コケモモ
伯耆富士の大山は、中国地方で一番高くて一七二九メートル。利尻富士の利尻山より一〇メートル高い。しかし日本海の渚からすぐ起ち上がっているので、登るのは利尻と同じように、昔はなかなか手強かったらしい。奈良時代から修験道の中心地となっていたが、戸隠と同じように、明治の愚挙、|廃仏毀釈《はいぶつきしやく》で多くの坊が失われた。その頂きには晩秋の頃から新雪が降り、加賀の白山に似て、遠くからその雪にかがやく頂きが見え、花の多いところもよく似ている。
戦時中は鳥取市に疎開して、植物学者の故生駒義博氏と知りあえたのは仕合わせであった。氏は大山に五百回も登って、その特有種を発表し、いろいろと大山で見るべき植物を教えてくれた。
戦後になって六〇〇から八〇〇メートルくらいの間を通してスカイラインが出来、それを利用して『大山の花』の著書の伊田弘実さんと夏道登山道をゆくことにしたが、泊まったのは志賀直哉が『暗夜行路』を書いたといわれる蓮浄院である。その脇から山に入るとすぐブナの純林になる。九月であったが、やや黄ばみはじめた葉にブナの幹肌の白々としたのが美しかった。伐採されなければよいなあと見上げた。登山道のブナが伐採されたあとを歩いた山に早池峰、|茅《かや》ケ岳などがある。ブナが美しいと思ったのは北海道では余市岳、東北では山形の葉山で、関東では|武尊《ほたか》山である。ヨーロッパではウィーンの森。三十年前に歩いた時は細い木ばかりで、そのとき案内してくれたウィーンのひとが言った。戦時中に燃料に伐ってしまったので、元の通りに植えました。最近同じ道を歩いたら、ブナは大木になっていた。日本とは大分ちがうと羨ましかった。
さて、この時の大山で見たのは、頂上近い崩壊地形に茂る北方植物としての南限のダイセンキャラボクの緑の群落である。生駒氏がその場所を地図にしるしてくれていた。ダイセンヒョウタンボクは赤い実をつけ、岩場に多いというダイセンヤナギは見つからなかった。芽ぶきの頃は銀いろの花芽が目立つのでわかりいいという。日本海の風をまともに受けるわりにはまだ花が残っていて、ダイセンオトギリやダイセンコゴメグサが石の間に少しずつ顔を出し、四時間かかって辿りついた外輪山の|弥山《みせん》の頂上の石室の南向きの壁の下には、シオガマギクが赤紫に咲いていた。ここから剣ケ峰の一七二九メートルまでは、全くのやせ尾根で、狭い靴幅一つくらいの道がつづく。五、六歩に飛んでゆくと、中継点のような岩塊とぶつかる、私はそういうところがおもしろくて、飛び飛びしていったが、飛ぶのがこわいと泣いている若い娘もいた。岩塊の草むらにコケモモが赤い実をつけていた。
大山は花が多いと溜息をつかんばかりに思ったのは夏の七月である。
西麓の|桝水《ますみず》高原の国民宿舎に泊まって、その前にひろがる|桝水原《ますみずはら》を歩き、正面登山道を途中まで登ったが、湿原にはノハナショウブの紫、チャボゼキショウの白、ミズギボウシのうす紫、ヌマトラノオの白に、オニユリの強烈な朱赤といろとりどりであった。山道は岩礫がごろごろして歩きにくいことおびただしいが、斜面にはシモツケソウのうす紅、ソバナの紫、ホタルブクロのうす紅が、海風にゆれて疲れを一ぺんに吸いとってくれるようであった。
そして、大山をもっとも美しいと思ったのは、数年前の十月、山頂から崩壊地が一直線にスカイラインまでなだれおちている、零ノ沢から登って、土砂止めの柵の間を右にゆき左にゆき、一歩足をすべらせれば一巻の終わりというような危険な道を、沢の両端の黄紅葉した木々に見まもられながら登っていった時である。崩壊地の砂礫の白に映えるブナやカエデの葉を逆光線で見上げながら登った。ハウチワカエデ、イタヤカエデ、イロハモミジにまじってカツラやヒメシャラの黄葉もある。利尻山の一七一九メートルは緯度が北なので、針葉樹の方がずっと多かったと思う。ふと、今空を飛んでいって両方の山の秋のいろが見たくなった。
急登の息や苔桃露光り
戦時中は鳥取市に疎開して、植物学者の故生駒義博氏と知りあえたのは仕合わせであった。氏は大山に五百回も登って、その特有種を発表し、いろいろと大山で見るべき植物を教えてくれた。
戦後になって六〇〇から八〇〇メートルくらいの間を通してスカイラインが出来、それを利用して『大山の花』の著書の伊田弘実さんと夏道登山道をゆくことにしたが、泊まったのは志賀直哉が『暗夜行路』を書いたといわれる蓮浄院である。その脇から山に入るとすぐブナの純林になる。九月であったが、やや黄ばみはじめた葉にブナの幹肌の白々としたのが美しかった。伐採されなければよいなあと見上げた。登山道のブナが伐採されたあとを歩いた山に早池峰、|茅《かや》ケ岳などがある。ブナが美しいと思ったのは北海道では余市岳、東北では山形の葉山で、関東では|武尊《ほたか》山である。ヨーロッパではウィーンの森。三十年前に歩いた時は細い木ばかりで、そのとき案内してくれたウィーンのひとが言った。戦時中に燃料に伐ってしまったので、元の通りに植えました。最近同じ道を歩いたら、ブナは大木になっていた。日本とは大分ちがうと羨ましかった。
さて、この時の大山で見たのは、頂上近い崩壊地形に茂る北方植物としての南限のダイセンキャラボクの緑の群落である。生駒氏がその場所を地図にしるしてくれていた。ダイセンヒョウタンボクは赤い実をつけ、岩場に多いというダイセンヤナギは見つからなかった。芽ぶきの頃は銀いろの花芽が目立つのでわかりいいという。日本海の風をまともに受けるわりにはまだ花が残っていて、ダイセンオトギリやダイセンコゴメグサが石の間に少しずつ顔を出し、四時間かかって辿りついた外輪山の|弥山《みせん》の頂上の石室の南向きの壁の下には、シオガマギクが赤紫に咲いていた。ここから剣ケ峰の一七二九メートルまでは、全くのやせ尾根で、狭い靴幅一つくらいの道がつづく。五、六歩に飛んでゆくと、中継点のような岩塊とぶつかる、私はそういうところがおもしろくて、飛び飛びしていったが、飛ぶのがこわいと泣いている若い娘もいた。岩塊の草むらにコケモモが赤い実をつけていた。
大山は花が多いと溜息をつかんばかりに思ったのは夏の七月である。
西麓の|桝水《ますみず》高原の国民宿舎に泊まって、その前にひろがる|桝水原《ますみずはら》を歩き、正面登山道を途中まで登ったが、湿原にはノハナショウブの紫、チャボゼキショウの白、ミズギボウシのうす紫、ヌマトラノオの白に、オニユリの強烈な朱赤といろとりどりであった。山道は岩礫がごろごろして歩きにくいことおびただしいが、斜面にはシモツケソウのうす紅、ソバナの紫、ホタルブクロのうす紅が、海風にゆれて疲れを一ぺんに吸いとってくれるようであった。
そして、大山をもっとも美しいと思ったのは、数年前の十月、山頂から崩壊地が一直線にスカイラインまでなだれおちている、零ノ沢から登って、土砂止めの柵の間を右にゆき左にゆき、一歩足をすべらせれば一巻の終わりというような危険な道を、沢の両端の黄紅葉した木々に見まもられながら登っていった時である。崩壊地の砂礫の白に映えるブナやカエデの葉を逆光線で見上げながら登った。ハウチワカエデ、イタヤカエデ、イロハモミジにまじってカツラやヒメシャラの黄葉もある。利尻山の一七一九メートルは緯度が北なので、針葉樹の方がずっと多かったと思う。ふと、今空を飛んでいって両方の山の秋のいろが見たくなった。
急登の息や苔桃露光り