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花の百名山180

时间: 2020-06-28    进入日语论坛
核心提示:笠《かさ》ケ|岳《たけ》   ミヤマダイコンソウ・シナノキンバイ・ヒメレンゲ 登りたい山は、ひとにすすめられるのと、自分
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笠《かさ》ケ|岳《たけ》
   ミヤマダイコンソウ・シナノキンバイ・ヒメレンゲ
 
 登りたい山は、ひとにすすめられるのと、自分であの山と思いこんだのとある。また、思いこんで登って期待の裏切られる山と、予想以上にすばらしい思いを心に残す山がある。そういう山は下りるとすぐにまわれ右して、また登りかえしたくなる。
二十代の半ばに赤城山にたった一人でうす紫のうすものの明石という絹の着物に、朱と銀のウロコ模様の綴れの帯、言わば歌舞伎座にそのまま直行できるような晴れ着姿で登った私は、赤城山を、明治神宮の外苑を散歩するような気らくな山と考えていたのである。そしてまたずい分な体力であったと思う。絹のクリーム色のパラソルをかざし、牛革の|草履《ぞうり》のままスタスタと登り、大沼でボートをこいでさして疲れもせずに下りて来たが、バスに乗って前橋駅に出るまで、遠ざかる赤城山を見ながら涙が溢れて来て困った。バスを下りて走りもどりたいようななつかしさであった。立山から上高地までの山旅で、双六から西鎌尾根は疲れはてて四つん這いになって、クマのような恰好で登ったのに、そのあと一ケ月して大腿骨の骨折をしてそのあと五、六年も山に登れなくなり、三年目ぐらいに蒲田川の谷まで車で来て、西鎌尾根を見上げた時も涙が溢れ出て岩峰が涙にぼやけてしまった。苦しかった山。それはまた、らくに登れた山と同じような魅力で私をとらえる。笠ケ岳は黒部五郎、双六の頂きから、西の空にぽつんと一つ、三角のかたちにそびえているのが何かさびしそうで、いつも山肌に手をふれたい思いをかきたてた。何度目かに槍に登って、槍平から新穂高温泉にむかって下って来たとき、夕映えを受けて、笠ケ岳から錫杖岳への岩稜が、ブナやダケカンバの木梢越しに朱赤にかがやきわたっているのを見た時、さびしいなんてとんでもないこと、笠ケ岳はみずみずしく若々しく、いのちの燃えたっているような山だと思った。
白馬の大雪渓から蓮華温泉に下り、二キロの増量を波乗りでおとして十日して、十数人の仲間と笠ケ岳を目ざした。神岡営林署や土岐市役所のひとが助っ人である。
いつか群馬の子持山で、遭難ではなくて、雨のため別の道を通って、帰りが五時間おくれたとき、テレビと新聞にニュースが出て、百通ほどの投書があり、七割は非難で「いい年をして山に登るよりお墓詣りしなさい」というのや「お伴をつれての登山などぜいたくだ」というのが多かったが、いつか北岳で友人がころんで|大樺《おおかんば》沢で暗くなって下りた時、広河原山荘の塩沢久仙氏が言ってくれた。「中高年者の登山は前に助っ人を用意しておくべきです。協力は惜しみません」と。私は娘時代をのぞいては、まだ単独行や助っ人なしの山登りをしたことがない。
さてその日はワサビ平から小池新道を経て鏡平で一泊。翌日は大ノマ乗越、秩父平、抜戸岳を経て肩の小屋に。雨と風の中ではあったが、合計十二時間かかって、これはコースタイムの二倍近い。穂苅貞雄氏の『播隆』によれば、美濃のひと円空上人は、元禄八年(一六九五)の六十四歳での死の直前に笠ケ岳に登っている。何時間かかったことであろう。私はそのとき七十代の半ばを過ぎていた。
小池新道は何度も通ったが、石の間にヒメレンゲが咲き、秩父平はミヤマダイコンソウやシナノキンバイの大群落でその花のじゅうたんにすわって一時間ぐらいねたかった。このお花畑ではつい最近のこと、クマが登山者と格闘している。登山者が勝って、クマは逃げたけれど、新聞の記事を読んだ時、自分だったらどうしたであろうと思った。稜線は風に吹かれっぱなしで、ハイマツの下にリンネソウの健気に咲いているのを見ながら元気を出した。
雨のために小屋に二泊。来年は文政年間に播隆上人が六十六人をつれて、道標として石仏を据えつけたというクリヤ谷を登ったらなどと小屋のひとにすすめられた。三日目に晴れて、笠新道の下りは七時間。コースタイムの一倍半ですみ、メノマンネングサやクロトウヒレンの花などを見て、蛇の二、三匹には出あったけれど、今夜は新穂高泊まり。また、明日登れたらよいのにと思いながら下った。
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