ここは小カルパチア山脈に囲まれた、十六世紀末のハンガリー。ルネサンスの文明から取り残されたこの地方は、まだ、中世の暗い雰囲気が残っていました。森には狐や狼が出て、妖術使《ようじゆつつかい》や魔女がマンドラゴラやヒヨスなどの毒草をつんでいました。そもそもあの吸血鬼伝説も、この東欧の暗く殺伐とした風土から生まれたものなのです。
エリザベートが生まれたのは、ハプスブルグ家につながるハンガリー屈指の名家バートリ家でした。トランシルバニア王やポーランド王、ハンガリー総督などを輩出した超名門でしたが、莫大《ばくだい》な財産と広大な領地を失わないため近親結婚をかさねたので、痛風、癲癇《てんかん》、そして狂気といった病気を受けついでおり、家系には狂人や同性愛者、色情狂、悪魔崇拝者などの、変質者や奇人がたくさん生まれていました。
エリザベート自身は、まれに見る美貌の持主。おさないころから蝶《ちよう》よ花よとかしずかれ、何不自由ない少女時代を送っていました。ところが十五のとき、九百年つづいた軍人の家柄であるナダスディ家のフェレンツ伯に嫁いでから、生活は一変したのです。ガミガミ屋で口うるさくて四六時中そばに付きっきりで一挙一動を監視する姑《しゆうとめ》、トルコとの戦いに出かけて、ほとんど帰ってこない軍人の夫。人里離れた寂しい離城で、はなやかな社交生活もダンスもない退屈な生活……。おまけにいつまでも子供ができないので、姑にはまるで彼女の責任のように責め立てられて。
そんななかでエリザベートのたった一つの楽しみは、姑の目を逃れて何時間も鏡のまえにすわり、ドレスを色々とりかえたり、ありったけの宝石を出して身につけてみることでした。ほっそりした卵型の顔、細かくカールしたブロンド、くっきりした額、放心したように焦点の定まらない目……。不思議な近よりがたい美しさが、彼女には漂っていました。
わたしは美しい、美しいんだ。エリザベートは鏡にむかってそうつぶやくのでした。こんな片田舎の城で、姑にこき使われ、夫の留守を守る、子を産むための道具みたいな生活に甘んじたくはない。まだわたしは若いのだもの。この美しさのために、もっと沢山の男たちを泣かせ狂わせたい。この美しさのために幾千もの城をほろぼし、幾万もの血を流させたい。わたしの美しさには、それだけの価値があるはずだ……。
孤独な生活のなかで、エリザベートのナルシシズムだけが異様にふくらんでいきました。