それから数カ月後、バーデンからデンマークめざして馬の背に鞭《むち》うつ、ひとりの青年の姿がありました。紛れもないあの辺境伯でしたが、いまの彼は喜びいっぱいで、帰ってきたときの意気消沈した様子はなくなっていました。そう、両親が、彼にオラミュンデ伯夫人との結婚を許してくれたのです! 善意にみちた二人は、そんなに息子が愛するひとなら、自分たちも愛せないわけがないと、即座にOKしてくれたのでした。
馬に力いっぱい鞭をあてるときの、青年の頬《ほお》に抑えようもなくこぼれる笑いに、すれ違う人は思わず微笑《ほほえ》みました。心にはただオラミュンデ伯夫人のいとしい姿をかき抱いて、彼はまっしぐらに彼女のもとへと駆けつづけました。
ところが夫人の城にもう少しのところで、彼は夫人の執事に出会いました。執事は黒い喪服をまとって、悲しげな様子をしていました。「どうしたのです?」不吉なものを感じて青年は訊《き》きました。「いったい、何が起こったというのです」すると執事はしずんだ表情で答えました。「伯夫人は、ずっとあなたをお待ちになっておられました」そしてそれ以上、なにを聞いても決して口を開こうとしませんでした。
不安になった青年はますます馬に力いっぱい鞭をあて、残りすくない城への距離を走らせました。懐かしい城が見えてくると、とるものもとりあえず跳ぶように門を入っていきました。
庭や回廊を通っても、人っ子ひとり見あたりません。いやな気分にとらえられながら、彼はオラミュンデの部屋への階段をかけのぼりました。なんとカーテンも窓も閉めきられ、部屋は真っ暗にしてあったのです。「何があったのだろう。伯夫人は病気なのだろうか?」
青年がベッドのカーテンを上げると、夫人がすべてから置き忘れられたように、ひっそりと横たわっていたのです。ともあれ彼女に会えたことでほっとしながら、青年は喜びいさんで腕をさしだしました。夫人はその腕に取りすがって、息をきらしながら言うのでした。「やっと、やっと、いらして下さったのね?」
目が落ちくぼみ、頬がこけた別人のようなその姿に、青年は不安でいっぱいになりました。
「どうしたのです、オラミュンデ。どこか悪いのですか?」
それを聞くと夫人は、ゾッとするような声で笑い出しました。
「とんでもない。なにもかもうまくいっていますわ」
「いったい何が起こったのです」
「あなた、今すぐ、わたしと一緒に逃げて下さい。お話はあとでしますわ。もう四つの目は消えてしまったのですもの。あなた、わたしと結婚して下さるのでしょ?」
「オラミュンデ」
と、青年は微笑して夫人を抱きしめました。
「あいにく四つの目はいまも元気で生きています。でも、わたしとあなたの結婚を許してくれたのですよ」
「何ですって? あの恐ろしい目がまだ生きているんですって?」
気がふれたように叫ぶ夫人に、青年はあっけにとられました。
「いったい何を言っているんです?」
「いいの、とにかく逃げましょう。ここにいると危険ですわ」
夫人はワナワナとふるえる手で青年の腕をつかんで、階段を降りはじめます。何が何だか分からないながら、青年もそのあとにつづいて走り降りました。が、ふと気がついて…「そうだ! あなたのお子さんたちはどこにいるのです?」
そのとたん、夫人は燃えるような目で彼をにらみつけました。
「何を言ってらっしゃるの? わたしたちが一緒になるのを邪魔しているのはあの子たちだと、あの時おっしゃったじゃありませんの?」
「何を言っているのです。私が言っていたのは両親のことですよ。でもそれも今は、私たちのことに賛成してくれているんです」
伯夫人は悲鳴をあげました。
「嘘《うそ》だわ。そんなこと! じゃ、いったい私はなんのためにあんな恐ろしい罪を犯したの?」
その言葉に、青年はハッとしました。ではこの美しい夫人は、彼と結婚するために、それだけのために、自分の腹をいためた子供たちを殺したのか? 青年はゾーッとして、自分にとりすがる夫人の手をふりはらい、後も見ずに馬の止めてある中庭に向かって走りました。一刻もはやく、一刻もはやく、こんな恐ろしいところから遠ざからなければ……。それまでの夫人へのいとしさは一変、ただ女というものの恐ろしさをかいま見た思いで、それから逃げ出したい思いでいっぱいでした。
馬に力いっぱい鞭をあてるときの、青年の頬《ほお》に抑えようもなくこぼれる笑いに、すれ違う人は思わず微笑《ほほえ》みました。心にはただオラミュンデ伯夫人のいとしい姿をかき抱いて、彼はまっしぐらに彼女のもとへと駆けつづけました。
ところが夫人の城にもう少しのところで、彼は夫人の執事に出会いました。執事は黒い喪服をまとって、悲しげな様子をしていました。「どうしたのです?」不吉なものを感じて青年は訊《き》きました。「いったい、何が起こったというのです」すると執事はしずんだ表情で答えました。「伯夫人は、ずっとあなたをお待ちになっておられました」そしてそれ以上、なにを聞いても決して口を開こうとしませんでした。
不安になった青年はますます馬に力いっぱい鞭をあて、残りすくない城への距離を走らせました。懐かしい城が見えてくると、とるものもとりあえず跳ぶように門を入っていきました。
庭や回廊を通っても、人っ子ひとり見あたりません。いやな気分にとらえられながら、彼はオラミュンデの部屋への階段をかけのぼりました。なんとカーテンも窓も閉めきられ、部屋は真っ暗にしてあったのです。「何があったのだろう。伯夫人は病気なのだろうか?」
青年がベッドのカーテンを上げると、夫人がすべてから置き忘れられたように、ひっそりと横たわっていたのです。ともあれ彼女に会えたことでほっとしながら、青年は喜びいさんで腕をさしだしました。夫人はその腕に取りすがって、息をきらしながら言うのでした。「やっと、やっと、いらして下さったのね?」
目が落ちくぼみ、頬がこけた別人のようなその姿に、青年は不安でいっぱいになりました。
「どうしたのです、オラミュンデ。どこか悪いのですか?」
それを聞くと夫人は、ゾッとするような声で笑い出しました。
「とんでもない。なにもかもうまくいっていますわ」
「いったい何が起こったのです」
「あなた、今すぐ、わたしと一緒に逃げて下さい。お話はあとでしますわ。もう四つの目は消えてしまったのですもの。あなた、わたしと結婚して下さるのでしょ?」
「オラミュンデ」
と、青年は微笑して夫人を抱きしめました。
「あいにく四つの目はいまも元気で生きています。でも、わたしとあなたの結婚を許してくれたのですよ」
「何ですって? あの恐ろしい目がまだ生きているんですって?」
気がふれたように叫ぶ夫人に、青年はあっけにとられました。
「いったい何を言っているんです?」
「いいの、とにかく逃げましょう。ここにいると危険ですわ」
夫人はワナワナとふるえる手で青年の腕をつかんで、階段を降りはじめます。何が何だか分からないながら、青年もそのあとにつづいて走り降りました。が、ふと気がついて…「そうだ! あなたのお子さんたちはどこにいるのです?」
そのとたん、夫人は燃えるような目で彼をにらみつけました。
「何を言ってらっしゃるの? わたしたちが一緒になるのを邪魔しているのはあの子たちだと、あの時おっしゃったじゃありませんの?」
「何を言っているのです。私が言っていたのは両親のことですよ。でもそれも今は、私たちのことに賛成してくれているんです」
伯夫人は悲鳴をあげました。
「嘘《うそ》だわ。そんなこと! じゃ、いったい私はなんのためにあんな恐ろしい罪を犯したの?」
その言葉に、青年はハッとしました。ではこの美しい夫人は、彼と結婚するために、それだけのために、自分の腹をいためた子供たちを殺したのか? 青年はゾーッとして、自分にとりすがる夫人の手をふりはらい、後も見ずに馬の止めてある中庭に向かって走りました。一刻もはやく、一刻もはやく、こんな恐ろしいところから遠ざからなければ……。それまでの夫人へのいとしさは一変、ただ女というものの恐ろしさをかいま見た思いで、それから逃げ出したい思いでいっぱいでした。