一八四八年十月のある日曜日、静かなティイ・シュル・スールの町の教会堂で、奇妙なミサがもよおされていた。まず、祭壇のうえには、悪魔と異教の神を合体させたような、グロテスクな像がたてまつられている。そして周囲の壁には、殺人や冒涜《ぼうとく》を賛美する不気味な壁画がびっしり描きこまれている。
さらに内陣の周囲には、さらにおぞましい絵が描かれていた。たとえば、男根像、女陰像、クル病の殉教者、はらわたの飛びだした司祭、黒くしなびた乳房を持った女神、十字架型をした陽物像に釘《くぎ》で打ちつけられた醜いキリストなど……。
御堂内では何十人もの女たちが、それぞれ湯気のたつ香炉をまえにして座っている。そのなかみは、ヒヨス、トリカブト、ベラドンナなど、いずれも恐ろしい毒草のかずかずだ。この煙のなかに、やがて魔王サタン、ベルゼブル、アスタロット、ベリアルなどの悪魔たちが現れようとしているのである。
祭壇をのぼる司祭は、裸である。祭壇のうえには、山羊に仮装した人間がいる。司祭が聖体パンをとりだして�山羊�に捧げると、山羊が司祭にむかって、「げす野郎、さっさと服を着ろ!」と怒鳴りつける。
こうして司祭はミサ服を身につけるが、服には謎《なぞ》めいた象形文字や淫《みだ》らな判じ絵がぎっしり描きこまれ、おまけに精液らしき液体で汚されている。司祭が聖書を読むあいだ、山羊は祭壇上に立ったまま嬉《うれ》しげに身をよじっている。
しかし司祭がパンにむかって「そはわが肉なり」と言うやいなや、山羊は醜い顔を司祭に近づけ、赤い舌をのばしながら、「げす野郎、聖体パンをよこせ!」と命ずる。司祭が恐る恐るパンを差し出すと、山羊はそれを受けとって体にこすりつけたり、唾を吐きかけたり、小水をかけたりしながら、小踊りして「とうとう捕まえたぞ、畜生め!」とわめき散らすのだ。
「愚かな人類愛のために、こんな粉のなかに入りこみやがった。ざまあみろ、もう離すもんか。お前の司祭がお前を売ったのさ。そもそも人類を救うなどといって、地獄よりもひどい苦しみを人類に与えたのはお前じゃないか」
こう言うと、山羊は汚れた聖体パンを高々とさしあげて、信者たちに向かってみんなでわけるんだぞと命じて、ぱっと投げだした。信者たちは手から香炉をとり落とし、煙のたちこめるなか、押し合いへし合いして狂ったようにその汚らしいパンを奪いあうのだ。
互いに組んずほぐれつして、噛《か》みついたり爪でひっかいたりするたびに、彼らの口からは苦しげな呻きがもれ、衣服は破れて皮膚がむきだし、堂内は淫らな肉の修羅場と化した……。
静かな田舎町で、この恐るべき黒ミサを司っている�司祭�こそ、当時リヨンで最大の教祖として勢力を誇っていたヴァントラスである。百年の長きにわたって、ヴァントラスの始めた�慈善カルメル会�の信徒は、ヨーロッパ全土に広がった。
ヴァントラスの主張では、黒ミサとは、悪をあらわす山羊が、善をあらわす子羊に対して行なう偉大な犠牲で、権力を邪悪のがわに置こうとする試みなのだそうだ。そもそもキリストが殺されたのは�邪悪な�権力のためなのだから、こんな考え方は、いわばキリストの犠牲をふたたび再現しようとする試みともいえよう。
ヴァントラスは昔、ティイ・シュル・スールの製紙工場で監督をやっていた。そんなある日、彼の身に驚くべき事件が起きたのである。彼はそのときのことをこう語っている。
「朝九時ごろ、ミサを告げる鐘が鳴ったので、出席しようと帳簿の整理を急いでいた。そのとき誰かがドアを叩いた。職工が用があって来たのだろうと、『お入り』と言うと、驚いたことに、入ってきたのはぼろを着た見知らぬ老人だった。
私がそっけなく何の用かと聞くと、老人は静かに答えた。『怒らないで下さい、ピエール・ミシェル(ヴァントラスの本名)。私はとても疲れています。どこに行っても、泥棒のように軽蔑《けいべつ》の眼で見られるのです』
老人は悲しげな様子でそう言ったが、なぜか私はゾッとした。私は立ちあがって、机のひきだしから一〇スーの貨幣を出し、老人に渡して言った。
『さあ、これを持ってさっさとお行き』
老人はそれ以上,何も言わず、悲しそうに部屋を出ていった。そのあとすぐ、私はドアを閉めて鍵《かぎ》をかけたが、なぜか老人が階段を降りて行く足音が聞こえないので、気味悪くなって、ベルを鳴らして職工を呼んだ。老人が隠れていそうな場所を、あちこち探させようと思ったのだ。私も部屋を出て、家中をあちこち探したが、見つからなかった」
この出来事の少し後、ヴァントラスはパリのノートル・ダム・デ・ヴィクトワール教会のミサの席で、その老人にばったり出くわした。そのとき老人は、じつは自分こそ大天使ミカエルだと、彼に打ち明けたのである。
その後もさまざまな不思議や奇跡があいつぎ、ついに一八三九年ごろ、ヴァントラスは神が自分に一つの使命を与えられたことを疑うことが出来なくなった。教会をよみがえらせ、大天使の指示した人物を王位につけるという使命である。
ヴァントラスが帰りの馬車に乗っていると、大天使ミカエルが彼のそばに来てすわり、うしろを振り返ってみるよう命じた。振り返ると、なんとパリの街が真っ赤に燃えあがり、人々の阿鼻叫喚《あびきようかん》が空にこだましているではないか……。
「娼婦の町ニネヴェ(古代アッシリアの首都)が、住民とともに燃えているのだ」
と、ミカエルは言った。
かくてヴァントラスは、「フランスに間もなく破局が襲いかかるだろう」と予言して、いちはやく人々の注目を集めるのである。その後も大天使ミカエルは、ヴァントラスのそばを離れず、使徒や司祭をいちいち誰々と指定した。
ヴァントラスは、自らはストラタナエルと名のり、集まった使徒らにも天使名を与えた。たとえば当時、彼を庇護《ひご》していた、ノルマンディ貴族のド・ラザック氏はボテラエル、その妻はアネダエル……。
初期の使徒のなかには、弁護士、医師、反革命王党派の子孫だという、ダイマイエ公爵夫人などがいた。この公爵夫人をヴァントラスは自分の霊的な妻に指名し、ティイの館に彼女を招いてベッドをともにするようになった。
こうしてダイマイエ公爵夫人は、その後つぎつぎと起こる奇跡の目撃者となったのである。
奇跡はこんなふうにあらわれた。まず、ヴァントラスが祈りを捧げると全身からふくいくたる香りを発し、からだがふわりと浮かびあがる。からっぽの聖杯に手をふれると、みるみる葡萄《ぶどう》酒が満ちてくる。祭壇にのぼるとその足あとから、血の文字や心臓のかたちのにじんだ聖体パンがあらわれる……。
医者がその血を分析すると、まぎれもなく人間の血だったそうだ。血文字のにじんだ聖体パンは、もっとも熱心な、数百人の弟子たちに分け与えられた。
広まる噂に困惑したバイユー司教の命令で、ある日二人の僧侶《そうりよ》が、ヴァントラスの�慈善カルメル会�で起こる奇跡をその目で確かめようと、ティイにやってきた。
二人はあちこちを意地悪い目で点検して歩き、ヴァントラスを罠《わな》にかけようと、激しい議論をふっかけた。が、逆にヴァントラスに説得されてしまい、とうとうヴァントラスの足もとに身を投げだし、祝福を乞うたのである。
ストラタナエルことヴァントラスは、彼らに�恩寵《おんちよう》の十字架�を差し出したが、じつはそれこそ、主イエス・キリストの血潮に触れた十字架だったのである。するとたちまち二人の僧は、見るも恐ろしい怪物に変身し、鉤《かぎ》型の爪の生えた足を床に響かせて、ほうほうのていで逃げ去った。彼らが逃げたあとには、ひどい悪臭がただよっていたという。
奇跡の噂はすぐにひろまり、教団の支団がリヨン、パリ、ポワティエ、モンペリエ、アンジェなど、あちこちに結成された。ヴァントラスは、自分の教義を述べた小冊子を作ってばらまいた。
バイユーの司教は、この冊子にはカトリック信仰に反する点が多いと言って反駁《はんばく》し、ノルマンディ貴族ド・ラザック氏のもとに二人の僧侶をおくって改宗を迫った。ついにド・ラザック夫妻は、ヴァントラスとたもとを分かつことを誓い、四二年四月、「我々はヴァントラスを憎悪しこれを否認する」と書いた文書に署名している。
時を同じくして当局の捜査が開始し、ヴァントラスの弟子の一人、アベラエルことジョフロワが、ド・ラザック氏から五千フランをしぼりとっていたという事実が発覚したのである。
運の悪いことに、ティイの隣町の町長が王妃にあてて、ルイ・フィリップの政府転覆の目的で、ノルマンディに五十万にのぼる徒党が結成されつつあると訴えたため、もはや裁判は免れない事態になった。
ついに一八四二年四月八日、警察隊がヴァントラスの住居に踏みこんだ。捕らえられたヴァントラスの一行は、カーンの牢獄につながれた。予審は着々とすすみ、八月二十日、野次馬や信徒が大勢傍聴するなかで、ヴァントラスとジョフロワは、借金を踏み倒したという嫌疑にしては、あまりに厳しい刑を言い渡された。ヴァントラスは懲役五年、ジョフロワは懲役二年である。
牢にぶちこまれたヴァントラスは、めげるどころか、信徒をそそのかして抗議行動を起こさせた。さらに、聖母マリアに仕えることを主目的とする�聖騎士団�なる新教団を結成し、毎日、獄中から「騎士たる者は、青白の地にフランス、ポーランド、スペインのしるしを縫いとった、旗を揚げるように」と檄《げき》を飛ばした。
獄外では、新たな奇跡がつぎつぎ起こりつつあった。�慈善カルメル会�に入っていたある青年が、両親の説得に負けて棄教したが、数日後に肺結核で死んだ。葬式後、墓掘り人が柩《ひつぎ》に土をかけようとすると、突然、柩の中からコツコツ叩く音が聞こえたというのだ。
同じころ獄中のヴァントラスがふと目を覚ますと、その青年が経かたびらを着て彼の前に立ち、「僕のマリア徽章を下さい。でないと安らかに眠れません」と訴えたという。
この奇跡が知れわたると、大勢の人々が青年の墓に押しかけた。皆で死者の柩のふたをあけると、遺体はすでに腐って鉛色だったが、唇だけはまだ血が通っているように艶やかに赤かったという。信者たちは、これぞ新たな奇跡と信じこんだ。
数日後、今度はアンジェ司教が食事中にヴァントラスの悪口を言った。すると司教は、席を立った直後に、原因不明の即死をとげたのである。さらにストラスブール司教も、�慈善カルメル会�に対する反駁文を書いている最中、原因不明の即死をした。ヴァントラス裁判のとき、世間体を気にしてヴァントラスの弁護を断った弁護士は、気が狂い、痴呆状態になって世を去った。
さらにヴァントラスは獄中で、ルイ・フィリップの長男オルレアン公が死んだことを直観し、同囚たちにそれを話した。すると翌日になって、新聞が実際にその死を報じたため、同囚たちはびっくり仰天し、なおも沢山の改宗者が出た。
十八カ月間の幽囚ののち、ヴァントラスは友人たちの尽力で、ようやくレンヌに移された。監視の眼もゆるみ、菓子やワインや御馳走が、毎日そっと差し入れられた。そのころ、カーンで彼にさんざん意地悪をした二人の牢獄付き司祭が死んだ。二人とも伝染病で、それも特に意地悪だった片方は、膿疱性猩紅熱《のうほうせいしようこうねつ》でもだえながら死んでいったのである。
これらの事件は大きなセンセーションを巻き起こしたが、一方でそれを自分の利益に利用する人々も出てきた。リュトナエルことマレシャル神父は、初めはヴァントラスに心服していたが、一八四五年ごろ、今度は自分にも予言能力があると言いはじめ、�神の子たちの聖なる自由�という教義を宣言し、ティイの町で宣布をはじめた。
しかし�聖なる自由�というのは口実で、じつは内実は神を恐れぬ淫乱行為だった。ガルニエ家の娘たちを先頭に、慈善カルメル会の団員がつぎつぎと、恥も外聞もなくこの教義を信奉しはじめた。とくにジョフロワ家の娘マリは、十四歳にして、誰よりもリュトナエルの�教義�を実践し、信徒らを毎日新たな破廉恥行為に巻きこんで行った。
一八四五年に出獄したジョフロワから、慈悲のカルメル会がとんでもないことになっていると聞かされたヴァントラスは、ガッツォリという男を査察に送った。神の家が売春宿に一変しているのに仰天したガッツォリは、さっそく検察官に訴え出て、リュトナエルはほうほうのていで国外に逃亡した。
一切の報告を受けたヴァントラスが、ついに釈放されたとき、さっそく向かったのはティイではなかった。まず生活を建て直さねばならない。彼の妻があちこち奔走してなんとか当座の金を工面し、パリに仮住まいを得て、いよいよヴァントラスは活動を再開した。
慈善カルメル会の祭式を完成し、自ら司祭長を名のり、自分の下に七人の司祭を任命したのだ。そのなかには、後悔の情を示して復帰した、リュトナエルことマレシャル神父も入っていた。実は売春婦相手に金を遣いはたして行き場がなくなったのだが、彼の回心は、他の信徒たちの評判になり、血を流す聖体パンがふたたびもてはやされはじめた。
今やヴァントラス教は、イタリアにまで広まっていった。脅威を感じたローマ教皇庁の提言で、一八五〇年に緊急宗教会議が開かれ、ローマは異端宣告を発した。
しかし迫害にもかかわらず、ヴァントラスの�慈善カルメル会�はその後も、外国で大いに勢力を伸ばした。ロンドンでは修道会を組織し、オカルト流行の波に乗って霊媒をかこむ会を開き、一八五八年、ついにヴァントラスは「我こそ予言者エリヤの再来なり」と唱えはじめた。
その後は、旅から旅への日々を過ごした。フランスでは一八六三年に十以上の修道会を訪ね、司祭を叙任し、スペインやイタリアへと旅行した。フィレンツェに修道会の本拠を作り、そこはオカルト的な超常現象の見せ場になった。
スタニスラス・ド・ガイタ侯爵は、ヴァントラスを�神秘の大冒険師�と呼んでいる。ヴァントラスが死んだのは一八七五年十二月七日、奇しくも聖母の無原罪の御宿りの祝日だった……。