当時は不治の病いだった血友病を病んでいた皇太子アリョーシャは、数日前からひどい発作を起こしていました。お守り役と遊んでいたとき、庭でうっかりころんでしまったのです。普通ならただのカスリ傷で済むところが、彼の場合は命にかかわる一大事。出血が何日もつづき、宮廷医師のほどこす治療も、祈祷師《きとうし》がとなえる怪しげな呪文《じゆもん》も効きめがなく、皇帝夫妻は絶望の淵《ふち》に突きおとされていました。病状は悪くなる一方で、おさないアリョーシャの呻《うめ》き声が部屋部屋をふるわせ、宮廷中を不吉な死の影がおおっていました。
そんなとき大公妃アナスターシャが、ラスプーチンのことを持ち出したのです。「奇蹟《きせき》を行なうことのできる人物です。見かけはただの百姓ですが、不思議な力が備わっているんです」皇帝夫妻はワラにもすがる思いで、それにしがみつきました。さっそくラスプーチンに使いを差しむけ、宮殿に来てくれるように懇願したのです。心の底には不安がありました。彼がロシアでも最高の医者たちさえ成功しなかったこんな難題をはたして引きうけてくれるだろうか。
アナスターシャが宮殿の裏口で何時間も待っていると、やっと戸を叩《たた》く音がして、ラスプーチンが使者に連れられて入ってきました。貧しい身なりで髭《ひげ》ぼうぼうの彼はまっすぐ皇帝の部屋にとおされ、怖じける様子もなく皇帝につかつかと歩みよって挨拶《あいさつ》しました。一種異様な感動におそわれた皇帝は、さっそくその日の日記に書き留めました。「今日、神から遣わされた男に会う。グリゴーリイ・エフィーモヴィッチ・ラスプーチン。トボリスク県の出身」
広間や廊下をぬけ、何事かといぶかる高官たちのあいだを、一行はまっすぐ皇太子の寝室に進みます。いまやロマノフ王朝のすべての期待が、この百姓一人にかかっているのです。そして彼らがむかう病室の奥では、死と隣あわせでもがく幼児の、胸を掻《か》きむしるような苦痛の叫びが今も続いているのです。
部屋に入ると皇太子がベッドの上で両膝《りようひざ》を胸におしつけ、胎児のような姿勢でうめき苦しんでいるのが目に入りました。ラスプーチンはおもむろにベッドに近づいて身をかがめ、指で皇太子の顔に小さい十字を切りました。おっかなびっくり目を開いた皇太子は一瞬ギクッ。目のまえに髭もじゃの見知らぬ男の顔があったのですから無理もありません。いったい誰だろう、この男は。僕を連れにきた死に神かしら?
けれどそれも一瞬のことで、ラスプーチンの力づよい声が、安心させるように彼のうえに降りそそぎます。「怖がらなくていいよ。私は坊やをなおしに来たんだ。ほら、もう苦しくないだろう? たちまち元気になって、明日はもう起き上がれるぞ!」
ラスプーチンの大きい温かい手がからだをさすり、やさしい声が語りかけるにつれ、快い安らぎが皇太子の全身につたわっていきました。アリョーシャがそうっと手を伸ばしてみると、これまでの恐ろしい痛みが嘘《うそ》のように消えているのに、もうびっくり。皇帝は嬉《うれ》しさに涙ぐみながらラスプーチンの手を握りしめ、皇后はひざまずいてその手に口づけせんばかり……。これこそ聖者だ。これこそ神がお遣わしになった人物なのだ……。
この日からラスプーチンの、名誉と栄光の日々がはじまったのです。