グリゴーリイ・ラスプーチンは一八六五年、ロシアのトボリスクに近い小さい村に生まれました。家は数頭の馬を持ち、父親は村長をしたこともある、比較的裕福な農家でした。学校にも通わず字も満足に書けないのが当時の百姓の生活でしたが、そのかわり彼は学校では学ぶことのできないいろんなことを身につけていました。大自然のなかで木や風と語り、トナカイを乗りこなし、荒馬を調教し……。彼は馬の言葉を解せるようになり、どんな手におえない荒馬も彼の手にかかるといちころだと言われていました。
ラスプーチンのもう一つの楽しみは、「スターレッツ」とよばれる人々の話を聞くことでした。彼らは奇蹟や予言を行なうと言われる修道士で、長い杖《つえ》とずだ袋とボロ服をまとい、ロシア全土を放浪していました。ときおり民家に立ちよって施しを乞うては、いろんな説教をして人々に崇拝されていたのです。彼らがラスプーチンの家を訪れたときは、父は手あつく持てなしたものでした。不治の病人を治したり、足なえを歩かせたりする彼らの能力にラスプーチンはあこがれ、いつか自分もスターレッツになって人々の役に立ちたいと思うようになっていたのです。
幼いときからラスプーチンは透視力という不思議な能力を持っていました。ある日とある農家から一頭の馬が盗まれ、村人たちはラスプーチンの家で顔をつきあわせ、どうしようかと相談していました。そのときベッドに横たわっていたラスプーチンは、突然ガバと身を起こして、ひとりの農夫を「お前が盗人《ぬすつと》だ!」と指さしたのです。指さされた農夫が村の有力者だったことから、父は彼が熱でうなされているだけだと慌ててつくろいました。が、少年の言ったことが気になった二人の村人は、あとで少年の指さした農夫をつけて行き、彼が自分の納屋から盗んだ馬を出してきて放してやるのを目にしたのです。
ラスプーチンが十二歳のとき起こった兄ミーシャの死は、彼の人生でもっともショッキングな事件でした。彼と兄が川で魚をとっているとき、石の上に張っていた氷にすべって兄は川に落ちてしまったのです。急いで川に飛び込んで助けようとしたラスプーチンも一緒に押し流され、かろうじて通りがかりの農夫に救い上げられました。が、不運にも兄は死に、ラスプーチンも肺炎にかかって生死のさかいをさまよいました。
不安のなかで家族たちが彼の枕《まくら》もとに集まっていると、突然彼がベッドの上に起き上がり、はっきりした声で叫びました。「ありがとうございます。奥さま!」そして横たわり、また眠りこけていきました。ところがその晩、数週間つづいた熱は嘘のように下がり、病いは急に回復に向かったのです。大喜びする家族たちに、ラスプーチンはいいました。
「美しい奥さまが治して下さったんだ。あの方が僕に命令なさるはずなんだ!」
この不思議な話を彼の父が司祭に話すと、司祭はそれは聖母さまかも知れないと言いました。
「聖母さまが彼に何かを望んでいらっしゃるのだ。それが何かは、もう一度聖母が現れて教えて下さるに違いない」
ラスプーチンは兄が死んで自分だけが生き残ったのは、何か意味があってのことに違いないと思うようになりました。二十歳のとき、彼は村の舞踏会で二歳年上の娘と出会って恋におち、結婚しました。やがて男の子も生まれて、一家は貧しいながら幸福な生活を送っていました。ところがその赤ん坊が半年後に死んでしまったのです。
ラスプーチンは深い悲しみにしずみました。そんなある日、彼が一日中歩きつづけ白樺《しらかば》林にまよいこんだとき、傾きかけた夕陽の光のなかに、彼は美しい女性の姿をみました。それが幼い頃みた幻の女性であることはすぐに分かりました。女性は彼に歩みよって言いました。「あなたは間もなく出発しなければなりません。あなたのいるべき場所はここではないのです」ラスプーチンは深い感動にうたれて、いつまでもその場に立ちつくしていました。
ある日ひとりの修道士にヴェルホトゥーリエの修道院への道をきかれて馬車で案内するうちに、修道士は自分が入っている「鞭身《べんしん》派」という宗派について、彼に話して聞かせました。それによると鞭身派は「罪を超越するために罪を求める」信仰であり、むしろ徹底的に罪をおかすことこそ、罪を絶滅させて心の平安を手にいれる方法だというのです。これにラスプーチンは強く心をうたれ、これこそ自分が求めていたものだと直感します。彼は修道士を送っていったヴェルホトゥーリエの修道院に、自らとどまって修行することを決意しました。
修道院でラスプーチンは厳しい修行をつみ、しだいに鞭身派の説く「自分の肉体を通して救済にいたる」道をきわめるようになりました。そのうちに彼は「真の聖者」と呼ばれている隠者マカーリーのことを伝えききました。マカーリーは現実とのつながりを絶って、少数の者しか知らない岩のなかに暮らしていると言われていました。ラスプーチンはこの隠者に会って教えを乞いたいと願い、ついに許可されたのです。
絶壁や急流を越え、とても人間が住むとは思えない奥地に隠者を訪ねると、マカーリーはひざまずくラスプーチンをやさしく抱き起こして言いました。「聖ミカエルのお告げで、私はお前がまもなくここにやってくることを知っていた。お前は新たな予言者、キリストの再来となろう。今すぐあらゆる絆《きずな》を捨てて、出発するがいい。お前の家族は、この瞬間からロシアなのだ」