「私が金めあてにシャルドンを殺しにいったというのか? 冗談じゃない。私は自分の人生を血で正当化し、私をこばんだ社会に血で抗議するため、彼を殺しにいったのだ!」
ラスネールの『回想録』には、こんな激しい言葉があちこち見られます。裁判の最終日(三五年十一月十五日)から処刑前夜(三六年一月八日)の二カ月で書きあげられたこの作品は、人間の魂の一大記録として、つきない魅力にあふれているのです。
ラスネールは一八〇〇年、リヨン郊外の裕福なブルジョワの家庭に生まれました。六人兄弟でしたが、両親は長男ばかり愛して、下の子供たちにはかまけませんでした。ラスネールは生まれてすぐ乳母の手にあずけられ、大きくなるまで両親の顔を見たことがなかったといいます。
彼は自分が悪党になったのは、親の愛を知らない寂しい子供時代のせいだと言っています。もし母に愛されていたら! とか、子供は愛されたいとしか思わないものだ! とか、『回想録』のなかにはよくそんな言葉が出てきます。人一倍感受性がつよく、愛を求める思いが強かった彼に、人生は早くから、堪《た》え難いものに思われたのでしょう。
内向的な少年だった彼は、父のさしがねで入れられた神学校で、はやくも差別や偽善がまかり通る社会の不正を目にします。その後はちょっとした悪事を犯したり、先生に嫌われたりして、次々と転校を繰りかえしていきます。リヨンの中学に通っていたときはホモの先生が生徒に言いよっているのを見かけたためその先生ににらまれ、あることないことを校長に告げ口されて退学になったのでした。
子供をエゴの犠牲にする醜い大人たちの姿を見ているうちに、しだいにラスネールはグレていきました。親のタンスから金をくすねたり、学校の月謝にともらった金を使いこんだりするようになりました。そんな彼に、周囲の大人たちは手を焼いていたようです。
あるとき、彼が父とリヨン郊外を散歩していると、断頭台のたっている街の広場にさしかかりました。すると父はステッキでそれを示し、「お前がいい子にならないなら、あそこにかけられて死んでしまうんだよ」と脅かしたのです。
そのときから、彼とギロチンのあいだに、妙な因縁がむすばれました。彼はその後、たびたび、断頭台に引いていかれる夢を見てうなされるようになりました。
自分の犯す罪は、この不正な社会に反抗するため、やむにやまれぬものなのだ、いつの日か自分は、あの断頭台の上で死ぬことになるのだという暗い予感が、彼をひたしていったのです。