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きれいなお城の怖い話22

时间: 2020-06-30    进入日语论坛
核心提示:不遇の晩年三月に憲法制定議会が投獄されている容疑者を全員釈放するという訓令を発したので、ついにサドは十一年ぶりに自由を得
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不遇の晩年

三月に憲法制定議会が投獄されている容疑者を全員釈放するという訓令を発したので、ついにサドは十一年ぶりに自由を得ることになりました。が、彼の生涯は、本当のところここで終わったのです。その後、別人のように太った体で、パリの町をよろよろ歩きだした老人は、もうサドではない別の人間でした。
牢獄といういっさいの現実から隔絶された世界で、書くときのめくるめくような瞬間のためだけに生きていた彼は、まるで闇《やみ》になれた夜行性動物が昼光のなかに突然はなされたように、どうしていいか分からずオロオロしていました。
彼にとって、急激に変化した現実についていくのは大変なことでした。だいたいが芸術家タイプで、世間のことにはうとい人間なのです。その後、彼はなんとか現実に適応しようと、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、必死で努力を重ねますが、彼があがけばあがくほど、考えているのとは別の方向に行ってしまうのです。
最初の挫折は妻との離婚でした。牢から出たサドが、さっそく修道院に妻を訪ねると、奇妙にもルネは夫と会うことを冷たくこばみ、彼と別れる決意を明らかにしたのです。長年忠実につくしてきた彼女が、どうして今になって彼と別れようというのでしょうか? これはいまだにサド研究家に謎《なぞ》とされていることなのです。
サドにとって、長年連れそった妻と別れるのはやはり相当ショックでした。妻は彼が怒りや我儘《わがまま》をぶつけられる唯一の人だったのです。「ああ、なんという残酷な仕打ちだ!」こう嘆いてサドはルネを恨みます。そのうえルネはパリ裁判所を通して、持参金としてサド家におさめた十六万八百四十二リーブルを返すように申請したのです。離婚申請理由として、アルクイユとマルセイユの事件があらためて引合いに出されました。結局、この離婚は認められ、サドは彼女に年に四千リーブルずつ持参金を返却せねばならないことになりました。多分ここにもあのモントルイユ夫人の執念深い手が動いていたのでしょう。
 牢から出て間もなく、サドはひとりの女性と知り合いました。三十たらずのケネエ夫人という女性で、商人の夫は彼女と息子をのこしアメリカに行ってしまったのでした。サドと彼女はやがてささやかな家を借りて、ともに暮らすようになりました。
夫人との関係はサドが死ぬまで二十五年もつづきます。身寄りのない彼の晩年を、夫人はやさしくいたわり励ますのでした。やがて彼は貧乏のドン底に落ちることになりますが、そのときも夫人はかわらぬ愛と献身をささげ、サドは「彼女こそ天がわたしに贈ってくれた天使」と書くことになります。若き日の情熱的な恋でも快楽をむさぼるような恋でもなく、彼の生涯の最後に咲いた、静かなおいらくの恋でした。
パリではインフレが進行し、サドの生活はしだいに追いつめられていきました。ラ・コスト城の差配人のゴオフリディからの送金は滞りがちで、現金収入はゼロ。質に入れるものもない惨憺《さんたん》たる生活でした。知人をとおして職を探しても、五十五歳の手になんの技術も経験もない老人に職があろうはずはありません。ついにサドは家財道具まで差しおさえられ、部屋も追い出されて、乞食のように食べ物と寝床をもとめてさまようことになります。その冬はサドの一生でもっとも悲惨な冬でした。彼はパリ郊外の薄ぎたない屋根裏部屋で、極貧のうちに厳寒の日々を過ごしたのです。芝居小屋で下働きをして日給四十ソルを得、やっとの思いでケネエ夫人とともにその日暮らしをしていました。
窮状に輪をかけるように、より以上の不運がサドをおとずれます。一八〇一年、四年まえに刊行した『美徳の不幸』が風紀|潰乱《かいらん》だとして押収され、サドは逮捕されてしまうのです。彼がこれを出版した執政時代は自由な気風があふれ、好色本がもてはやされていました。が、ナポレオンが天下をとるとそれまでの悦楽的な風潮がすたれて、人々はまたスキャンダルに厳しい態度をとるようになってきました。ナポレオンは厳格な言論統制と風紀条令で、言論の世界に圧迫をくわえてきたのです。
こうしてもう六十をこえるサドは、生きながら精神病院に葬られることになりました。もう二度と彼は自由の地を踏むことはないのです。他の患者たちとともに、なお十三年を、生けるムクロとして生きつづけねばならないのです。
ケネエ夫人はそんな彼を見捨てることなく、せっせと面会にかよってきました。当時、精神病院で彼をみかけた某作家は言っています。「彼は、身動きもできないくらい太っていた。が、彼のやつれた目にはいまだに熱をおびたものがあり、消えかけた炭火の最後の輝きのように、それが時おりパッと燃え上がるのだった」
一八一四年、死の近いのを感じたサドは、遺書を書き残しています。最後まで自分に付きそってくれたケネエ夫人に熱い感謝の言葉を述べ、自分に残るわずかな財産のいっさいを彼女に譲ると述べたうえで、彼は自分の遺体を、「何の葬式も行わず、領地であるエペルノン近くのマルメゾンの森にうめてほしい。そして墓穴のふたをしめたら、その上に樫《かし》の実をまいて墓の跡が地面から隠れるようにしてほしい。自分はすべての人から忘れさられてしまいたいのだ。ただし最期まで自分を愛しつづけてくれた僅《わず》かな人々については別だが」
現実にいやというほど痛めつけられ、もう神も人間も信じられなくなっていた、晩年のサドの孤独がゾッとするほどに感じられますね。
けれどこの遺言は、守られませんでした。ケチで狭い心の持主であるサドの長男が葬式いっさいをとりしきり、ケネエ夫人に遺産を渡すどころか、サドの残された原稿も、一部は焼かれ、あとは警察に押収されるか門外不出として邸《やしき》の奥深くしまいこまれました。そしてサドの遺体もマルメゾンには葬られず、シャラントン病院付属の墓地に、普通のやり方で埋葬されたのです。墓のうえには小さな十字架がたてられました。総計六十五リーブルのささやかな葬式に、いったいどんな人々が集まったかはわかっていません。
あまりに不遇な作家だったサド。『悪徳の栄え』『ジェスティーヌ』などキラ星のように輝く名作の数々。けれどそれらの作品を生み出すために、彼があがなわねばならない苦役は、あまりに大きすぎました。それにしても皆さん、不器用で損な生きかたばかりしてきた彼は、いかにも憎ったらしい「サディズム侯爵」のイメージとは、あまりにかけ離れていますでしょ?
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