火山噴火のあとを見せる硫気孔だけが健在で、自然のおそろしさを見せている。
ホテルから室堂乗越まで一時間。何か温泉町の裏通りを抜けて急に山中にとびこんだ感じ。人間の姿が小さくなるにつれて、大自然の豪壮とも言いたい眺めが一望の下にひろがってくる。
盛夏の七月というのに、二六一一メートルの奥大日への稜線の北側は雪渓、左の南面だけに花々が咲いていた。ホテルからここまで約六キロ、標高差四〇〇メートル。
南から西にかけて、称名川の上廊下の深い谷が、これも半ば雪に埋もれて岩の城壁のように連なって壮観である。うしろには剣岳の峻峰が王者のような威厳をもってセリ上がってくる。
咲き乱れる花は奥大日までに三十種類にもなって、オヤマリンドウ、コバイケイソウ、シナノキンバイ、サンカヨウ、キヌガサソウ、タケシマランと、高山植物園の中を通ってゆくようである。昼食をとった奥大日の頂き周辺にもカライトソウ、ウサギギク、トウヤクリンドウなど二十種類ぐらいが咲いている。
中大日にゆく途中で、富山大学の女子学生にあう。一人で、この山のバラ科の植物を調べているという。ベニバナイチゴ、ゴヨウイチゴ、ミヤマダイコンソウ、チングルマ、カライトソウ、ハゴロモグサと一緒に数えた。ナナカマドもバラ科であることを教えてもらった。
その夜は杉田三江子さんの大日小屋泊まり。室堂を出てここまで一五キロ、地図のコースタイム五時間を、七時間かけていた。
翌朝は称名川の谷まで一一〇〇メートルを一四キロ以上歩いて下るのである。地図のコースタイムは登り十二時間、下り七時間。私は八時間かかった。しかしこの八時間には、ほとんど疲労感がなく、花と雪にかこまれ、心身ともに爽快であった。途中に大日平山荘がある。ぽつんと一つ、草原の中の山小屋で、三十年前の長い山旅で一緒だった佐伯民一さんに出あうとは。二十代だった民一さんは五十代、四十代だった私は七十代をこえていた。野ぶどうの手づくりワインで乾杯し、再会を期して別れる。民一さんはこの小屋には風呂があると言ってくれた。急降下つづきの道で見たタマガワホトトギスの黄やアカヤシオの紅のきれいだったこと。
下山して称名川をわたり、称名ノ滝を見にいった。三段にわかれて落下する三五〇メートルは日本一である。古代の日本人が自然の中に神の存在を信じたという気持ちが少しわかったような気がした。この山行は山と渓谷社の企画による「高山植物を見る山旅」でその数五十種を超えた。
大日とは大日如来のことであろう。地獄谷とか弥陀ケ原とか浄土とか薬師とか、立山周辺には立山権現布教のためにつけられた仏教的な名前が多く、奈良時代の開山伝説以来、平安時代から江戸にかけて、全国的な信仰登山の対象になり、信者たちは|芦峅寺《あしくらじ》に住む先達にひきいられて登山した。
先達は修験者であり、志鷹光次郎さんの志鷹姓と佐伯民一さんの佐伯姓がほとんどで、開山は国司の息子の佐伯有頼になっている。白鷹を追って山に導かれ、山頂で阿弥陀如来に出あったということになっているのだが、立山の神変じて仏になるということで、いかにも神仏混淆説らしい伝承である。現在のアルペン黒部ルート開設が、年間百万人近い人間を運ぶというのも、立山詣りを目的とするひとが多いからであろう。
前夜は室堂の「ホテル立山」に一泊。三十年近い昔の雷鳥沢の小屋や室堂小屋を思い出すと、百年も一挙に時間が経過したような気がした。
翌朝の室堂乗越へと下る道でも、雪どけのぬかるみを山靴でなく、ローヒールにスカートの女のひとたちが苦労して歩いている。立山火山噴火のあとを見せる硫気孔だけが健在で、自然のおそろしさを見せている。
ホテルから室堂乗越まで一時間。何か温泉町の裏通りを抜けて急に山中にとびこんだ感じ。人間の姿が小さくなるにつれて、大自然の豪壮とも言いたい眺めが一望の下にひろがってくる。
盛夏の七月というのに、二六一一メートルの奥大日への稜線の北側は雪渓、左の南面だけに花々が咲いていた。ホテルからここまで約六キロ、標高差四〇〇メートル。
南から西にかけて、称名川の上廊下の深い谷が、これも半ば雪に埋もれて岩の城壁のように連なって壮観である。うしろには剣岳の峻峰が王者のような威厳をもってセリ上がってくる。
咲き乱れる花は奥大日までに三十種類にもなって、オヤマリンドウ、コバイケイソウ、シナノキンバイ、サンカヨウ、キヌガサソウ、タケシマランと、高山植物園の中を通ってゆくようである。昼食をとった奥大日の頂き周辺にもカライトソウ、ウサギギク、トウヤクリンドウなど二十種類ぐらいが咲いている。
中大日にゆく途中で、富山大学の女子学生にあう。一人で、この山のバラ科の植物を調べているという。ベニバナイチゴ、ゴヨウイチゴ、ミヤマダイコンソウ、チングルマ、カライトソウ、ハゴロモグサと一緒に数えた。ナナカマドもバラ科であることを教えてもらった。
その夜は杉田三江子さんの大日小屋泊まり。室堂を出てここまで一五キロ、地図のコースタイム五時間を、七時間かけていた。
翌朝は称名川の谷まで一一〇〇メートルを一四キロ以上歩いて下るのである。地図のコースタイムは登り十二時間、下り七時間。私は八時間かかった。しかしこの八時間には、ほとんど疲労感がなく、花と雪にかこまれ、心身ともに爽快であった。途中に大日平山荘がある。ぽつんと一つ、草原の中の山小屋で、三十年前の長い山旅で一緒だった佐伯民一さんに出あうとは。二十代だった民一さんは五十代、四十代だった私は七十代をこえていた。野ぶどうの手づくりワインで乾杯し、再会を期して別れる。民一さんはこの小屋には風呂があると言ってくれた。急降下つづきの道で見たタマガワホトトギスの黄やアカヤシオの紅のきれいだったこと。
下山して称名川をわたり、称名ノ滝を見にいった。三段にわかれて落下する三五〇メートルは日本一である。古代の日本人が自然の中に神の存在を信じたという気持ちが少しわかったような気がした。この山行は山と渓谷社の企画による「高山植物を見る山旅」でその数五十種を超えた。