アケボノソウ
「山高きが故に尊からず」という言葉は、道後山の一二六九メートルのためにあるような気がした。一等三角点のあるその頂きに立つと、北に|伯耆《ほうき》|大山《だいせん》がうつ然と盛り上がり、胸にこたえる重量感だ。鹿島槍南峰から、立山や剣岳を見た時とあまり変わらない。岩峰の並んだ立山連峰より、大山南面の遠くから見ても急傾斜のガレ場とわかる崩壊地形が、青ずんだ白さで午後の陽射しにむき出しに浮かび上がっているところなど、冥府の山かと思われるような凄味があった。西には、|烏帽子《えぼし》、立烏帽子などの山名を持つ尖った頂きを持つ山々が連なり、南には猫山の何か生きものがうずくまったような姿が見える。
道後山には花が多いとだけ聞いてあこがれ、その日は広島から国道五四号線で、五二キロ、|三次《みよし》まで来て、なお六〇キロを、山麓までカトリック教会の神父さまたちによって車で運ばれ、駐車場となる草地が一面のミヤマダイコンソウの黄で被われているのに感激し、登山路にかかって、両側のコナラやミズナラの新緑の林の下草に、アカモノやアケボノソウの咲いているのを見つけた。
頂上にむかっては、花崗閃緑岩や斑れい岩などの露岩が交じりあう岩場となったが、レンゲツツジが岩の間を埋めていて、あと一ケ月もしたら花の盛りがみごとだろうと思った。
頂上から北に下ると、見わたす限りの平坦地でおもしろいことに、人間一人でかかえられそうもない重い岩を積み重ねたのが、山頂の平地の東側のはじからはじまでつくられている。県境にしてはものものしく、このあたりは早くから大陸の民が入っていたから、山城のあとかと思うが、それにしてはちょっと低い。牛の放牧地なので、柵代わりかと思ったがこれだけの石をここまで運ぶのはどんな方法によったのか、山頂の岩をくずしたのか、などと思った。戦国時代は尼子氏や毛利氏がうばいあったところである。そして、この広い平坦地は、ところどころオオバキスミレの群落に被われていた。
道後山には花が多いとだけ聞いてあこがれ、その日は広島から国道五四号線で、五二キロ、|三次《みよし》まで来て、なお六〇キロを、山麓までカトリック教会の神父さまたちによって車で運ばれ、駐車場となる草地が一面のミヤマダイコンソウの黄で被われているのに感激し、登山路にかかって、両側のコナラやミズナラの新緑の林の下草に、アカモノやアケボノソウの咲いているのを見つけた。
頂上にむかっては、花崗閃緑岩や斑れい岩などの露岩が交じりあう岩場となったが、レンゲツツジが岩の間を埋めていて、あと一ケ月もしたら花の盛りがみごとだろうと思った。
頂上から北に下ると、見わたす限りの平坦地でおもしろいことに、人間一人でかかえられそうもない重い岩を積み重ねたのが、山頂の平地の東側のはじからはじまでつくられている。県境にしてはものものしく、このあたりは早くから大陸の民が入っていたから、山城のあとかと思うが、それにしてはちょっと低い。牛の放牧地なので、柵代わりかと思ったがこれだけの石をここまで運ぶのはどんな方法によったのか、山頂の岩をくずしたのか、などと思った。戦国時代は尼子氏や毛利氏がうばいあったところである。そして、この広い平坦地は、ところどころオオバキスミレの群落に被われていた。