そのとき突然、ラスプーチンが身を動かすと、喉《のど》に手をやりました。「胸がやける。食い過ぎたかな?」待っていたとばかり、ユスーポフは医者を呼んでくると言って階上に走っていきました。
慌てふためいて状況を説明する彼に、イギリス人のケイが最後の手段を引きうけました。往診にきた医者のふりをして、ラスプーチンを銃殺するのです。二人がおりていくと、ラスプーチンはソファの背にもたれ、息をきらしていました。その超人的な肉体のなかで、いま生と死が壮絶なせめぎあいを続けているのでした。が、彼自身はそんなことと知らず、顔をあげないままで言いました。「イリーナが来ないなら、一緒にジプシー女たちのとこへでも行こうじゃないか?」これだけの毒を飲み下しながら、なおも女を求めに行こうとしている彼を、二人は信じられないという顔で見つめました。
「君は医者かい?」はじめて顔をあげたラスプーチンは、ケイを見てそう尋ねました。うなずきながらケイはピストルを後ろに隠し、そっとラスプーチンに近づきました。そして突然ピストルをラスプーチンの背にピタリとつけて囁いたのです。「お祈りなさい、ラスプーチン」言われたとおり、ラスプーチンは両手をあわせました。そして彼が振りむこうとするより先に、ケイが発した銃弾がその心臓を貫きました。獣のように唸《うな》りながらラスプーチンは床にたおれ、からだを大きくのたうたせました。
銃弾を合図にかけおりてきた同志たちが、倒れたラスプーチンを黙って取り囲みました。ラスプーチンは歯を食いしばり手足をひきつらせ、全身をおおきく痙攣《けいれん》させていました。傷口から大量の血があふれて、たちまち床のうえに広がっていきます。その光景は見ているものをゾッとさせました。
しばらくしてようやく、ラスプーチンは動かなくなりました。同志のひとりが彼の胸の傷口をしらべ、「弾は心臓を通っている」と言いました。あとは計画の総仕上げです。スホチン大尉がラスプーチンの外套《がいとう》を着てドミートリー大公と馬車で出発し、夜の町で一遊びしてからラスプーチンを家に送りとどけるという、芝居をしようというのです。そのあとでラスプーチンの死体をシーツにくるみ、もう一台の車でネヴァ川に片づけにいくのです。
みんなが支度をするため出ていったあと、残されたユスーポフはラスプーチンの肩をつかんで揺すってみました。首がグラグラ揺れ、手をはなすと体は再び床にパタッと落ちました。ところが次の瞬間、片方の目がかすかに動いたように見えたのです。ユスーポフがハッと息をのむと、今度ははっきりと、閉じていた両眼がおおきく見開かれました。
ユスーポフはゾーッとしましたが、金縛りにでもあったようにその場を動くことができませんでした。何か超自然的な力に縛りつけられて、彼はただ一人、自分がとっくにあの世に送ったはずの相手と向かいあわされていたのです。
突然ラスプーチンがガバと跳ね起きると、見るも恐ろしい形相で、両手を前に差しだしてユスーポフに襲いかかってきました。その唇から人間のものとは思えぬ呻きがもれました。「お前か! ユスーポフ、ユスーポフ!」
ユスーポフは自分を絞め殺そうとする相手と必死で争いました。ようやく満身の力をこめてラスプーチンの手を振りほどくと、相手の体は支えを失って、ふきでる血の海のなかにどうと倒れました。手のなかには、ユスーポフの服からむしりとった肩章をしっかり握りしめていました。
ユスーポフは夢中で二階の同志たちに叫びます。「大変だ、君たち! まだ生きているぞ!」仰天してケイらが階段をかけおりていくと、たちまち血まみれのラスプーチンが姿をあらわし、膝をつきハアハアあえぎながら、血まみれの手で手すりにしがみつき、一段ずつ階段を上がってくるのが見えました。が、彼は途中でむきを変え、階段のなかほどのドアを開けて中庭に飛び出していきました。
「まさか。まさか、そんなことが!」茫然《ぼうぜん》としてユスーポフは叫びました。その出口は万一のことを考えて、しっかり鍵《かぎ》がかけてあったはずなのです。夜の冷気のなかでラスプーチンは力をとりもどし、死にかけているとは思えない軽々とした足どりで走りだしました。が、次の瞬間、彼は立ち止まり、その後ろ姿が大きく揺らぎました。ケイの銃弾が背に命中したのです。雪のうえに点々と血をほとばしらせながら、彼はどうとその場に倒れました。そしてついに、もう二度と起き上がることはなかったのです。
ケイがピストルを手に、茫然と立ちつくしていると、ユスーポフがあとに追いつきました。やっとラスプーチンが動かなくなったのを確かめると、彼は感きわまったのか、力まかせに倒れたラスプーチンの顔に棍棒《こんぼう》をふりおろしました。長いあいだ女たちを魅惑してきたあの目が唇が、見るも無残にうち砕かれていきます。脳みそが飛びだし、眼球は垂れさがり、耳もちぎれてやっとぶら下がっているだけなのに、ユスーポフはまだ足りないというように、ラスプーチンの巨体のうえを足で踏みつけては地団太ふむのでした。
彼らは二人がかりでラスプーチンの服を脱がせ、死体を毛布にくるみ縄でぐるぐる巻きにしました。それを車に積みこむと、彼らはまだ人気《ひとけ》のない町を通りぬけ、ペトロスキー島にむかいました。死体をかついで川のほとりに立ち、厚い氷をオノで打ちわると、川の水がわずかに顔をのぞかせました。その割れ目から彼らが力まかせに投げこんだラスプーチンの死体は、急な流れにたちまち呑《の》まれていったのです……。
のちに捜査が行われたとき、ラスプーチンの死体は橋の下手で、氷のあいだに閉じ込められているのが見つかりました。確認に呼ばれた彼の娘たちは、ユスーポフの棍棒が作り出したその恐ろしい形相を、一生忘れることができませんでした。検屍《けんし》解剖後、胃のなかからたしかに毒物が発見され、まだ肺には水が入っていました。
一方の腕が巻かれていた縄からはずれて、三本の指を胸のところに立てていました。これはラスプーチンが川に投げ込まれたときもまだ生きていて、力をふりしぼって十字を切ったことを示していたのです!
ユスーポフはゾーッとしましたが、金縛りにでもあったようにその場を動くことができませんでした。何か超自然的な力に縛りつけられて、彼はただ一人、自分がとっくにあの世に送ったはずの相手と向かいあわされていたのです。
突然ラスプーチンがガバと跳ね起きると、見るも恐ろしい形相で、両手を前に差しだしてユスーポフに襲いかかってきました。その唇から人間のものとは思えぬ呻きがもれました。「お前か! ユスーポフ、ユスーポフ!」
ユスーポフは自分を絞め殺そうとする相手と必死で争いました。ようやく満身の力をこめてラスプーチンの手を振りほどくと、相手の体は支えを失って、ふきでる血の海のなかにどうと倒れました。手のなかには、ユスーポフの服からむしりとった肩章をしっかり握りしめていました。
ユスーポフは夢中で二階の同志たちに叫びます。「大変だ、君たち! まだ生きているぞ!」仰天してケイらが階段をかけおりていくと、たちまち血まみれのラスプーチンが姿をあらわし、膝をつきハアハアあえぎながら、血まみれの手で手すりにしがみつき、一段ずつ階段を上がってくるのが見えました。が、彼は途中でむきを変え、階段のなかほどのドアを開けて中庭に飛び出していきました。
「まさか。まさか、そんなことが!」茫然《ぼうぜん》としてユスーポフは叫びました。その出口は万一のことを考えて、しっかり鍵《かぎ》がかけてあったはずなのです。夜の冷気のなかでラスプーチンは力をとりもどし、死にかけているとは思えない軽々とした足どりで走りだしました。が、次の瞬間、彼は立ち止まり、その後ろ姿が大きく揺らぎました。ケイの銃弾が背に命中したのです。雪のうえに点々と血をほとばしらせながら、彼はどうとその場に倒れました。そしてついに、もう二度と起き上がることはなかったのです。
ケイがピストルを手に、茫然と立ちつくしていると、ユスーポフがあとに追いつきました。やっとラスプーチンが動かなくなったのを確かめると、彼は感きわまったのか、力まかせに倒れたラスプーチンの顔に棍棒《こんぼう》をふりおろしました。長いあいだ女たちを魅惑してきたあの目が唇が、見るも無残にうち砕かれていきます。脳みそが飛びだし、眼球は垂れさがり、耳もちぎれてやっとぶら下がっているだけなのに、ユスーポフはまだ足りないというように、ラスプーチンの巨体のうえを足で踏みつけては地団太ふむのでした。
彼らは二人がかりでラスプーチンの服を脱がせ、死体を毛布にくるみ縄でぐるぐる巻きにしました。それを車に積みこむと、彼らはまだ人気《ひとけ》のない町を通りぬけ、ペトロスキー島にむかいました。死体をかついで川のほとりに立ち、厚い氷をオノで打ちわると、川の水がわずかに顔をのぞかせました。その割れ目から彼らが力まかせに投げこんだラスプーチンの死体は、急な流れにたちまち呑《の》まれていったのです……。
のちに捜査が行われたとき、ラスプーチンの死体は橋の下手で、氷のあいだに閉じ込められているのが見つかりました。確認に呼ばれた彼の娘たちは、ユスーポフの棍棒が作り出したその恐ろしい形相を、一生忘れることができませんでした。検屍《けんし》解剖後、胃のなかからたしかに毒物が発見され、まだ肺には水が入っていました。
一方の腕が巻かれていた縄からはずれて、三本の指を胸のところに立てていました。これはラスプーチンが川に投げ込まれたときもまだ生きていて、力をふりしぼって十字を切ったことを示していたのです!