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きれいなお城の怖い話23

时间: 2020-06-30    进入日语论坛
核心提示:処刑台の聖女一五九九年九月十一日、ローマのサン・タンジェロ広場で、チェンチ一族の処刑が行なわれました。一族がローマでも屈
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処刑台の聖女

一五九九年九月十一日、ローマのサン・タンジェロ広場で、チェンチ一族の処刑が行なわれました。一族がローマでも屈指の名家で、そのうえ一人娘のベアトリーチェが評判の美少女だっただけに、見物人たちは同情の涙をおさえることは出来ませんでした。
目撃者の一人は、死にゆくベアトリーチェをまるで聖女のようだったと書き、もう一人の目撃者は、「まさに美そのものである娘の死は、ローマ中の人々に哀れみの涙を流させた」と、書いています。
罪状は、ほかならぬベアトリーチェの父である、チェンチ家の当主フランチェスコ・チェンチの殺害です。�父親殺し�とは、彼女の清楚《せいそ》な容貌《ようぼう》からは想像もつかない罪名ですが、殺された父親は、強姦《ごうかん》、誘拐、暴行、殺人と非道の限りをつくしながら、富と地位のおかげで罪を逃れてきた、絵に描いたような獰猛《どうもう》な男でした。
 彼らの生まれたチェンチ家は、元老院議員や枢機卿《すうきけい》など数々の名士を出した、ローマでも屈指の名門貴族でした。彼らの父フランチェスコは、一五四九年に生まれ、十二歳のときチェンチ家の莫大《ばくだい》な家督をつぎました。
このころからフランチェスコには、後年の彼が心のおもむくまま奔出《ほんしゆつ》する暴力と肉欲の芽が現れていたようです。十一歳のとき御者の息子を食べ物も与えないで地下室に監禁したり、ある男を襲って重傷を負わせ、裁判|沙汰《ざた》になったこともあります。成長してからは、暴力だけにとどまらず、ゆがんだ性欲を発揮するようになりました。
フランチェスコは目をつけた女たちをつぎつぎとさらってきては、野獣のように襲いかかってモノにしました。さらに女たちにさまざまな倒錯行為を強要し、さからうと鞭打《むちう》ったり、食べ物も与えないで地下室に監禁しました。
一五六三年、フランチェスコは十四歳のとき、莫大な持参金をもつエルシリア・クローチェと結婚し、あいだにジャーコモ、クリストフォロ、アントーニア、ロッコ、ベアトリーチェ、ベルナルド、パオロと、七人の子をもうけますが、八四年、あいつぐ妊娠に疲れはてたエルシリアは病死します。
一五九三年、フランチェスコは三十八歳の寡婦ルクレツィア・ペトローニと再婚しますが、その後も彼の暴虐はとどまることを知りませんでした。女をさらって納屋に連れこんで乱痴気騒ぎをしたり、気にくわない従兄《いとこ》を待ち伏せて襲ったり、さらに男色の罪で二、三度投獄されたこともありますが、そのたびに莫大な罰金を払って釈放されました。
おかげでいかに莫大な資産も、しだいに乏しくなりかけていました。そのうえ長女アントーニアの結婚のときは、当時の金で金貨二万スクードという莫大な持参金を持たせねばなりませんでした。まだベアトリーチェを嫁にやることが残っていますが、といって彼女に姉と同じだけの持参金をつけて結婚させるゆとりは、今のフランチェスコにはありません。
そもそもフランチェスコ自身、しだいに高まる悪評のためもあって、ローマは住みづらくなっていました。そこで彼は、妻ルクレツィアとベアトリーチェを連れて、ナポリ王国の国境に近いラ・ペトレッラの城塞《じようさい》を、領主コロンナから借りうけて移り住むことを決意したのです。
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