当時のロシアは、大きい転換期にいました。つぎつぎと政党が誕生して政府を転覆しようとしたり、労働者のストが頻発し、農民までが不作と革命の波にあおられて一揆《いつき》をおこしていました。しだいに民衆は皇帝への信頼と尊敬を失いつつあったのです。
皇帝夫妻は孤独のなかで、絶対王政の見せかけを必死に守りつづけていました。周囲の取り巻きたちは社会情勢についてあたりさわりない報告ばかりしていたので、現実からかけはなれたまま、皇帝夫妻は音をたてて軋《きし》みはじめている帝国の頂点に、ひとり取り残されているのでした。
そんな彼らに親しく近づけるのは、今はラスプーチンだけでした。皇帝夫妻は彼を予言と奇蹟を行なう素朴な百姓としか思っていませんが、それは彼らの前だけのラスプーチンの仮の姿でした。素朴な見せかけの向うには限りない野心がくすぶっていました。
罪に身も心も浸りきることが逆に罪を壊滅させる道だという彼の説は、多くの人を惹《ひ》きつけました。彼の持つシベリア農民のたくましい生命力と熱い官能性が、頽廃《たいはい》したロシアの貴族社会に新鮮な息吹をあたえたのです。
彼は自分から逃れられる女がいようなど、思ったこともありませんでした。それでいて巧みなへりくつで、ただの肉欲を崇高なものに見せようとするのです。「我々はみな罪の道を通ってはじめて悔悟にいたるのだ。犯した罪が大きければ大きいほど、改悛《かいしゆん》もますます我々を清めてくれるのだ」
彼に征服された女たちは、貴族、ブルジョワ、修道女など、あらゆる階級におよびました。政敵がやとった秘密警察は、彼の無数の情事をいちいち記録しています。「二十六日夜、女優Vはラスプーチンと一夜をすごす」「ラスプーチンはD公爵夫人とアストリア・ホテルに一泊」などなど……。彼の邸|界隈《かいわい》にひそんでいる探偵たちは、女が邸を出入りするたびに互いに目配せをかわしながら、いちいち書き留めるのでした。
彼の邸では女たちが部屋部屋にひしめきあい、彼の一挙一動をうやうやしく見守っていました。いつでも求められればすぐ彼に身を投げだす用意のあるそんな女たちは、ラスプーチンの食べかけの菓子をうやうやしく頂戴《ちようだい》し、彼の下着を洗わしてほしいと懇願する始末でした。
ラスプーチンの女の口説きかたにはお決まりのパターンがありました。狙《ねら》う女の腰をかかえ、熱い息を女のうなじに吐きかけながら、しだいにベッドに連れていき服をぬがせるのです。そして聖像をまつった壁のまえにひざまずいて、ともに祈ろうと熱っぽく囁《ささや》きかけたあとは、たちまち肉欲の野獣にかわり、持ちまえの貪欲《どんよく》さでそれこそ時のたつのも忘れ、しつこく女の肉体をむさぼるのでした。目的を達してしまうとまた優しい修道士に戻って、「さあ、これでお前も天国にいけるよ」と、しゃあしゃあと囁くのでした。
彼の権力にあずかろうと、誰もが贈答品をささげ持ってやって来ました。総督、貴族院議員、皇帝の枢密顧問官、国際銀行頭取などのそうそうたる顔ぶれの列が、ときには邸の戸口から舗道につらなるほどでした。そして彼はいつも気軽に彼らの願いをきいてやり、出された礼金は無造作にポケットにつっ込むのでした。
いまやラスプーチンの権力は不動のものになりました。ときおり警察局長が彼の女性関係について上司に報告するのですが、誰もそれを真面目《まじめ》にとりあげる者などいませんでした。せいぜい彼の途方もない情事の数が、読む者に嫉妬《しつと》と羨望《せんぼう》を呼び起こすくらいでした。
ラスプーチンがいろんな党派のサロンに出入りしていたことから、やがて彼の「ドイツ・スパイ説」が生まれることになります。彼はただ金目あてにあちこちから情報を盗み取って、スパイや諜報員《ちようほういん》に売り渡していたにすぎないのですが。彼は来る者をこばまない寛大さからいつの間にか、英・仏との条約を破棄してドイツと手を組もうとする、国内の一勢力に与《くみ》することになってしまったのでした。