イチヤクソウ
小谷山は琵琶湖の北に四九四・四メートルの高さを持ち、脇北国往還をはさんで、虎御前山の二二四メートルと一キロ未満の距離で向かいあっている。
天正元年(一五七三)八月、城主の浅井長政は妻のお市の兄である織田信長の家来である羽柴秀吉軍に攻めたてられ、内部の裏切りによって落城。父の久政の切腹につづいて、二十九歳の若さで切腹、事前にお市を三人の娘と共に敵方にわたした。
はじめてこの城址の山に登ったのは二十年前の早春であった。山腹の三〇〇メートルぐらいにある番所あとまで車が入り、マンサクの花が咲いて、まだ木々の芽が固かった。お茶屋跡から桜馬場へと登ってゆく途中に、首据石などと裏切った家来の首をおいたという不気味な石がある。桜馬場のまわりにサクラの大木がたくさんあり、同行の郷土史家伏木貞三氏が青い萼に白い花の咲くヤマザクラだという。花が咲いたら教えて下さい、飛んで来ますとたのんだ。伏木さんは浅井長政の子孫とのことで、小谷山麓の小谷寺に、淀殿となった長女のお茶々が奉納したという、長政像そっくりの温厚な方である。
お市が娘たちといたお局屋敷は本丸址の下にあり、カエデの木がいっぱいある。本丸、中ノ丸へと登る石垣までの空地には、花盛りのヤブツバキとカエデのいずれも大木があり、伏木さんの話では、五、六年前に整備されるまでは草ぼうぼうで、これらの木々は自然に生えたものだとか。イチヤクソウの青い葉が点々とあって、だれもとらないのは、麓のひとたちがこの山を大事にしているからとのことであった。桜馬場から右に下ると、長政が切腹した赤尾屋敷址があり、タチツボスミレのうす紫が地表を埋めていた。
青白い花のヤマザクラが咲いたという知らせに、また登ったのは次の年である。北の鞍部から頂上の大嶽に登ったのは数年前だが、越前みちと矢じるしされた鞍部はイワウチワの大群落なのであった。朝倉勢はここを通って救援に来たのかと感慨無量で、道も埋めて咲くうす紅の花を眺めた。
天正元年(一五七三)八月、城主の浅井長政は妻のお市の兄である織田信長の家来である羽柴秀吉軍に攻めたてられ、内部の裏切りによって落城。父の久政の切腹につづいて、二十九歳の若さで切腹、事前にお市を三人の娘と共に敵方にわたした。
はじめてこの城址の山に登ったのは二十年前の早春であった。山腹の三〇〇メートルぐらいにある番所あとまで車が入り、マンサクの花が咲いて、まだ木々の芽が固かった。お茶屋跡から桜馬場へと登ってゆく途中に、首据石などと裏切った家来の首をおいたという不気味な石がある。桜馬場のまわりにサクラの大木がたくさんあり、同行の郷土史家伏木貞三氏が青い萼に白い花の咲くヤマザクラだという。花が咲いたら教えて下さい、飛んで来ますとたのんだ。伏木さんは浅井長政の子孫とのことで、小谷山麓の小谷寺に、淀殿となった長女のお茶々が奉納したという、長政像そっくりの温厚な方である。
お市が娘たちといたお局屋敷は本丸址の下にあり、カエデの木がいっぱいある。本丸、中ノ丸へと登る石垣までの空地には、花盛りのヤブツバキとカエデのいずれも大木があり、伏木さんの話では、五、六年前に整備されるまでは草ぼうぼうで、これらの木々は自然に生えたものだとか。イチヤクソウの青い葉が点々とあって、だれもとらないのは、麓のひとたちがこの山を大事にしているからとのことであった。桜馬場から右に下ると、長政が切腹した赤尾屋敷址があり、タチツボスミレのうす紫が地表を埋めていた。
青白い花のヤマザクラが咲いたという知らせに、また登ったのは次の年である。北の鞍部から頂上の大嶽に登ったのは数年前だが、越前みちと矢じるしされた鞍部はイワウチワの大群落なのであった。朝倉勢はここを通って救援に来たのかと感慨無量で、道も埋めて咲くうす紅の花を眺めた。