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黒魔術白魔術03

时间: 2020-07-21    进入日语论坛
核心提示:恐怖の魔女狩りと魔女裁判華やかなルネサンス文化が花開いた一六一七世紀のヨーロッパでは、いっぽうで魔女の疑いをかけられた人
(单词翻译:双击或拖选)
恐怖の魔女狩りと魔女裁判

華やかなルネサンス文化が花開いた一六—一七世紀のヨーロッパでは、いっぽうで魔女の疑いをかけられた人々がつぎつぎ捕らえられ、残虐な拷問にかけられて処刑されていった。約三百年にわたって、ヨーロッパ中に荒れ狂った魔女狩りの嵐。このとき殺された人の数は、数十万とも数百万とも言われる。
一日として魔女を焼く火がのぼらない日はなく、魔女が捕らえられない日もなかった。殺されていった人間のほとんどは、名もなく貧しい女たちである。地位も名誉もある高位高官たちの理性を吹き飛ばし、何万もの無実の人々を焼き殺した、集団狂気の原因はなんだったのだろうか?
原因としては、第一に当時の社会不安を挙げることが出来よう。中世末期から近世にかけて、人々はそれまでにないどん底につきおとされていた。ヨーロッパの人口の三割近くを奪ったペストの流行、極端なインフレ、各地で広まった宗教改革運動など、激動のなかで、民衆の不安は頂点に達していた。
その捌《は》け口として選ばれたのが、�魔女�だったのである。魔女は魔力で天候を不順にし、牛の乳を涸《か》らし、畑の作物を荒らし、男を不能にし、胎児を流産させることが出来る。ときに赤ん坊を殺してその肉を食らい、悪魔に生《い》け贄《に》えとして捧げることもある……
というわけで、この世の不幸の一切が、魔女のせいにされたのである。断っておかねばならないが、この魔女�ウィッチ�には、女だけでなく、男も含まれる。悪魔と契約を結んだ者なら男女の差はなく、すべてが�ウィッチ�にされたのである。
とはいえ処刑されたのは圧倒的に女性が多かったことには、キリスト教の持つ�女嫌い�の思想が、大きく作用していた。そもそも人類創世のころから、最初に悪魔の誘惑にのって禁断の木の実を食べたのは、最初の女性イブだったのだ。
このことからつねに女性は聖書のなかで男性よりおとしめられ、女性は男性より、悪に染まりやすいという考えが定着していった。一人の男の魔女に対して一万人の魔女がいる、という歴史家ミシュレの言葉どおり、こうして多くの女たちが殺されていったのである。
一二世紀ごろから南フランスなどを中心に、ヨーロッパに噴出した一連の異端運動と正統教会の激しい衝突が起こった。ヨーロッパにまきおこった宗教改革運動に対抗して、ローマ法王は修道会を結成して、異端弾圧に力を入れはじめた。こうして成立したのが、異端者を法廷で裁く、�異端審問制度�である。
魔女裁判は文字どおりの暗黒裁判で、いったん魔女の疑いをかけられれば、決して無罪になることはなかった。ありとあらゆる拷問にかけられ、自己弁護の機会は一切与えられなかった。
たどりつく先は処刑場と相場が決まっており、しかも裁判費用から死体を焼く薪《たきぎ》代まで、教会が被告から没収した財産から出させる。実は教会は、もっぱらこの没収財産目当てに、魔女を探し出そうと躍起になったのである。
一五世紀に入ると、魔女刈りは一気に頂点をきわめた。決定打になったのが『魔女の鉄槌《てつつい》』の刊行である。ドミニコ会修道士であるヤーコブ・シュプレンゲルとハインリッヒ・インスティトリスの二人が、教皇インノケンティウス八世の認可のもと、一四八五年に出版した魔女裁判マニュアルだった。
『魔女の鉄槌』は出版されるやいなや、ドイツで十六版、フランスで十一版というように、またたくまに大ベストセラーになった。この書は「人間が綴った本のなかで、これほどの苦痛を生み出したものはない」と言われるほどの害悪を、全ヨーロッパにもたらしたのである。
書物は三部構成になっており、第一部では魔女や妖術使いが、迷信ではなく確かに実在していることを、神学的立場から説明している。
第二部は、魔女たちがどんな魔術を用いて、人々に危害を加えるかを紹介している。たとえば魔女は、嵐や稲妻を引き起こす。人間や動物を生殖不能にする。水辺を歩いている子供を両親の目前で、ただし両親に見られることなく、水のなかに投げ入れることができる。魔女は拷問にかけられても沈黙を守りとおすことが出来る。捕らえようとする人々の手を震わせ、恐怖を抱かせることができる。自分の子供でさえ悪魔に捧げてしまう……。
そして第三部では、魔女裁判の方法について書かれている。たとえば被告の着ているものを全部はぎとり、魔術の道具を隠していないか、すみずみまで探るように。さらに自白しないなら、縄で縛って拷問にかけよというような、具体的なことが書かれていた。
 ところで、こうして摘発された魔女は、実際どんなことをしていると、信じられていたのだろう?
魔女になるには、何をおいてもまず、悪魔と契りをかわさねばならない。これは、「悪魔との契約」と呼ばれる。魔女はみずからすすんで、悪魔に仕えるむねの契約をかわすのだと信じられていたのだ。たとえば「私より美人の○○さんが憎い。なんとかおとしいれてやりたい」とか、「もう貧乏は沢山だ。山ほどお金をもうけて思い切り贅沢《ぜいたく》したい」などという欲望を持っている人間を、悪魔はめざとく見つけ、魔女になるように誘惑するのだ。
魔女になればどんな願いでもかなえることが出来るといわれて、魔女になる決心をした者は、悪魔との契約書をしたため、それに自らの血で署名をするのである。
ところで、この「悪魔との契約書」が、現代にも伝わっている。フランスはルーダン市の司祭ユルバン・グランディエが、悪魔とかわした契約書である。とはいえ、これも真っ赤な偽物で、どうせ彼を魔女に仕立てあげようと、異端審問官たちがでっちあげた代物ではあろうが……。
いずれにしても、この契約書は、パリ国立博物館に現在も展示されている。
「わが主であるあなた(悪魔)を、わが神として認め、生ある限りあなたに仕えることを私は約束する。そしてこのときより、あなた以外のすべての神々、イエス・キリスト、聖母マリア、カトリック教会を否定することを誓う。私はあなたを礼賛し、一日に最低三回臣従の礼を捧げる。万一、私が心変わりするようなことがあれば、私の霊魂と肉体と生命をあなたに捧げる。ユルバン・グランディエ、血をもって署名する」
しかしこのような契約書が書かれることは滅多になく、そのかわり、魔女はうずくまって片手を頭のうえに置き、もう一方の手を足の裏に入れ、こう悪魔に誓うことが多かった。「私は汝に、私の両手のあいだにある一切のものを与える」
こうして魔女は悪魔に一生仕えることを誓い、十字架を踏みにじり、カトリック教会を否認し、契約のしるしとして、自分の爪、髪、血などを悪魔に捧げる。それに悪魔のほうは魔女に、超自然的な魔力、毒薬、飛行薬、使い魔(魔女の手足として働く小悪魔)を与えるのである。
そしてこの契約のとき、悪魔は魔女の皮膚の一部をそっと噛《か》む。これが悪名高い�魔女のマーク�である。一六世紀の神学者ランベール・ダノーによると、悪魔はなるべく目立たないところにそのマークをつける。マークはいつも同じ形とはかぎらず、ときにはウサギやヒキガエルやクモの形をしていることもあるという。魔女マークは男性の場合はまぶたの裏や脇の下や肛門、女性の場合は乳房の下や陰部などによく見つかるのだそうだ。
また、悪魔が魔女の手先として働くようにつかわした使い魔も、現れるときはありふれた生物の形をとる。それもネコ、鳥、カエル、いたち、子ブタ、ひよこ、あるいはゴキブリなどに化けるのだという。
魔女はそれらに愛称をつけていたらしく、ブラックシンナー(黒い罪人)、グリーディーガット(大食いの腸)、ヴィネガー・トム(ヴィネガーには酢のほかに、不機嫌の意味もある)などの愛称が、古い記録に記されている。
ではここで、魔女の入信式がどんなものだったかをご紹介しよう。魔女の志願者は、荒野で開かれる魔女集会《サバト》に出席することになる。入信式はたいてい、この魔女集会の最初に行なわれるのだ。
そこには角をはやし、コウモリの翼をつけた、見るもおぞましい悪魔が待っている。志願者はここで、それまで信じてきたイエス・キリストや聖母マリアやカトリック教会をすべて否定し、その証拠として、悪魔の前で十字架を踏みつけるよう命じられるのだ。
さらに志願者は悪魔の名において悪魔の洗礼を授けられ、クリスチャンネームを捨て、悪魔の名前がつけられる。そして悪魔に自分の歯や爪などをわたし、地面に円を描いてそのなかで悪魔への服従を誓うのだ。
さらに自分の名を悪魔の持つ�死の書�に書き込み、子供を呪術によって一カ月に一人は殺し、悪魔に捧げることを誓う。そして最後に悪魔にひざまずいて、こう宣誓するのである。
「キリスト教会のミサをすべて否定し、聖母と聖人を侮辱し、教会の設備や聖遺物を出来るだけ破壊し、聖なるロウソクや聖水を決して用いず、自分の罪を心から懺悔《ざんげ》せず、そして悪魔と自分のかかわりを決して口外しない」
入信式で志願者がめでたく魔女として迎えられたあとは、悪魔と魔女たちの宴サバトが始まる。悪魔を中心に魔女たちが集い、あらゆる冒涜《ぼうとく》行為と性的乱交をくり広げるのだ。
魔女はそれぞれが、コヴェンとよばれるグループに属していた。一つのコヴェンには十二人の魔女と一人のいわば司会者がおり、あわせて十三という神秘的な数をつくった。司会者というのは悪魔自身か、または悪魔の代理をする人間だった。
サバトが開かれるのは決まって夜中で、午後十時ごろから夜明けまでのあいだである。開催場所としては、ドイツのブロッケン山、イタリアのベネヴェント近くの森、フランスのブルターニュのカルナック荒野をはじめ、墓地、洞窟《どうくつ》、野原など、さまざまな場所で開かれる。
ときには悪魔の命令で、ある地域のコヴェン全部が、合同大集会を開くこともあった。そんなときは、数十人から、なんと一万人も集まったという。
イギリスや西ヨーロッパでは、この大集会はハロウィーンの十月三十一日の晩に開催されると信じられた。ヨーロッパのもっと東のほうでは、メーデーの前夜、つまり四月三十日の聖ヴァルプルギスの夜に開催されると考えられた。
ドイツ人は悪魔が魔女を、シュヴァルツヴァルト(黒い森の意味)の最高峰ブロッケンの上に呼び集めると信じていた。そこでは、魔女たちがほうきの柄の馬に「アウフ・ウント・ダフォン・ウント・ニルゲンツ・アン(のぼって,出発して、どこへも行くな)」と、叫ぶ声が聞こえると信じられていた。
これらの特別な夜には,ヨーロッパ中の人々が、魔女が空中旅行の途中で舞い降りてこないよう、注意をはらった。家の戸口にはヤドリギ、糸に通したニンニク、馬の蹄鉄《ていてつ》などをぶらさげた。悪い精霊をよせつけないためのお守りである。ボヘミアでは屋根のうえにイバラや割れたガラスをまき散らした。夜飛ぶ魔女が舞い降りるのを思いとどまらせるためである。バイエルン地方ではヴァルプルギスの夜に、若者たちが高い丘のうえに集まり、一晩中、鞭を打ちならす習慣があった。鞭の音が聞こえる範囲内では、魔女は何の悪さも出来ないと信じられていたのだ。
魔女たちは夜、家の人々が寝静まってからこっそりサバトに出かける。ある者はほうきにまたがって空を飛び、ある者は動物の背中に乗って運ばれ、また、自らも動物に変身したりして、サバト会場へと急ぐ。
魔女たちが到着したサバトの会場には、黒いロウソクが不気味にともり、中心には、親分である悪魔が静かに座している。このとき、悪魔は化け物や動物(特に牡山羊)に変身していることが多い。
到着した魔女は悪魔に挨拶をするのだが、これは悪魔の肛門にキスをするという、おぞましいやり方だ。肛門へのキスは、明らかにキリスト教の祝福のキスの逆である。そして輪切りの蕪《かぶ》が、ホスチア(聖餠)の代わりに出される。
魔女がそろい、悪魔への挨拶がすむと、魔女志願者の入信式を行なう。入信式がすむと、魔女たちは�親分《マスター》�に、前のサバト以来、自分たちが行なった悪事を報告しあった。
魔女マザー・シプトンは、ある日のサバトの光景を、こう語っている。
「女たちがまず悪魔におじぎし、つぎに男たちがおじぎした。明かりは説教壇のまわりに並べ立てた黒いロウソクである。悪魔が真っ黒な姿で説教壇に立つと、皆が『ここにおります』と答えた。悪魔はまず、彼らがすべての約束を守ってよい召使だったか、また前回の集会以後どんな悪事をやったか、申し述べよと命じた。
悪魔の命令で、我々は三つの墓をあばき、死体の手指、足指、鼻などを切りとり、バラバラにして分け合った。アグネスは自分の分として二本の指の節をもらった。悪魔は我々に、それらの断片を乾くまで保存しておき、その後は粉にしてそれを使って悪いことをせよと命令した。それから、出来るかぎりありとあらゆる悪事をせよという彼の戒律を守れと命令した。我々は立ち去るまえに皆、彼のガウンのある決まった場所にキスした」
そのあとは、いよいよ宴会が始まる。テーブルにならぶ食べ物は、腐った肉、生《い》け贄《に》えの子供の肉、血などである。馬の頭蓋骨でつくった打楽器で、不気味な音楽が演奏される。こうして宴会で腹を満たした(?)悪魔と魔女は、ダンスを始める。まず背中合わせに円形になり、左まわりでグルグルまわるという、奇妙なダンスだ。
ダンスがすむと、ロウソクの火を消し、悪魔の合図で、悪魔や男女の魔女が入り乱れて、セックスにふける。男同士、女同士、親子同士、兄弟同士など、手近にいた者と相手かまわず激しく交わりあう。
このとき、悪魔自身もお気に入りの魔女を選んで、乱交に加わる。こうして思うさま欲望を満たした魔女たちは、鶏が鳴く前に帰路につき、家人に見つからないようにベッドにもぐりこむのである。
 一六世紀ドイツの画家ハンス・バルドゥンク・グリーンに、『魔女たち』と題する銅版画がある。数人の魔女が空を飛んだり、あるいは飛ぶ用意をしている光景が描かれている。宙に浮いた老婆が片手に杖を持ち、もう片方の手で娘の腰を抱えてさらっていこうとしている。右手前景には、片手に煙のあがる麝香《じやこう》の器を持ち、いまにも宙に舞い上がろうとしている女がいる。
しかし問題なのは、その前景左手の女だ。彼女は左手に呪文を書いた札のようなものを持ち、もう一方の手を股間に入れて、塗り薬のようなものを陰部に塗っているのだ。
昔から魔女を描くほとんどの画家が、ほうきにまたがって空中を飛行する魔女を描いた。しかし魔女が飛ぶことの出来るのは、じつは股間に怪しげな塗り薬をすりこむおかげなのだ。実はこれこそが、悪名高い�魔女の塗り薬�である。
魔女の塗り薬の成分は、いったいどんなものなのだろうか? 血や小動物の死骸《しがい》など、さまざまな不気味な成分を混ぜてはいるが、主成分は幻覚剤的な薬用植物だったようだ。
ゲッチンゲン大学の精神病理学者H・ロイナー教授は、魔女の塗り薬の成分を、およそ五種のアルカロイドに大別した。
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・イヌホオズキ属のアトロパ・ベラドンナから抽出されるアトロピン。
・ヒヨスから抽出したヒヨスアミン。
・トリカブトのアコニチン。
・ダトゥラ・ストニモニウムからとったスコポラミン。
・オランダ・パセリからのアフロディシアクム。
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これらの各成分がかもす効果は、深い昏睡状態、性的な夢幻的幻視、飛行体験などである。媚薬《びやく》として用いられていたオランダ・パセリは、性的狂宴の幻視効果を高めただろう。アコニチンによる動悸不全は、飛翔からの失墜感覚を引き起こしただろう。
ベラドンナによる幻覚は、激しい舞踊と結びつくと、一種の飛行感覚を引き起こす。睡眠への墜落、性的興奮、飛行感覚は、こうして各成分の作用の時差になって、交互に入り交じって現れたに違いない。
使用法は、これらアルカロイド抽出物の混合液を煮つめ、赤ん坊の血や脂、煤《すす》などを加えて、軟膏状にしたものを、太股の内側や性器の周囲にすり込むのである。しかし本当に、期待どおりの効果が得られたのだろうか?
じつは現代の学者で、魔女の塗り薬を実際に当時の処方どおりに作ってみた人物がいる。自然魔術の研究で高名な民族学者、ウィル・エーリッヒ・ポイケルト教授だ。一九六〇年、ポイケルトと友人は、一七世紀の魔女の塗り薬を処方どおりに復元してみて、自分の皮膚にすりこんでみた。成分はベラドンナ、ヒヨス、チョウセンアサガオ、その他の毒性植物を混ぜたものである。
服用後まもなく朦朧《もうろう》とした陶酔状態になり、それから深い昏睡状態におちいった。目が覚めたのはようやく二日後で、頭がズキズキして口のなかはカラカラだった。
その後ふたりは、それぞれ別個に�体験�を書いてみた。するとその結果は口裏をあわせたように一致して、しかも中世の魔女たちが拷問で吐きださせられた告白と、驚くほど一致していたのである。
「私たちが長時間睡眠のなかで体験したのは、夢幻の空間へのファンタスティックな飛翔、嫌らしい醜面をぶらさげたさまざまな生き物に囲まれたグロテスクな祭り、原始的な地獄めぐり、深い失墜、悪魔の冒険などだった」(ポイケルト)
では、中世の魔女たちの証言は、必ずしも根も葉もない嘘ではなかったのだ。ルネサンス・イタリアの自然科学者ヒエロニムス・カルダーヌスも、旅の幻覚をともなう塗り薬の話を書いている。
「それは、驚くべき事物の数々を見せてくれる。大半は快楽の家、緑なす行楽地、すばらしい大宴会、きらびやかな衣装をまとう美女たち、王侯、貴族……。人の心を魅するありとあらゆるものを見せてくれ、人々は自分がてっきりこれらの快楽を享楽していると錯覚する。しかし一方で彼らは、悪魔、鳥、牢獄、荒野、絞首吏や拷問刑吏の醜悪な姿も目にする。そのため遠い奇妙な国を、旅行しているような気がしてくるのだ」
天国と地獄とを同時体験するような、快楽と恐怖がかわるがわる登場してくる、未知の空間への旅行体験は、たぶん現代の幻覚剤によるトリップと同じようなものだったろう。
 魔女は、さまざまな超人的な能力を持っていると考えられていた。その一つに、人を殺して心臓を食べたあと、かわりにワラをつめこみ、もう一度生きた状態にもどすという能力があった。その人物は、外から見ただけでは、ごく普通の人間だったが、二度と笑うことがなく、愛や親切や優しさなどの感情を何も示さないのだという。
しかし魔女の能力のなかで、もっとも恐れられたのは、ワラ人形を用いて、相手に害を与える能力だった。魔女は教会に出かけて、後ろ向きのまま祭壇に近寄り、ある呪文をつぶやく。
そのあと、ムギワラの束をくくって人間のかたちにして、教会の近くの地面に埋める。そのワラ人形が湿った土のなかに埋められたら、すぐ腐って急激な痛みのない死を引き起こすと考えられた。しかし乾いた土のなかに埋められたら、かなりの期間腐らないままにあり、ぐずぐず長引く苦しい死をもたらすだろう。
さらに魔女の能力のなかで、もっとも恐れられたものに、�邪眼�(イーブル・アイ)というものがある。ひと睨《にら》みで人の命を奪ったり、病気にしたりする能力である。なかには本人が意識していなくても、相手をじっと見るだけで呪《のろ》いがかかってしまうこともあった。畑の作物が枯れたり、家畜が子を産まなくなったりすることも、邪眼の呪いのせいだとされた。まなざしにはさまざまな魔力があると信じられていたのだった。
さらに魔女は、ねらった人間に悪魔をのりうつらせることができた。いわゆる�悪魔つき�である。特に悪魔にとりつかれやすいのは、女と子供だった。悪魔につかれた人は凶暴な発作を起こしたり、泣きわめいて床をころげまわったりと、錯乱状態に陥ってしまう。
人の体から悪魔を退散させるにはさまざまな方法があったが、よく行なわれたのが、その人を裸にして鞭で打って悪魔を出す方法と、車輪に体を縛りつけ、車輪をまわし続けて悪魔を退散させる方法である。
ときには悪魔|祓《ばら》いをするために、悪魔祓い師(エクソシスト)が呼ばれることもある。悪魔祓い師が悪魔祓いのときに読みあげる言葉は、キリスト教の洗礼の儀式からとられたものもある。
「汝、不浄なる魂を祓う! この神のしもべより遠く失せよ! そこより出でよ! 汝が運命を聞け、呪われたるデヴィルよ! 呪われたるサタンよ!」
悪魔祓いの儀式は、聖書の一節を読みあげる段階から、長々と祈祷《きとう》文を読みあげる段階まで、三段階で構成される。そして悪魔祓い師の努力で、ついていた人の体から出ていくとき、悪魔は蜘蛛や煙、汚物、血などの姿になっているという。
 魔女を処刑台へ導いたきっかけの大半は、「あいつは魔女かもしれない」という、人々の無責任な噂《うわさ》だった。一度魔女の噂が立ってしまったら、もう逃げるすべはなく、行きつくところは決まっていた。
なぜなら、異端審問官たちはみな、魔女の犯罪は、他の犯罪とちがって、世間の噂の真実性を詮索する必要はない。魔女の罪は、証人として喚問された法律学者でさえ、立証がむずかしいほどの大罪なのだと考えていたのである。
魔女を摘発するもう一つの方法は、�密告�だった。密告はごく日常的に行なわれ、昨日は魔女を密告した者が、明日には自分が魔女として密告されることもあった。子が親を、妹が姉をというように、家族を密告することもざらにあったという。
たとえばイギリスで、ウルスラ・ケンプという女性が、近所の女性とその娘たちを呪術で病気にして殺したという疑いで魔女にされ、絞首刑になったが、彼女を密告したのはなんと彼女の八歳の息子だったという。
魔女裁判でもっとも重視されたのが被告の自白で、『魔女の鉄槌』では、自白だけでも、被告を魔女とすることができるとしている。そしてその自白を引き出したのが、恐ろしい拷問なのである。
異端審問官らが、被告たちに与えた尋問は、たとえばつぎのようなものである。「魔女になってどのぐらいたつのか? なぜ、どうやって魔女になったのか? 悪魔にどんな誓いを立てたのか? サバトにはお前のほかに誰が参加していたか? お前は誰にどんな危害を加えたか? お前の共犯者は誰か?」
被告たちは、恐ろしい拷問道具がずらり並んだ部屋に連れこまれる。そして自分は無実だと必死に主張しているにもかかわらず、お前の共犯者は誰かなどと、冷酷な異端審問官にとんちんかんな尋問をされる。彼らは自分の言葉に耳を傾けてもらえない悔しさと、このままでは殺されてしまうというあせりで、パニックに陥ってしまう。
そして最後に訪れる拷問という決定打で、結局、彼らは自分が魔女だと自白するしかなくなるのである。これまで処刑された魔女たちの自白や、審問官の悪魔的な想像力をもとに、いつしか自白内容の定型が出来あがっていた。
「魔女になったのは○○歳のときです。サバトにも参加しました。そこで悪魔や他の魔女たちとセックスし、さらってきた子供を煮て食べました。悪魔に与えられた魔力で伝染病も流行らせたり、○○さんを呪術で殺しました。私のほかには○○さんと××さんが魔女です……」
数百年ものあいだ、魔女の自白はほとんど同じような内容だった。尋問する内容と順番は決まりきっているので、しだいに裁判官の尋問する事項の欄は、ただの数字や暗号で代用されるようになった。
異端審問官は、魔女に自分のした悪事を自白させただけではなく、その仲間を炙《あぶ》りだすことに躍起になった。一人の魔女が逮捕されると、必ず何人もの魔女がつぎつぎ摘発されることとなる。拷問にかけられ、魔女たちは地獄の苦しみのなかで、知人の名を手あたりしだいに口にする。
ともかく誰かの名をあげなければ、拷問は永遠に終わらないのだ。自分のせいで、彼らも同じような拷問を受けることになるのだと思うと、良心が咎《とが》めながらも……。こうして捕らえられた者は同じように拷問と自白を強いられ、魔女の数は鼠算式に増えていくのである。
魔女の大半が火あぶりになったが、方法は二つあった。絞殺されてからの火刑と、生きながらの火刑である。どちらも結果は同じだが、残酷さにかけては大きな開きがあった。チロチロ燃える炎で、意識があるまま焼かれていくことは、想像を絶するほどの苦しみだった。皮膚が焼け落ち、骨がむきだしても、意識だけは残っている。生きながらの火あぶりの場合、絶命するまで半時間以上も地獄の苦しみを味わわなければならなかったという。
ところで、魔女狩りが行なわれた全期間を通して、合計どのぐらいの数の人々が焼かれたかは、現在その正確な数をつかむことは出来ない。ただ、魔女狩りの開始時期を一四五〇年として、終焉期を一七五〇年にすることでは、大方の研究者の意見は一致しているようだ。
フランスだけを見ても、たとえばボルドーでは一五七七年だけで四百人。アルザスでは一五九六年だけで二百人。ストラスブールでは一五八二年十月だけで百三十四人の人々が焼かれている。
いっぽうドイツに目を転じてみれば、一五八三年にオスナブルックでおこなわれた大量処刑では、百二十一名の魔女を火刑にしたのをはじめ、一五八九年にも同地で、百三十三名を火刑に処している。またエルヴァンゲンでは一六一二年に百六十七人、バイエルンでは一六二九年だけで二百七十四人。ザクセンでは一五八九年のある一日だけで百三十三人、ヴュルツブルクでは一六二三—三一年で九百人の人々を、火刑台におくっている。
一六三一—三五年の五年間には、ドイツのケルン大司教管下にある三つの村、ラインバッハ、メッケンハイム、フレルツハイムで、それぞれわずか三百戸ばかりの村で、百五十名前後の人々が焼かれている。またロレーヌの検事総長をしていたニコラ・レミは、一五八一—九一年の約十年間に、九百人を火刑台に送ったと豪語し、バチカンの役人だったバルトロメオ・スピナは、一千人の魔女を焼き殺してやったと豪語している。
結局のところヨーロッパ全体では、一五世紀末から一八世紀初頭まで、約三十万人の魔女が焼かれたとも、九百万人とも言われている。
ヨーロッパ各地では魔女を焼く黒煙が毎日たえることなく、空をおおっていた。まさに暗黒時代という名にふさわしい光景である。あるていどの魔女の数がそろうと、処刑は�死の祭典�なるショーとして大々的に行なわれた。
これという気晴らしのない時代、人々は期待に胸躍らせてショーに参加し、裁判官が魔女たちの罪状を読みあげると、引き出されてきた魔女に石を投げたり、口汚い罵《ののし》りを浴びせた。教会と民衆が一緒になって、残酷な処刑ショーに酔いしれていたのだ。
やがて魔女たちは、燃えやすくするために体に硫黄を塗られ、衣服をはぎとられる。そして火刑台に縛りつけられ、周囲に薪《たきぎ》をうずたかく積まれて火を点けられるのである。魔女裁判では、処刑される魔女は全財産を没収されることになっていた。魔女狩りがここまで盛んになったのも、財産没収が異端審問官たちのうまみになっていたからである。
捕らえられた魔女の財産については徹底的に調査が行なわれ、魔女たちが懸命に貯金した現金や不動産は言うまでもなく、魔女が人に貸しつけていた債権も免れなかった。異端審問官たちは魔女に代わって、借金を取り立てに街をまわったのだ。
さらに魔女裁判にかかる費用もすべて、没収財産から差し引かれた。絞殺されるときの綱や、火刑のときの薪の費用まで、すべてこれからまかなわれたのだ。
 拷問の恐ろしさは、想像を絶するものだった。まず被告は拷問室にともなわれ、裸にむかれて、部屋に並べられた拷問道具の数々を見せられ、自白をするよううながされる。それでも自白を拒否すれば、体を縛りあげられ、鞭打たれて尋問が繰り返される。
魔女裁判でおこなわれた拷問には、たとえばつぎのようなものがある。
●指詰め……万力のような道具で、爪が割れ、骨が砕けるまで手をはさみこむ。またはネジのついた二台の装置に、囚人の左右の親指をはめこませ、ゆっくり締めはじめて、血が吹き出すまで締めつづける方法や、ペンチで爪をはぎとることもよくあった。しだいに指は押しつぶされ、グシャッという音とともに血が吹き出し、骨が砕ける。爪と指のあいだは神経が密集している箇所で、それこそ想像を絶する痛みだったという。
●肝つぶし……短いハシゴに囚人の手足をくくりつけ、その綱をウインチにつなぐと、くるくる回りだす。囚人は右に左にと引きまわされ、肝をつぶしてしまうというわけだ。ドイツ皇帝カール五世の定めた刑事法典カロリナには、罪人があくまで口を割らないなら、腹から後光のようなものが出るのが見えるぐらいに引きまわすようにと書いてある。
●スペイン風長靴……ネジのついた長靴に罪人の脚を入れさせ、ふくらはぎと脛骨を同時に締めつける。きつく締めつけると脚の骨が折れることもある。ネジの下にクサビを突っ込むと、ますます痛みは耐えがたいものになり、もし拷問に耐えられたとしても、たいてい脚が不自由になる。
●拷問椅子……鉄の鋲《びよう》が一面に植え込まれた椅子に、無理やり座らされる。なかには六時間にもわたってこの椅子に座らされた例があるとか。
●硫酸責め……シャツを硫酸にとっぷり浸してから、それを容疑者に着せる。あるいは服を着せてから、硫酸をかける方法もある。皮膚や髪は焼けただれ、ズルリと皮膚の表面がむけていき、想像を絶する苦しみだったという。
●こすり責め……首に縄を巻きつけて、ごしごしこするもので、極端な例では首の骨が露出してしまった。
●沐浴《もくよく》責め……氷がごろごろ浮かんだ水槽に、被告を真っ裸にして長い時間ひたしておく。
●羽根火責め……羽根に火をつけて、被告の腕や股の付け根にかざしていぶる。
●松明《たいまつ》責め……腕をピンと伸ばして縛った罪人の脇のしたを、松明の炎でじりじり焼け焦がす。
●ブーツ責め……被告に革の長靴をはかせ、そのなかに煮えたぎった湯や油をそそぎこむ。ときには足を切り開いて、傷口に煮えたぎった油をそそぎこむことも。
●四肢牽引……被告をハシゴに縄できつく縛りつけ、四肢を同時に四方から強い力で引っ張る。四肢の関節はすべてはずれ、身動きできない状態になってしまう。
●吊り落とし……被告を後ろ手に縛りあげ、天井まで高く縄でつり上げる。そこから急に縄をゆるめて一気に勢いよく落とすが、地上すれすれのところで止める。たいてい一回で四肢の関節はすべてはずれ、三回目ともなると、大半の者は絶命したという。
●万力責め……指砕きと同じような万力をすねなどにあて、骨が砕けるまで締めあげる。当然、骨は砕け、肉はちぎれて飛び出すという。その苦痛は、気絶さえ許さない壮絶なものだ。
●焼きゴテ、焼けた鉄の靴……真っ赤に焼けた焼きゴテを体に押しつける。ジュッという音とともに、肉は焼けただれて真っ黒に染まる。真っ赤に焼けた鉄の靴をはかせ、そのうえからハンマーで打ちつけるというバリエーションもあった。被告の足はもはやその原形をとどめず、むろん歩くことなど不可能だった。
●目つぶし……編み棒のような鉄の棒を両目に突き刺し、盲目にする。
●水責め……被告の体を台に縛りつけ、口を無理矢理こじあけられ、漏斗《ろうと》で水を流し込む。最初に約九リットルの水を流しこみ、まだ自白しないときはさらに九リットルの水を流しこむ。胃は水ではちきれんばかりで、息もできない状態になる。
●爪剥ぎ……尖った鉄を爪と肉のあいだの奥深くまで差しこみ、鉄をグイッと引きあげ、爪を無理やり引きはがす。爪を剥がしたむき出しの肉の部分に、針を突き刺す方法もあった。
●不眠責め……被告を何日ものあいだ、一睡もさせないで、牢のなかを一日も休むことなく、ぐるぐると歩きまわらせる。
●塩ニシン……猛烈に塩のきいたニシン料理を無理やり食べさせて、その後数日のあいだ水をいっさい与えない。
 当時考えられた、魔女識別法には二つある。その一つは「針刺し法」だ。当時、悪魔は魔女に、家畜に化けた「使い魔」を手先として与え、魔女はこの使い魔に自分の血を分け与えると考えられていた。
そこで悪魔学者たちは魔女が使い魔に自分の血をすわせた証拠に、からだの何処かにマークのようなものが残っているはずだと主張した。そこで異端審問官たちは、被告を素裸にして拷問台に縛りつけ、ときにはからだ中の毛も剃り落としてすみずみまで点検させた。
さらに審問官は、悪魔のしるしのある場所は、魔法で感覚がマヒしているはずだと言いだして、その箇所を針で突き刺して探ることにした。それこそからだ中、肉の奥まで針で刺しまくるから、たまったものではない。のちにはまぶたの裏や舌の裏、性器のなかまで、針刺しの拷問はおよんでいった。
悪徳魔女発見業者のなかには、突き刺すと針が柄のなかに引っ込んでしまう、インチキ針を使う者もいた。こんな業者にかかった魔女は、痛みはなかったかもしれないが、当然ながら処刑台への近道を歩くことになった。
しかし針刺しでも判別がつかないと、もう一つの方法があった。魔女は水に拒否される(つまり水のうえに浮かぶ)と信じられていたため、被告の手足を一緒に縛り、「魔女風呂」と名付けられた浴槽のなかに投げこんだのだ。
もし浮き上がってこなければ無罪。浮き上がってきたら魔女である証拠である。しかしいずれにしても、浮き上がってこなかった者はそのまま命を落とすこととなり、どちらに転んでも結局は助かる見込みはないのだ。
前記のように、魔女裁判は教会にとって財産没収という恰好《かつこう》の商売になったが、裁判以前の段階である�魔女の摘発�を商売にしている人もいた。いわゆる�魔女発見業者�である。
これになるには、別にこれという資格はいらない。異端審問官でなくてもいいし、別に権力者でも教会関係者でなくてもいい。ただ、魔女の�発見�が、人一倍たくみでさえあれば良かったのだ。
魔女発見業者のなかで、もっとも有名だったのが、イギリスはサフォーク州出身の弁護士、マシュー・ホプキンズである。別名「魔女刈り将軍」と呼ばれ、一六四五年からたった二年のあいだに、三百人以上の魔女を処刑台に送りこんだ。彼とその部下たちが摘発した魔女の数は、イギリスの魔女狩りの犠牲者の、約三分の一にもなるという。
ホプキンズはエセックスを中心に魔女発見活動を開始し、魔女の恐怖におびえていた人々は、魔女を発見してくれるのならと、ホプキンズにおしげなく報酬を払った。ホプキンズは、魔女をひとり発見するたびに、高いときは二十数ポンドの金を要求した。一日の平均賃金がわずか六ペンス(一ポンド=六〇ペンス)の時代、ほとんど破格の値段だった。
ホプキンズの魔女発見のキーポイントは、使い魔の発見だった。彼はこれぞ魔女と狙《ねら》いをつけた人物の家には、必ず使い魔がいると断言した。犬、ネコ、蚊、蠅、クモなど、それこそどんな家にでもいるような生き物を、彼は使い魔だと信じていた。
ホプキンズの魔女に対する拷問も残酷なもので、魔女と見なした人間を裸にして、例の魔女マーク発見のための試し針を、全身に突き刺したが、このとき使った針は、針先を人体におしつけると、針が体内に入らずに逆に柄の部分におしもどされるという、インチキ針だったそうだ。
しかし魔女狩り名人として悪名を馳せた、そのインチキ針をある司祭にみやぶられ,ついに廃業に追い込まれる。彼は翌年の一六四七年に、原因不明の病気にかかって世を去った。肺結核というが、別の説もある。魔女研究家ハチントンの話では、ホプキンズは近所の人々に捕らえられ、これまで彼が魔女たちに対して行なってきた、水責めの拷問にかけられ、それがもとで命を落としたという。これこそ、因果応報というものだろうか。
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