今日見るような魔術の原型が形づくられたのは、五千年以上も前の古代エジプトである。たとえば人を呪《のろ》い殺す術、死者をよみがえらせる術、霊をよぶ術、絵画や彫刻に命を吹きこむ術、海や川の水を支配する術、動物や虫に変身する術、黄金を造りだす術、そして予言や占いなど……。
魔術の守護神とされるトートは、月の神であると同時に、書記と知恵の神でもある。錬金術を発明したのもトートで、ギリシア人はこれを天の使者ヘルメスと同一視して、ヘルメス・トリスメギスツス(三倍も偉大なヘルメス)と呼んだ。『トートの書』とは、この伝説的人物が書き記したとされる、魔術の奥義書である。
当時のエジプトでは、ざっと挙げるだけでも、つぎのような神々が地方ごとに崇められていた。たとえば黒蛇神セト、イシスとオシリスの夫婦神、ワニの頭を持つセベク神、ネコの頭を持つバスティト神、獅子頭の女神セケト、太陽神ラーなどなど……。
そんな状態を嘆いたのが、エジプト第一八王朝時代のファラオ、イクナトン(紀元前一三七五年即位)である。彼は最高神をアトンとさだめ、それ以外の神をすべて追放することを決定した。
このころエジプトに生を享けたのが、のちにユダヤ民族の指導者となるモーゼである。当時エジプトのヘブライ(イスラエル)人は、奴隷として強制労働を課せられ、男子が生まれたら残らず殺すようにという過酷な命令を受けていた。
しかしモーゼは生まれてすぐ両親の手でかくまわれ、その後、ある縁からエジプトの王女にひろわれて養子にされる。しかし自分の出生の秘密を知ってから、同胞を救うことこそが自分の使命だと感じるようになるのである。
野心的なモーゼは、エジプト時代に、弾圧された宗教の神官から、神聖文字に秘められた魔術知識を盗みとったらしい。この知識が、のちにユダヤの秘儀とされる�カバラ�だったのだ。
さて、繁栄を誇ったエジプト王国も、紀元前一世紀にはローマの属州となったが、エジプトの魔術はヘブライ文明に受けつがれていった。旧約聖書によれば、ヘブライの民アブラハムの孫にあたるヨセフは、ファラオの見た夢を解きあかした報いとして、奴隷から副王にまで出世している。
その後名宰相ぶりをいかんなく発揮したヨセフは、故郷のカナンから一族を呼びよせ、このときからヘブライ人は四十年にわたって、エジプトに住むことになる。
旧約聖書の「出エジプト記」には、ヘブライ人の解放を要求するモーゼと、エジプトの魔術師との魔術合戦が描かれている。このときモーゼの演出した奇跡は、いわゆる�十の奇跡�と呼ばれるものだ。
たとえばモーゼが杖を王のまえに投げると、それが蛇に変身し、川の水がことごとく血に変わり、魚は死に、川は悪臭を帯びて、エジプト人は水を飲めなくなったという話。さらにモーゼが天にむかって手を差しのべると、暗闇が全エジプトにひろがり、三日のあいだ人々が互いの顔を見ることも出来なくなったという話……。
ファラオは馬にひかせた二輪の戦車と六百の精鋭部隊その他大軍を率いて、ヘブライ人一行を追いかけた。このとき一行は砂州の切れ目に差しかかって立ち往生するが、モーゼが海のうえに手を差しのべると、「主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は別れた」(第一四章二一節)のである。
ヘブライ人らはあらわれた陸地を、全力で駆けた。エジプト軍も闇と嵐のなかを突進してきたが、それまで引いていた水が、いつのまにか押しよせてきて、気がついたときは全軍が海に飲み込まれてしまったのである。
これこそが、モーゼがエジプト時代に学んだ魔術、�カバラ�だったとされる。いわゆる�カバラ�は、旧約聖書のなかにあらわされた隠れた象徴を読みとろうとする密教で、それを正しく解いた人間は、自然界のすべての秘密を読み取ることが出来るとされた。
言葉と数の魔力によって、カバリストらは信じがたい奇跡を実現する。燃えさかる大火を鎮め、悪疫を追い払い、戦火を遠い地に転じさせたりする。ある者はカバラの最古の聖典『創世の書』を利用して、人造人間まで作ったとされる。これが、いわゆるアート・マジックである。
いっぽうで、エジプトの魔術はギリシア・ローマにも流れこんだ。魔術の土俗的信仰のベールをはぎとり、哲学の衣装を着せたのはギリシア人である。ギリシアは高い科学文明を発達させていたが、彼らにとって神々の国は、人間があと一歩足をのばせば到達することのできる距離だった。そこでギリシアでは、�死者の口寄せ�や�神おろし�などの巫術《ふじゆつ》が盛んになったのである。
こうしてエジプトやギリシアはそれぞれに魔術体系を発展させたが、それらを統合させたのが、アレキサンダー大王によるペルシア遠征である。これでエジプト、ペルシア、ギリシアまで、広大な地域の文化がたがいに交流し、魔術もたがいに影響を与えあうことになった。
ローマ時代になると、ローマ人は各地に勢力をのばし、そのとき目撃した魔術儀式に関する記録を残している。各地の魔術が紹介されたローマは、いつのまにか各種魔術の博覧会のようなものになってしまった。やがてギリシアから引きついだ哲学が、新プラトン主義として開花し、グノーシス主義などの神秘思想と混ざりあって、�ヘルメス学�という魔術体系が生まれたのである。
ローマ帝国の神殿には、ローマ神話の神々のみならず、エジプトの神々、ヒンドゥー教の神々、さらにユダヤ教の唯一神エホバまでが祀《まつ》られていた。が、ここにキリスト教という思いがけない障害が現れた。もとはユダヤ教の一分派に過ぎなかったが、二百年足らずのあいだに、ローマの国教となるまでに発展したのである。
ヨーロッパを席巻したキリストは、カバラやヘルメス学を異端として排撃したため、魔術は地下に潜伏することとなった。カバラは各地に散ったユダヤ人の司祭にだけ極秘裡に伝えられるだけで、一三世紀までその実態は闇《やみ》におおわれたままだった。
ヘルメス学のほうはラテン語文書として伝わったが、これもかたっぱしからキリスト教教会に没収され、人の目にとまることはほとんどなかった。こうして魔術は中世の時代まで、キリスト教の陰で生きることになる。
中世になると、カバラとヘルメス学は交じりあい、現在の魔術原理の原型となった。中世の魔術は、ざっと三つに分けることができる。一つはヘルメス学とカバラからなる本流魔術、もう一つは土俗信仰の呪術、そしてもう一つは、本流の魔術と土俗信仰の魔術がまじりあった魔術である。
本流魔術を研究したのは、ヘブライ語やラテン語の読める、神学者や大学教授など、ごく少数の識者たちだった。土俗信仰の呪術は貧しい農民を中心にひろまり、のちに妖術《ようじゆつ》として発展していく。
本流魔術と土俗信仰の混成魔術は、貴族や市民などの知的中流階級のあいだで普及していった。彼らは自国の神学者の書いた本流魔術の知識と、土俗信仰魔術を同時に取り入れ、独自の魔術体系を形成していったのである。
これら三種の魔術は、キリスト教の対抗勢力として闇のなかで伝えられていった。しかし一二世紀に七回にわたる十字軍遠征が終わりをつげると、カトリック教会は敵をヨーロッパ内に求めるようになった。かくて異端迫害・魔女狩りの、いわゆる暗黒時代が始まるのである。
が、魔女狩りの熱狂も、近代的な合理主義の台頭とともに衰えていく。一八世紀、ヨーロッパ諸国での魔女裁判は、つぎつぎと幕を閉じていった。たとえば、一七一七年、イングランド。一七二二年、スコットランド。一七四五年、フランス。一七七五年、ドイツ。一七八一年、スペイン。一七八二年、スイス……。
魔術師たちは、この動乱の千三百年間を何とか生きのびた。あるものは聖職者にまぎれ、またあるものは奥地に隠者として身をひそめて、少数の弟子にだけ口伝の形で魔術の秘儀を伝えていったのである。
とくにルネサンス期の科学者や文学者が、魔術に対して寛大だったことが、魔術を滅亡より救った。ガリレオ・ガリレイ、コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、シェイクスピア、ニュートンなどの人々は、単に科学や文学の巨匠というだけでなく、薔薇《ばら》十字の理想を体現した偉大な魔術師でもあったのである。