が、全速力で馬を飛ばす彼を追いかけ、風にのって身も凍るような声が聞こえてきました。「お逃げになっても無駄よ。辺境伯さま! あなたとわたしのあいだには、もう血の絆《きずな》が結ばれてしまったのですもの。あなたはわたしから逃れることができないのです!」
青年はいまにも、メドゥーッサのようにざんばら髪の血まみれの女が走ってきて、腕をのばして彼に襲いかかろうとする恐怖に襲われました。その幻影と戦いながら、彼は必死で後ろを見ないで、ひたすら馬を走らせつづけました。
何時間か後、ぼろぎれのように疲れ果てた彼は、やっとの思いでバーデンの城に下り立ったのです。息子の変わりはてた姿にびっくりした両親に、すぐベッドに横たえられて、その後青年は高熱にうなされ、生死のさかいをさまよいました。
「夢だったのよ。なにもかもお忘れ。忘れておしまい!」
そう言って両親はオロオロと息子をなだめましたが無駄でした。青年の病気は日ましに悪化し、どんな医者もついに匙《さじ》を投げました。死の近いことを知った青年は両親に頼んでデンマークからオラミュンデ伯夫人の肖像画をとりよせ、壁にかけて「白い貴婦人」と名づけました。もとはといえば自分への恋ゆえにあんな恐ろしい罪を犯した彼女が、今になってみれば不憫《ふびん》に思えたのでしょう。
ある朝、いつもより加減がよさそうなのに喜んでいた両親に、青年は静かに言いました。
「父上、母上、もう間もなくお別れです。『白い貴婦人』が私のもとにやってきました」
「馬鹿なことを言うんじゃない。夢を見ているだけだよ」
「いいえ、父上。本当です。きっと父上のもとにも、近いうちにやって来るでしょう」
予言どおり、間もなく青年はひっそりと世を去り、数年後に当の父も亡くなりました。父も死ぬ数日前に、「白い貴婦人」の亡霊を見たといいます。バーデン公家がつづくかぎり、この亡霊との縁はきれることはないのでしょう。永遠に亡霊は姿を現し、領主の死を予言しつづけることでしょう。
ところで一八五二年、あのレオポルト大公が発作を起こしたときも、「白い貴婦人」はやはり城の一室に現れたといいます。一月末に床についた大公は、普通なら死の原因になりようがない痛風のため、二カ月後にぽっくり世を去りました。侍医たちが驚き呆《あき》れるなかで、またも伝説は本当のこととなったのです。