シロバナエンレイソウ
戦中、戦後の数年間は、夫の両親の故郷の、鳥取市に住んだ。池田藩三十二万石の城下町は、まだ江戸時代の面影を残していて、人口五万の町の真うしろにある城あとの山の久松山に登ると、眼下にくろぐろとした瓦の家並みが連なり、町の南を氷ノ山|後山那岐山《うしろやまなぎせん》国定公園に属する山々の水を集める千代川が、川口に広大な砂丘をつくって日本海に流入するのが見え、西に|伯耆《ほうき》|大山《だいせん》、南東に氷ノ山、|扇《おうぎ》ノ|山《せん》を望むことが出来た。
東京生まれ、東京育ちの私は東京が恋しく、あの氷ノ山、扇ノ山の向こうに東京があると、いつもその重なりあう紺青の山なみのあなたに、遠く眼を放ってなつかしんだ。
那岐山は鳥取県と岡山県の南の県境にあって一二四〇メートル。北の山腹にシャクナゲの群落があって有名だが、レンゲツツジが南の山腹をいろどる頃に、奈義町の役場のひとびとと、支峰の大神岩の一〇〇〇メートルまで登った。
兵庫県との東の境にある氷ノ山の一五一〇メートルには、つい最近の晩秋に、松葉ガニで名高い浜坂町の「加藤文太郎を語る会」のひとたちに案内されて登った。大江山に登ったあくる日である。
浜坂は海岸線が美しく、町の中に温泉が湧くという素敵な町だが、その網元の家に、明治三十八年(一九〇五)生まれた加藤文太郎の名で忘れ難い。その著の『単独行』は、「足が早すぎて、ほかのひとに気を使わせるから、さびしいけれど独りで歩く」と言った、加藤文太郎の心やさしさに溢れた山行の記録で、その健脚は、浜坂と勤め先の神戸の現在の三菱造船との間の一九〇キロを、一昼夜で歩き通し、三俣蓮華から槍から、|徳本《とくごう》峠越えをして松本までを、一日で歩いたというほどであった。七〇キロは超える。
加藤文太郎は、昭和五年の一月の剣沢の小屋で、東大のOBたちに宿泊をことわられ、一人で下山して来て雪崩にあわずにすんだ。
しかし昭和十一年一月、友と二人で登った槍の北鎌尾根で、猛吹雪にあって死ぬのである。友の名は吉田富久。二十七歳。文太郎は三十一歳であった。
氷ノ山から扇ノ山への単独縦走でも、吹雪にあって死にそうになって涙をこぼしたと『単独行』にある。氷ノ山は浜坂から近く、その北東の鉢伏山と共に、文太郎の庭のような山であったという。「加藤文太郎を語る会」は、文太郎の篤実な人柄を追慕し、その強靭な意志と勇気と体力を岳人の模範として仰ぐ会である。冬のマッキンレーに消えた植村直己は隣町の香住のひとで、文太郎の崇拝者であったという。
さて、鳥取市には十二月のはじめに雪が降る。しかし久松山の頂きから見る大山も氷ノ山ももう十一月は白雪にかがやく。私の登った日も、前々日の雪が|関宮《せきのみや》町福定から大段ケ|平《なる》までの林道に残り、道はぬかるみとなり、凍てついた雪はアイスバーンになっていた。
扇ノ山と共に、海底火山の隆起したものという氷ノ山はスキー場としても有名で、十二月にもなれば、スキー客で賑わうのであろうが、この日の登山者は私たちだけで、背丈を超える熊笹藪の中の道を、標高差五〇〇メートルほど、三時間かかって頂上のロッジに着いた。途中にはブナ林と、野生だという杉の大木の茂みがあり、ツルリンドウの赤い実が、雪の中から顔を出し、|古生《こせ》沼という湿原は水も|涸《か》れて、ミヤマアキノキリンソウやゴマナの花がら、シロバナエンレイソウやミヤマハンショウヅルの枯れ葉が目立つ。
鉢伏山は、頂上から走り下りてでもゆきたいような間近さで、加藤文太郎をしのぶためには、ぜひ今度は鉢伏から氷ノ山にと思ったことであった。その高原は植生のゆたかさでも知られている。エンレイソウの花は白かえんじか。北海道の室蘭山や早池峰ではえんじの花であった。ハンショウヅルはカザグルマと共に、野生のツル科の花でもっとも美しいが、カナディアンロッキーにいったとき、民家の垣根に、うす紫でなく、黄いろのがあった。
東京生まれ、東京育ちの私は東京が恋しく、あの氷ノ山、扇ノ山の向こうに東京があると、いつもその重なりあう紺青の山なみのあなたに、遠く眼を放ってなつかしんだ。
那岐山は鳥取県と岡山県の南の県境にあって一二四〇メートル。北の山腹にシャクナゲの群落があって有名だが、レンゲツツジが南の山腹をいろどる頃に、奈義町の役場のひとびとと、支峰の大神岩の一〇〇〇メートルまで登った。
兵庫県との東の境にある氷ノ山の一五一〇メートルには、つい最近の晩秋に、松葉ガニで名高い浜坂町の「加藤文太郎を語る会」のひとたちに案内されて登った。大江山に登ったあくる日である。
浜坂は海岸線が美しく、町の中に温泉が湧くという素敵な町だが、その網元の家に、明治三十八年(一九〇五)生まれた加藤文太郎の名で忘れ難い。その著の『単独行』は、「足が早すぎて、ほかのひとに気を使わせるから、さびしいけれど独りで歩く」と言った、加藤文太郎の心やさしさに溢れた山行の記録で、その健脚は、浜坂と勤め先の神戸の現在の三菱造船との間の一九〇キロを、一昼夜で歩き通し、三俣蓮華から槍から、|徳本《とくごう》峠越えをして松本までを、一日で歩いたというほどであった。七〇キロは超える。
加藤文太郎は、昭和五年の一月の剣沢の小屋で、東大のOBたちに宿泊をことわられ、一人で下山して来て雪崩にあわずにすんだ。
しかし昭和十一年一月、友と二人で登った槍の北鎌尾根で、猛吹雪にあって死ぬのである。友の名は吉田富久。二十七歳。文太郎は三十一歳であった。
氷ノ山から扇ノ山への単独縦走でも、吹雪にあって死にそうになって涙をこぼしたと『単独行』にある。氷ノ山は浜坂から近く、その北東の鉢伏山と共に、文太郎の庭のような山であったという。「加藤文太郎を語る会」は、文太郎の篤実な人柄を追慕し、その強靭な意志と勇気と体力を岳人の模範として仰ぐ会である。冬のマッキンレーに消えた植村直己は隣町の香住のひとで、文太郎の崇拝者であったという。
さて、鳥取市には十二月のはじめに雪が降る。しかし久松山の頂きから見る大山も氷ノ山ももう十一月は白雪にかがやく。私の登った日も、前々日の雪が|関宮《せきのみや》町福定から大段ケ|平《なる》までの林道に残り、道はぬかるみとなり、凍てついた雪はアイスバーンになっていた。
扇ノ山と共に、海底火山の隆起したものという氷ノ山はスキー場としても有名で、十二月にもなれば、スキー客で賑わうのであろうが、この日の登山者は私たちだけで、背丈を超える熊笹藪の中の道を、標高差五〇〇メートルほど、三時間かかって頂上のロッジに着いた。途中にはブナ林と、野生だという杉の大木の茂みがあり、ツルリンドウの赤い実が、雪の中から顔を出し、|古生《こせ》沼という湿原は水も|涸《か》れて、ミヤマアキノキリンソウやゴマナの花がら、シロバナエンレイソウやミヤマハンショウヅルの枯れ葉が目立つ。
鉢伏山は、頂上から走り下りてでもゆきたいような間近さで、加藤文太郎をしのぶためには、ぜひ今度は鉢伏から氷ノ山にと思ったことであった。その高原は植生のゆたかさでも知られている。エンレイソウの花は白かえんじか。北海道の室蘭山や早池峰ではえんじの花であった。ハンショウヅルはカザグルマと共に、野生のツル科の花でもっとも美しいが、カナディアンロッキーにいったとき、民家の垣根に、うす紫でなく、黄いろのがあった。