この事件はまた、迫りくる王朝の終局への不吉な鐘の音でもありました。同じ日の午前十一時、セルビアのサラエボで、オーストリアのフェルディナンド大公夫妻がドライブ中、若い学生に襲撃されて死亡しました。サラエボとラスプーチンの村とは経度で約五十度の違いで、時差は三時間二十分。つまりこれらの事件は、ほとんど同時に起こったのです。そして二つの事件が、不幸にも第一次大戦|勃発《ぼつぱつ》のきっかけとなりました。ロシア参戦に反対する唯一の人間だったラスプーチンが暗殺者に襲われ入院しているあいだに、戦争の幕は切って落とされてしまったのです。
これだけ離れていてはラスプーチンの能力も効き目がなく、歴史の宿命は抑えようのない流れになって動きだしました。オーストリアはセルビアに宣戦を布告し、七月二十九日、皇帝もついに兵力総動員の命令を全ロシアに発しました。
病室でこれを聞いたラスプーチンは、皇帝にたて続けに電報を打ちました。「恐ろしい嵐《あらし》がロシアを脅かしている。戦争に参加することで、奈落《ならく》をめがけて走っていることに、皆気づかない。我々はドイツに勝つかもしれないが、そのあと我々を待ちうけている災難は、かつて味わったことのないほどのものになろう。ロシアは自分の血のなかでおぼれ死ぬのだ。そして最後に行きつく所は破滅だ!」
が、いまや動きだした無情な歯車を誰もとめることはできませんでした。国全体が戦争という一つの目的にむかって熱狂していました。ドイツ、オーストリア、イタリア対ロシア、フランス、イギリス……。全ヨーロッパが二つに割れたも同じでした。そしてドイツ軍は八月三日、フランスとベルギーに荒々しく襲いかかったのです。
やっと傷も癒えたラスプーチンはさっそく皇帝に謁見して、いろんな情報をたてに、兵力や弾薬が底をついていることや、軍上層部で皇帝にたいする反逆の動きがあることを伝えて、戦争停止を説得しました。が、皇帝はこのときばかりは耳を貸そうともしませんでした。皇后までが「この問題には口出ししないでくれ。ドイツ皇帝を罰することが、ロシア皇帝の義務なのだ」と、きっぱり言い切るのでした。
そんなとき、またもや一つの突発事件がおこりました。皇后のお気に入りだった侍女のアンナ・ヴィルーボフが、一九一五年に列車事故で瀕死の重傷をおって、昏睡状態で病院に運ばれたのです。皇帝夫妻が駆けつけたときは、もう手のほどこしようもない状態でした。危急を知らされ、その場に呼ばれたラスプーチンは、何時間も意識のもどらないアンナの枕許《まくらもと》に立って、ささやきました。「目をおさまし、アンナ。返事をおし!」
すると驚いたことに、アンナは言われたとおりぱっちりと目を見開いたのです。「彼女は救われました」そう皇帝夫妻に告げるラスプーチンの額には、大粒の汗が吹きでていました。彼はよろめきながら病室を出ていきましたが、廊下で気を失って倒れてしまいました。あまりに過度の精神集中を要求され、体力を使いつくしてしまったのです。
七月には、ワルシャワがドイツ軍の手に落ち、この損害でロシアは兵員に大打撃をうけました。ラスプーチンは政府の好戦論者を一掃することを決意しました。まず必要なのは、好戦派の頭目ニコライ大公を抹殺することですが、これは難問で、万一失敗すれば彼自身の破滅を意味します。彼がロシアのユダヤ人社会の指導者たちに近づいたのは、そんなときでした。彼は彼らにユダヤ人解放をほのめかし、そのかわり力をあわせてユダヤ人迫害の中心人物であるニコライ大公を打倒しようと提案します。翌日、巨額十万ルーブルがラスプーチンの銀行口座にふりこまれ、はやくも九月にニコライ大公は総司令官を首になり、コーカサスの戦場に左遷されました。一応はラスプーチンの成功でした。大公の左遷と同時に皇帝自身が軍を指揮するため戦場に出発し、その留守中、権力を握るのは皇后でも皇族たちでもなく、ラスプーチンその人だったのです。
彼はこれという政治定見もなく、大臣メーカーとしてつぎつぎと皇后を通じて敵対者を首にして、自分に親しい人物を推薦しました。彼の命令で一四年八月から二年半のあいだに、首相四人、内務六人、法務・運輸・外務各三人、農林・陸軍各四人という、大量の大臣交替が行なわれたのです。
いまやラスプーチンがペテルブルグの真の皇帝でした。彼が皇后につぎつぎ書きおくる手紙、「我々の友人を愛しなさい」「彼は我々の一員です」は、そのまま、大臣や将軍を任命する勅令でした。皇后は夫にあてて書きます。「わたしたちはつねに友人の忠告に従わねばなりません。あの方の声は神の声なのですから」「わたしたちの友人は、日夜わたしたちのため祈りを捧げておいでです。今こそあなたの治世の栄光が始まるのです。あの方がはっきりおっしゃいました」
その年の暮れ貴族階級のあいだで、皇帝とラスプーチンを暗殺して皇后を修道院に幽閉し、皇太子をたてて摂政政府を設立する計画が発覚しました。ラスプーチンの独裁と、おまけに彼と皇后の不倫の噂が、人々の神経を逆なでしていたのです。
そればかりか、もっと忌まわしい噂が伝わっていました。皇后がアリョーシャを救ったお礼に、ラスプーチンに娘のオリガを捧げたというのです。「帝室の花」と呼ばれたこの美貌《びぼう》の王女はある軽騎兵大尉に恋していましたが、これを快く思わない皇后が、相手と別れるよう説得してくれとラスプーチンに頼んだのです。彼とオリガは長時間、ともに一室にこもりました。これまでの噂で、彼の治療[#「治療」に傍点]がいったいどんな性質のものか、皇后は分かっていたはずなのですが……。
この「密談」以来、オリガは人が変わりました。深い悲しみに沈み、罪の意識にさいなまれているようでした。オルロフ公爵は、オリガとラスプーチンが閉じこもっている部屋の前を通りかかったとき、ときならぬ悲鳴を聞いたといいます。彼はそのとき目撃したことをそくざに皇后に報告しましたが、皇后は一笑にふしただけで、逆にオルロフは宮廷から遠ざけられました。
彼はこれという政治定見もなく、大臣メーカーとしてつぎつぎと皇后を通じて敵対者を首にして、自分に親しい人物を推薦しました。彼の命令で一四年八月から二年半のあいだに、首相四人、内務六人、法務・運輸・外務各三人、農林・陸軍各四人という、大量の大臣交替が行なわれたのです。
いまやラスプーチンがペテルブルグの真の皇帝でした。彼が皇后につぎつぎ書きおくる手紙、「我々の友人を愛しなさい」「彼は我々の一員です」は、そのまま、大臣や将軍を任命する勅令でした。皇后は夫にあてて書きます。「わたしたちはつねに友人の忠告に従わねばなりません。あの方の声は神の声なのですから」「わたしたちの友人は、日夜わたしたちのため祈りを捧げておいでです。今こそあなたの治世の栄光が始まるのです。あの方がはっきりおっしゃいました」
その年の暮れ貴族階級のあいだで、皇帝とラスプーチンを暗殺して皇后を修道院に幽閉し、皇太子をたてて摂政政府を設立する計画が発覚しました。ラスプーチンの独裁と、おまけに彼と皇后の不倫の噂が、人々の神経を逆なでしていたのです。
そればかりか、もっと忌まわしい噂が伝わっていました。皇后がアリョーシャを救ったお礼に、ラスプーチンに娘のオリガを捧げたというのです。「帝室の花」と呼ばれたこの美貌《びぼう》の王女はある軽騎兵大尉に恋していましたが、これを快く思わない皇后が、相手と別れるよう説得してくれとラスプーチンに頼んだのです。彼とオリガは長時間、ともに一室にこもりました。これまでの噂で、彼の治療[#「治療」に傍点]がいったいどんな性質のものか、皇后は分かっていたはずなのですが……。
この「密談」以来、オリガは人が変わりました。深い悲しみに沈み、罪の意識にさいなまれているようでした。オルロフ公爵は、オリガとラスプーチンが閉じこもっている部屋の前を通りかかったとき、ときならぬ悲鳴を聞いたといいます。彼はそのとき目撃したことをそくざに皇后に報告しましたが、皇后は一笑にふしただけで、逆にオルロフは宮廷から遠ざけられました。