昔、バーデンに心美しく聡明《そうめい》で、両親の愛を一身に受けてすくすくと育った、若き辺境伯が住んでいました。彼が青春期の憂鬱《ゆううつ》にとらえられ、物思いにしずむようになったとき、案じた父は、旅に出ていろんな国でいろんな人間や人生に触れてくるようにと提案しました。母もそれに賛成しましたが、「ただし、女のひとにひっかかってはいけない。親孝行な子なら、ちゃんと親が決めた相手と結婚するものです。バーデン公子にはそれにふさわしい相手というものがありますからね」と言うのでした。
両親に送られて青年は旅に出発しました。そしてデンマークのある地方で、彼はあちこち歩きまわっていて道に迷ってしまいました。夜も近くなり、そろそろ心細くなってきたとき、湖のほとりに美しい城がたっているのを見て、彼はここに泊めてもらおうと思いました。彼が案内を乞うと、静かな湖に面した城の庭園で、若い美しい女性がふたりの子供とたわむれている姿に出会いました。これがオラミュンデ伯夫人だったのです。
夫人は長いガウン姿で揺り椅子《いす》にすわり、じっと湖面に見入っていました。沈みかけた夕陽のなかに浮かび上がるその姿を見て、青年は心に熱いものがわきあがるのを感じました。「これが、私が夢見ていた女だ。これまで私の胸にぽっかり開いていた空洞をうめてくれるのは、この女なのだ!」一瞬にして、彼の心に夫人への恋が燃え上がったのです。彼はなんとしてもこの夫人を自分のものにしようと決意するのでした。
オラミュンデ伯夫人は二人の子をもつ未亡人でした。王家の血をひきながら事情があって王座への道をはばまれていた彼女は、なんとしてもそれに代わるものを得ようという野心に燃えていました。彼女のほうでも初々しい青年に一目で惹《ひ》かれ、その上彼の辺境伯という高い身分にも夢中になりました。彼を自分のものにすることで、これまで夢見ていた栄光が、自分のものになるかも知れない……。夫人は待っていたように、このチャンスに飛びついたのです。
その日から、夫人の心にはこのうぶな青年を自分の魅力で蕩《とろ》かし、夢中にさせることしかありませんでした。彼女はいかにも優しく魅力的な態度で青年をもてなし、しだいに彼が自分なしでは生きられないようにしむけていきました。夢を見ているような思いで、青年は半月ばかりを過ごしました。相思相愛の思いが伝わりあい、二人が燃える思いでたがいの胸に身をゆだねるのに、そう時間はかかりませんでした。あとはもう酔い心地。むさぼるように互いを求めあい確かめあう日々がつづきます。
けれどいつまでもこうしているわけにもいきません。国で今か今かと青年の帰りを待っている優しい両親のことを思うと胸がいたみます。けれどこの夢のような日々に別れをつげるのは、あまりに辛《つら》い。夫人を胸にかきいだき、心を二つの思いに引き裂かれながら、青年は感きわまって言いました。
「もう、私は行ってしまわねばなりません。もしあなたを妻として私の城にお連れすることができたら! あなたなしで生きることなど、いまの私には考えられないのです」
その言葉に、夫人はキラリと目を輝かせました。「何が、それとも誰が、あなたの夢が実現するのをはばんでいるのでしょうか」青年は深い溜息《ためいき》をつきました。「四つの目です。あの四つの目があるかぎり、あなたをバーデンにお連れすることはできないのです」「では、その四つの目がなくなったら?」震える声できく夫人に、青年は言葉少なに答えました。「ええ、むろん、そのときは……」
「そのときは、あなたの妻になれるのですわね」彼女の取り乱しように青年はちょっと驚きましたが、「そのとおりです。では今はお別れします。が、あの四つの目が万一消えるようなことがあったら、きっとあなたをお迎えにきますよ」
そして青年は、後ろ髪を引かれるような思いで、故郷へと帰っていきました。