十一月上旬、ひとあし先にアンヌを帰国させたサドは、シャンベリーの街外れの田舎家にひっそり隠れ住みました。ところが十二月八日の夜、突如サルデニア王国の警官数人に踏みこまれ、捕えられてサヴォワ州のミオラン要塞《ようさい》に運ばれたのです。
このとき彼のことを密告したのがモントルイユ夫人でした。彼女の変心を夢にも知らないサドは、隠れ家から彼女に援助を乞う手紙を出していたのです。かつての味方がいまは最悪の敵に変わったことなど、考えてもみませんでした。モントルイユ夫人の密告で、パリ駐在サルデニア王国大使からサルデニア警察に、サド逮捕の命令がくだり、サドはその罠《わな》に落ちるのです。このときからふたりは不倶戴天の敵になります。義母が家庭、良識、モラルを体現するいわゆる「小市民」の代表なら、サドは反家庭、反良識、反モラルを体現する「芸術家」の代表として……。
牢のなかで、自分を突然おそった運命をサドは呪いつづけました。そんな彼のいちばん心強い味方は妻でした。彼女はさっそく母に抵抗して直接行動を開始しました。自力で夫を救い出そうとしたのです。引っ込み思案の彼女にこんな勇気があったなんて、驚きですネ?
ルネは二月末、男装し駅馬車でパリを出発します。リヨンを通過してシャンベリーにむかい、そこで宿をとってサド救出のアイデアを練るのです。彼女に抱きこまれた御用ききのヴィオロンが、四月二十九日、庭から城のなかに入り込み、ひそかにサドと脱出計画を打ち合わせします。翌晩、ヴィオロンは城の近くに待機し、サドのほうはそのころ、城の酒保で夕食をとっていました。隣に空き部屋があって食糧置き場になっていましたが、この部屋のすみにあるトイレの窓わくがはずれていて、人ひとりが自由に出入りできるのをサドは知っていたのです。そして窓の外は城の裏手で山にのぞんでおり、窓から地面まで四メートルの高さしかないことも。
サドとともに幽閉されていた召使のラトゥールが、台所番人の目をぬすんで食糧置き場にしのびこみ、部屋の鍵をぬすみます。そしてその夜おそく、サドとラトゥールは鍵を使ってこの部屋に入り、便所の窓をのりこえ、壁の下で待っていたヴィオロンが用意した縄ばしごで下までおりて、そのまま馬でフランス国境まで逃げのびたのです。