十九世紀フランスの詩人ラスネールは、強盗殺人の罪をかさねたのち、三十六歳の若さでギロチンの露と消えました。フロックコートのふところに匕首《あいくち》をしのばせ、シルクハットをヒョイとななめにかぶった、なんともダンディな犯罪紳士です。
お坊ちゃん育ちながら泥棒世界に入って悪の道を突っ走り、社会の偽善を思いっきりあばき立てたあげく、サバサバした顔で死んでいきました。彼がつぎつぎと何人もの人を殺したのは、金や欲のためというより、やり場のない社会への深い恨みを晴らすためだったといいます。
ラスネールは不幸な生い立ちでした。裕福な家に生まれながら、幼いときに里子に出され、両親の愛を知らずに育ったのです。彼がどんなに愛を求めていたかは、死ぬまえに書いた名高い『回想録』からもよく分かります。そしてこの恨みが彼のなかで、社会や偽善への深い恨みに変わっていったのです。
根っからの詩人だったにもかかわらず、波瀾《はらん》にみちた人生では、ゆっくり読書したり文学の勉強をするひまもありませんでした。だからボードレールやランボーのような大詩人にはなれなかったけど、そのかわり悪党詩人として名を残したのです。
いわゆる書斎人間ではなくて、みずから行動する男。身をていして社会の悪をアバキたて、社会への反抗を貫きとおした、いわゆる「硬派」の生涯でした。
ラスネール逮捕は新聞にデカデカと載り、当時のパリに大さわぎを巻きおこしました。まもなく発表された彼の『回想録』は、ベスト・セラーとなって飛ぶように売れ、彼のニヒルな美貌《びぼう》とその薄幸な生い立ちに、すっかり読者は夢中になってしまいました。
現代でいえばタレントの自伝や苦労話が売れるのと同じようなこと。テレビも週刊誌もない時代のことですから、皆がこぞってこのスキャンダルにとびついたのでしょう。
そもそも、彼が逮捕されたいきさつはこうでした。一八三四年十二月十四日、三十四歳のラスネールは、サン・マルタン街のアパートに住むある男娼《だんしよう》のもとに、手下のアヴリルとともに押しいったのです。手下が相手の首に手をまわしたすきに、ラスネールが後ろからキリで一突きし、手下がオノで最後の息の根をとめます。つぎに隣室に寝ていた病母までキリでメッタ突きにしたあと、盗んだ金を手に盗んだ毛皮のマントをひっかけ、なんとふたりで、今でいうソープランドにしけこみました。そして返り血をさっぱり洗い落としたあと、レストランで食事して、観劇としゃれこんだというのです。
なんとまあ、人を食った落ち着きぶり……。犯行後の芝居見物のくだりには、裁判の傍聴人のあいだでは、ゴウゴウと非難のどよめきが起こったといいます。
それから半月後、今度はラスネールは贋《にせ》手形を振りだして、マレ銀行の集金人をモントグルイユ街に偽名で借りていた部屋に呼びだし、殺して集金袋をうばおうとしました。今度の相棒はやはり昔のワル仲間のフランソワという男でしたが、今度は相手に大騒ぎされて、とうとう目的は達せずじまいでした。相棒のフランソワは叫ぶ集金人の口を押さえようとして、手を思いきり噛《か》みつかれたり、もう散々……。
結局ふたりは、「泥棒、泥棒!」と叫ばれながら部屋を逃げだし、集金人は刃物で刺されながらも、一万五千フランの入った集金袋を、しっかり抱いてはなしませんでした。
なんとまあ、人を食った落ち着きぶり……。犯行後の芝居見物のくだりには、裁判の傍聴人のあいだでは、ゴウゴウと非難のどよめきが起こったといいます。
それから半月後、今度はラスネールは贋《にせ》手形を振りだして、マレ銀行の集金人をモントグルイユ街に偽名で借りていた部屋に呼びだし、殺して集金袋をうばおうとしました。今度の相棒はやはり昔のワル仲間のフランソワという男でしたが、今度は相手に大騒ぎされて、とうとう目的は達せずじまいでした。相棒のフランソワは叫ぶ集金人の口を押さえようとして、手を思いきり噛《か》みつかれたり、もう散々……。
結局ふたりは、「泥棒、泥棒!」と叫ばれながら部屋を逃げだし、集金人は刃物で刺されながらも、一万五千フランの入った集金袋を、しっかり抱いてはなしませんでした。