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きれいなお城の怖い話41

时间: 2020-07-08    进入日语论坛
核心提示:吸血鬼の代名詞現代ではドラキュラとは、夜な夜な若い娘を襲ってその血を吸う、恐ろしい吸血鬼と思われています。ドラキュラの名
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吸血鬼の代名詞

現代ではドラキュラとは、夜な夜な若い娘を襲ってその血を吸う、恐ろしい吸血鬼と思われています。ドラキュラの名を聞いてすぐ浮かんでくるもの。ニンニク、月、十字架……そして萩尾望都さんのあの有名な『ポーの一族』……?
でも、このドラキュラが本当は吸血鬼でもなんでもなく、実在したルーマニアの君主だったことは、案外知られていません。
ドラキュラ、別名ヴラド・ツェペシュは、十五世紀ワラキア公国(現代のルーマニア)の大公でした。そしてこの国ではドラキュラの名は吸血鬼ではなく、むしろトルコの侵入からルーマニアを守った輝かしい英雄として知られているのです。それにしてもなぜそんな英雄が、吸血鬼の代名詞になってしまったのでしょう?
当時のワラキアでは、領土的野心をむき出しに、三つの勢力が争っていました。ギリシア正教のビザンチンと、ローマ法王庁のカトリック、そしてオスマン・トルコです。一四五三年、トルコ軍がコンスタンチノープルに侵入して、ギリシア正教の総本山である東ローマ帝国は滅びてしまいました。このときビザンチンが優勢だったワラキアは、カトリックとも手を組んで、とどまることを知らないオスマン・トルコの侵略に刃むかっていたのです。
当時のワラキアの君主は世襲制であっても長子世襲ではなく、一族のだれが君主になるかで、いつも血なまぐさい争いが繰り広げられていました。十四世紀の百年のあいだに、何と三十二人もの君主が入れかわったといいます。
ドラキュラ自身、大公の子でありながら、十七歳までトルコの首都コンスタンチノープルに人質として幽閉されるという不幸な少年期をすごしました。が、ドラキュラは十七歳のときついに脱出に成功、五六年に晴れて領主に返り咲きました。彼はさっそく憎いトルコ軍への反撃をはじめ、ガルナシュ山頂に難攻不落のポイエナリー城を築き、ここを根城にトルコの砦《とりで》をつぎつぎと落としていきました。
トルコ王スルタンのほうも彼の挑戦に怒って、数万の兵を率いてワラキア公国に侵入してきました。トルコ軍を迎えうつワラキア公国軍の兵数はわずかでしたが、ドラキュラは神出鬼没のゲリラ戦をくりひろげてトルコ軍を翻弄し、徹底した奇襲と殺戮《さつりく》で、有無をいわせず勝利をおさめたのです。
一四六一年、二人のトルコ使節がドナウ河畔の港ジュルジーにやってきました。名目は和平交渉でしたが、じつはドラキュラをだまして捕えるようにとの密命をスルタンから受けとっていたのです。たちまち敵の魂胆に感づいたドラキュラは、使者を酒と御馳走《ごちそう》ですっかり油断させ、彼らが寝込んでしまったすきに、ひそかに多数の兵士にジュルジーの町を囲ませて夜襲をしかけました。この戦いで二万三千のトルコ兵が殺され、二万の兵が捕虜になりました。
町外れの平野で捕虜たちは裸にむかれ、スルタンへの報復として生きたまま棒に串刺《くしざ》しにされました。例の二人の使者はドラキュラをあざむいた報いとして、とりわけ長い棒に突き刺されたといいます。
串刺しの棒は、長さ三キロ、幅一キロにわたって、えんえんと続きました。これら口や尻《しり》から棒の突き出た無残な死体にはカラスがたかり、周囲に吐き気がするような死臭がたちこめました。なかなか死ねないで苦しみ悶《もだ》える者、カラスに肉をつつかれ悲鳴をあげる者、血を吐くような呪《のろ》いの言葉を天にさけびながら、カッと目を見ひらいて死んでいく者……。進んできたトルコ軍は、その身の毛のよだつような光景に迎えられ思わずゾーッとして、すっかり怖じ気づいてしまったといいます。
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