ゲーテの戯曲で有名な魔術師ファウストは、ドイツ文学のなかにしばしば登場するヒーローである。しかしこのファウストが架空の人物ではなく、一五—一六世紀ドイツに実在した人物であることは、ほとんど知られていないのではないだろうか?
ゲオルク・ファウスト博士は、ドイツ最大の魔術師だったが、錬金術の実験をしている最中に大爆発がおこって、肉体が周囲にちりぢりになって吹っ飛んでしまうという、悲惨な最期をとげた。
そのため彼は悪魔に魂を売りわたした忌まわしい人物として、当時の人々から忌み嫌われ、死後、その著書はすべて湮滅《いんめつ》されてしまった。さらに、少しでも彼について述べた書物も抹殺されてしまった。
天才的な予言者でありながら、たとえばノストラダムスの『諸世紀』に比較できるような、ファウストの予言書が現代に伝わっていないのはそのためである。
そのとき老人は、ラテン語らしき詩をとなえながら、火を高熱になるまでかき起こした。時は一五三九年、場所はドイツ、シュタウフェンの貧しい旅館の一室である。静けさのなかで、炎だけが激しく音をたてて燃えている。
「輝く炎のなかで、たぎる熱のなかで、凍る氷のなかで」
老人はそうつぶやきながら、白い光りの輝く炉上のるつぼの中をのぞきこんだ。るつぼのなかの物質はかすかに泡立ち、いっそう輝きを増しはじめた。
いまだ! と、老人は急いでふいごをわきに置き、白い粉の入った皿をるつぼの上にかかげた。白い粉が、煮えたぎる物質のうえに落ちる。細い火炎が立ちのぼり、まもなくまた小さくなった。るつぼのなかの輝きは消え、底のほうでおき火がふるえている。
老人は、慎重にるつぼのなかをかき混ぜた。なかの物質は、赤紫色になっている。さらにかき混ぜると、湯垢のようなものが出来た。温度が下がり過ぎないよう、これは下に沈殿させねばならない。つねにかきまわすこと。それもごくごく慎重に……。
いまに灼熱《しやくねつ》が再び発生するだろう。それもいっそう激しく、激烈に。きっと今度こそ黄金作りは成功だろう!
るつぼのなかの物質は再び煮えたち、輝きはじめた。これで、るつぼ内の物質が液状化されるだろう。ますます加熱がすすみ、予想どおりるつぼのなかは白く輝いた。部屋全体がポッと明るくなり、気体が上昇した。
いまだ! 博士はふたたび、皿をるつぼの上に高々とかざした。黒い粉末が、目がくらむような光のなかにさらさらと落ちていく……。
と、そのとき、ものすごい雷撃が宿を襲った。梁《はり》と床板はメリメリ音をたてて、砕け散った。ドアも雨戸も蝶番《ちようつがい》からはずれ、敷石が床に散乱した。そしてその直後、突然またシーンと静かになった。
恐怖のなかで数分が過ぎ、ついに宿の主人が決心して立ちあがった。背後ではおかみと小僧と二人の女中が震えながら身をよせあい、耳をそばだてている。
「何かパチパチ音がするわ」
おかみが囁《ささや》いた。主人はちょっと耳をそばだてたが、
「燃えている、火事だ!」
彼ははじき飛ばされたような勢いで、博士の部屋まで駆け上った。そこは惨憺《さんたん》たる光景だった。すべてが黒々と煤《すす》まみれになっている。すべてが破裂し、吹っ飛び、粉々になり、輝く炎におおわれ、部屋中にムッとするような悪臭がただよっていた。そして床上には、半分黒こげになった博士の死体がころがっていた……。
主人はよろめきながら急いで階段を駆け降りた。ドアの外では押しかけた群衆が、いったい何事かと彼を見つめていた。彼はたちすくみ、あえぎながら彼らに向かって叫んだ。
「悪魔だ、悪魔が博士を連れ去ったんだ!」
「輝く炎のなかで、たぎる熱のなかで、凍る氷のなかで」
老人はそうつぶやきながら、白い光りの輝く炉上のるつぼの中をのぞきこんだ。るつぼのなかの物質はかすかに泡立ち、いっそう輝きを増しはじめた。
いまだ! と、老人は急いでふいごをわきに置き、白い粉の入った皿をるつぼの上にかかげた。白い粉が、煮えたぎる物質のうえに落ちる。細い火炎が立ちのぼり、まもなくまた小さくなった。るつぼのなかの輝きは消え、底のほうでおき火がふるえている。
老人は、慎重にるつぼのなかをかき混ぜた。なかの物質は、赤紫色になっている。さらにかき混ぜると、湯垢のようなものが出来た。温度が下がり過ぎないよう、これは下に沈殿させねばならない。つねにかきまわすこと。それもごくごく慎重に……。
いまに灼熱《しやくねつ》が再び発生するだろう。それもいっそう激しく、激烈に。きっと今度こそ黄金作りは成功だろう!
るつぼのなかの物質は再び煮えたち、輝きはじめた。これで、るつぼ内の物質が液状化されるだろう。ますます加熱がすすみ、予想どおりるつぼのなかは白く輝いた。部屋全体がポッと明るくなり、気体が上昇した。
いまだ! 博士はふたたび、皿をるつぼの上に高々とかざした。黒い粉末が、目がくらむような光のなかにさらさらと落ちていく……。
と、そのとき、ものすごい雷撃が宿を襲った。梁《はり》と床板はメリメリ音をたてて、砕け散った。ドアも雨戸も蝶番《ちようつがい》からはずれ、敷石が床に散乱した。そしてその直後、突然またシーンと静かになった。
恐怖のなかで数分が過ぎ、ついに宿の主人が決心して立ちあがった。背後ではおかみと小僧と二人の女中が震えながら身をよせあい、耳をそばだてている。
「何かパチパチ音がするわ」
おかみが囁《ささや》いた。主人はちょっと耳をそばだてたが、
「燃えている、火事だ!」
彼ははじき飛ばされたような勢いで、博士の部屋まで駆け上った。そこは惨憺《さんたん》たる光景だった。すべてが黒々と煤《すす》まみれになっている。すべてが破裂し、吹っ飛び、粉々になり、輝く炎におおわれ、部屋中にムッとするような悪臭がただよっていた。そして床上には、半分黒こげになった博士の死体がころがっていた……。
主人はよろめきながら急いで階段を駆け降りた。ドアの外では押しかけた群衆が、いったい何事かと彼を見つめていた。彼はたちすくみ、あえぎながら彼らに向かって叫んだ。
「悪魔だ、悪魔が博士を連れ去ったんだ!」
シュタウフェンでの事件はヨーロッパの各地に知れわたり、人々を驚愕《きようがく》の底におとしいれた。やはり噂どおり、博士は悪魔と契約を結んでいたのか? 彼のピタリあてる占星術の予言も、みごとな金を作りだすという錬金術も、不治の病人を治す優れた医術も、すべては悪魔から授かった技術だったのか?
悪魔、魔女、魔法などが信じられていた時代、悪魔と契約した人間と関わりを持ったという事実は、世間にとほうもない恐怖を引き起こした。少しでも生前のファウストと関係のあった人間は、学者の集まりや夜の社交場で皮肉たっぷりな質問を受けた。通りを歩くと、人々は互いに袖を引いて囁きかわし、彼らが通ったあとで十字を切ったりした。
そこで自分にふりかかる疑いをはねのけるため、人々がやったのは次のようなことだった。まず、ファウストが触れたかも知れないすべての品は、すべて御祓《おはら》いの言葉をとなえながら何度も洗浄され、大気にさらされたあと、何度も水につけられた。爆破のとき投げ出された博士の使用した寝具や寝衣は、ただちに炉のなかで焼かれた。
博士が住んでいた部屋は、一カ月のあいだ毎週くりかえし祝福を与え、聖水が撒かれた。そして彼が書いた書物という書物は、一つ残らず火中に投ぜられた。浄化する火炎の力だけが、魂を腐敗させる悪魔の臭気を外に追い出すことが出来るからだ。
ファウストの敵たちは、悪魔ばらいの僧らと結託して、役所や市場や民衆の手もとに残っている文章を、かたっぱしからかき集めて絶滅した。むろんファウストに関連した書物や著作も探しもとめられた。悪魔にさらわれた人物を詳述したものはおろか、彼の名に言及した著述さえ、いっさい容赦《ようしや》はされなかった。
年代記、教会関係の文章、官公庁の通達、申請書、記録文書、そして市参事会の決議や法令まで、ファウストの敵はすべてを調査し、わずかでも疑わしい箇所を削除した。
このとき、どのぐらいの量の書物や原稿や書類が始末されたかは、不明である。しかしわずか数年後にも、哀れなファウスト博士の足跡は消滅し、もはや彼を思い起こさせるものは何も残らなかった。早くも一五八五年、書簡印刷者のヨーハン・シュピースが『ファウスト博士の物語』執筆のために資料を集め始めたとき、民衆間の伝説のほかは何も見つからなかったのだ!
こうして当時の識者たちはファウストの存在を抹殺してしまおうとしたが、民衆のあいだに、魔術師ファウストの思い出はいつまでも生きつづけた。一五八五年にはヨーハン・シュピースが編纂《へんさん》した、民衆本『ファウスト博士の物語』が出版されて、ベストセラーになっている。
一八世紀には、ドイツの文豪ヴォルフガング・フォン・ゲーテが、名高い戯曲『ファウスト』を完成させて、話題を呼んだ。そのなかでは主人公ファウストは、単に知識欲に燃えた魔術師ではなく、人類の未来を創造して行く西欧的人間精神の象徴とみなされている。
ゲーテの創造したファウストはあまりに有名になったが、一五—一六世紀に存在した実在の魔術師ファウストのことは、忘れ去られたままになったのである……。
悪魔、魔女、魔法などが信じられていた時代、悪魔と契約した人間と関わりを持ったという事実は、世間にとほうもない恐怖を引き起こした。少しでも生前のファウストと関係のあった人間は、学者の集まりや夜の社交場で皮肉たっぷりな質問を受けた。通りを歩くと、人々は互いに袖を引いて囁きかわし、彼らが通ったあとで十字を切ったりした。
そこで自分にふりかかる疑いをはねのけるため、人々がやったのは次のようなことだった。まず、ファウストが触れたかも知れないすべての品は、すべて御祓《おはら》いの言葉をとなえながら何度も洗浄され、大気にさらされたあと、何度も水につけられた。爆破のとき投げ出された博士の使用した寝具や寝衣は、ただちに炉のなかで焼かれた。
博士が住んでいた部屋は、一カ月のあいだ毎週くりかえし祝福を与え、聖水が撒かれた。そして彼が書いた書物という書物は、一つ残らず火中に投ぜられた。浄化する火炎の力だけが、魂を腐敗させる悪魔の臭気を外に追い出すことが出来るからだ。
ファウストの敵たちは、悪魔ばらいの僧らと結託して、役所や市場や民衆の手もとに残っている文章を、かたっぱしからかき集めて絶滅した。むろんファウストに関連した書物や著作も探しもとめられた。悪魔にさらわれた人物を詳述したものはおろか、彼の名に言及した著述さえ、いっさい容赦《ようしや》はされなかった。
年代記、教会関係の文章、官公庁の通達、申請書、記録文書、そして市参事会の決議や法令まで、ファウストの敵はすべてを調査し、わずかでも疑わしい箇所を削除した。
このとき、どのぐらいの量の書物や原稿や書類が始末されたかは、不明である。しかしわずか数年後にも、哀れなファウスト博士の足跡は消滅し、もはや彼を思い起こさせるものは何も残らなかった。早くも一五八五年、書簡印刷者のヨーハン・シュピースが『ファウスト博士の物語』執筆のために資料を集め始めたとき、民衆間の伝説のほかは何も見つからなかったのだ!
こうして当時の識者たちはファウストの存在を抹殺してしまおうとしたが、民衆のあいだに、魔術師ファウストの思い出はいつまでも生きつづけた。一五八五年にはヨーハン・シュピースが編纂《へんさん》した、民衆本『ファウスト博士の物語』が出版されて、ベストセラーになっている。
一八世紀には、ドイツの文豪ヴォルフガング・フォン・ゲーテが、名高い戯曲『ファウスト』を完成させて、話題を呼んだ。そのなかでは主人公ファウストは、単に知識欲に燃えた魔術師ではなく、人類の未来を創造して行く西欧的人間精神の象徴とみなされている。
ゲーテの創造したファウストはあまりに有名になったが、一五—一六世紀に存在した実在の魔術師ファウストのことは、忘れ去られたままになったのである……。
ファウストは一四八〇年、ドイツ南西部ヴュルテンベルクのクリットリンゲン村に生まれた。父は村の金持ちで、母はその家で働く女中だった。ファウストは私生児だったが、幼いときから成績優秀で、ハイデルベルク大学で学び、一五〇九年一月十五日、神学博士号をとった。
ハイデルベルク大学の記録には、「ファウストは十六人の志願者のうち、トップで博士号を授与された」とある。このとき彼は三十一歳。その後はエルフルト大学で教壇に立ったが、講義のみごとさは学生たちの人気を一身に集めたという。
その後は、ライプチヒ、プラハ、インゴルシュタットなどの各地を転々として、大学の教壇に立った。これらの大学でも、講堂はたちまち聴講生でいっぱいになり、彼が町を歩くと、大勢の弟子がぞろぞろ後についてきたという。
しかしやがて、ファウストが悪魔と手を結んでいるという噂が広まるようになった。彼が弟子を大勢引き連れて、毎夜のように町を飲み歩き、酔っぱらって悪さをしたり、騒動を巻き起こしたりしていたせいもあったようだ。しだいにファウストは、神学者たちから目のかたきにされるようになった。
その後ファウストは、ポーランドなどの各地をまわり、巡回占い師として活躍するようになる。このころ彼は、こう自称していた。「大学修士・巫術《ふじゆつ》師の元祖・占星術師・手相見・気象、火勢、水勢を観察して、世の動きを予言する、よろず占い専門家」……。
しかし彼が悪魔に魂を売りわたしたという噂がひろまると、だんだん客も減っていった。老いたファウストは、都市の広場で手品を披露して、生計をたてるという哀れな姿をさらすようになってしまった。
かつては神聖ローマ帝国皇帝やフランス国王にも召し抱えられたという彼にしては、たいへんな零落ぶりだ。
その後各地を転々としていたファウストは、一五三九年にやっとフォン・シュタウフェン男爵にひろわれて、その地に落ちついた。
しかしシュタウフェン男爵の注文で、卑金属を黄金に変える錬金術の実験をしている最中に、大爆発が起こり、肉体がまるで悪魔の手でひきちぎられたように、あたりに四散して死んでしまうという、悲惨な最期をとげたのだ。
この死に方のせいで、ファウストは悪魔に魂を売りわたし、ついに地獄に落ちてしまったのだという噂が広まった。おかげで彼の著作や彼についての記録がいっさい湮滅させられてしまったことは、前に記したとおりである。
ファウストが生前に駆使していた魔術は、大ざっぱに言って次の三つだそうだ。
宇宙に存在する善の霊、悪の霊、死人の霊などを呼びだして、彼らと自由に交渉できる巫術。つぎに石や金属の中に隠されている秘密の力を手に入れ、永遠の生命や健康や富を獲得しようとする錬金術。そして占星術、水晶の凝視、手相術など、さまざまな方法で未来を予言し、不幸を事前に察知して、安全な生活を送るための予言術だ。
ファウストが聖職者たちに非難されたのは、第一の巫術の能力を得るため、悪魔に魂を売りわたしたとされたからである。
なぜそのような危険をおかしたのかと弟子たちに聞かれると、ファウストは、「自分は若いときから魔術に専念してきたが、その道でかなりの達人になったとき、学識豊富な悪魔のメフィストフェレスと接触するようになったのだ」と語ったという。
ある日、地獄から悪魔を呼びだそうとしたファウストは、町の外れにある人気のない十字路におもむいた。そこで彼は、路上に大きな環をおいて、その端に何か神秘的な文字を描き、さらにその環を中心に、土のうえに同心円状に環を描いた。
やがて夜になって月が出てくると、ファウストは中央の環のなかに入って、悪魔の名を熱心にとなえた。すると不思議なことに、火の玉が何処《どこ》からか、唸《うな》りながら彼に向かって飛んできた。彼がさらに呪文をとなえつづけると、ついに悪魔の霊があらわれて、環のまわりをめぐりだしたという。
悪魔はファウストにむかって、「五つの条件を守るなら、お前にこの世の一切の富と幸福を与えよう」と宣言した。条件とは、(1)神やすべての天使を拒否すること。(2)すべての人間、とくに悪行にふける彼を罰しようとするものに、敵対すること。(3)聖職者には決して服従することなく、逆に敵視すること。(4)教会に行ったり、説教を聞いたりしないこと。(5)結婚制度に従って、妻をめとったりしないこと。
ファウストがこれらの条件を守れば、二十四年のあいだ、サタンの家臣のメフィストフェレスを従者として、好き放題の生活を送ることができるが、その期限がくると、肉体も魂も、悪魔に引きわたさねばならないというのだ。ファウストはこの条件を受け入れ、悪魔との契約書に、自分の血で署名したという。
ハイデルベルク大学の記録には、「ファウストは十六人の志願者のうち、トップで博士号を授与された」とある。このとき彼は三十一歳。その後はエルフルト大学で教壇に立ったが、講義のみごとさは学生たちの人気を一身に集めたという。
その後は、ライプチヒ、プラハ、インゴルシュタットなどの各地を転々として、大学の教壇に立った。これらの大学でも、講堂はたちまち聴講生でいっぱいになり、彼が町を歩くと、大勢の弟子がぞろぞろ後についてきたという。
しかしやがて、ファウストが悪魔と手を結んでいるという噂が広まるようになった。彼が弟子を大勢引き連れて、毎夜のように町を飲み歩き、酔っぱらって悪さをしたり、騒動を巻き起こしたりしていたせいもあったようだ。しだいにファウストは、神学者たちから目のかたきにされるようになった。
その後ファウストは、ポーランドなどの各地をまわり、巡回占い師として活躍するようになる。このころ彼は、こう自称していた。「大学修士・巫術《ふじゆつ》師の元祖・占星術師・手相見・気象、火勢、水勢を観察して、世の動きを予言する、よろず占い専門家」……。
しかし彼が悪魔に魂を売りわたしたという噂がひろまると、だんだん客も減っていった。老いたファウストは、都市の広場で手品を披露して、生計をたてるという哀れな姿をさらすようになってしまった。
かつては神聖ローマ帝国皇帝やフランス国王にも召し抱えられたという彼にしては、たいへんな零落ぶりだ。
その後各地を転々としていたファウストは、一五三九年にやっとフォン・シュタウフェン男爵にひろわれて、その地に落ちついた。
しかしシュタウフェン男爵の注文で、卑金属を黄金に変える錬金術の実験をしている最中に、大爆発が起こり、肉体がまるで悪魔の手でひきちぎられたように、あたりに四散して死んでしまうという、悲惨な最期をとげたのだ。
この死に方のせいで、ファウストは悪魔に魂を売りわたし、ついに地獄に落ちてしまったのだという噂が広まった。おかげで彼の著作や彼についての記録がいっさい湮滅させられてしまったことは、前に記したとおりである。
ファウストが生前に駆使していた魔術は、大ざっぱに言って次の三つだそうだ。
宇宙に存在する善の霊、悪の霊、死人の霊などを呼びだして、彼らと自由に交渉できる巫術。つぎに石や金属の中に隠されている秘密の力を手に入れ、永遠の生命や健康や富を獲得しようとする錬金術。そして占星術、水晶の凝視、手相術など、さまざまな方法で未来を予言し、不幸を事前に察知して、安全な生活を送るための予言術だ。
ファウストが聖職者たちに非難されたのは、第一の巫術の能力を得るため、悪魔に魂を売りわたしたとされたからである。
なぜそのような危険をおかしたのかと弟子たちに聞かれると、ファウストは、「自分は若いときから魔術に専念してきたが、その道でかなりの達人になったとき、学識豊富な悪魔のメフィストフェレスと接触するようになったのだ」と語ったという。
ある日、地獄から悪魔を呼びだそうとしたファウストは、町の外れにある人気のない十字路におもむいた。そこで彼は、路上に大きな環をおいて、その端に何か神秘的な文字を描き、さらにその環を中心に、土のうえに同心円状に環を描いた。
やがて夜になって月が出てくると、ファウストは中央の環のなかに入って、悪魔の名を熱心にとなえた。すると不思議なことに、火の玉が何処《どこ》からか、唸《うな》りながら彼に向かって飛んできた。彼がさらに呪文をとなえつづけると、ついに悪魔の霊があらわれて、環のまわりをめぐりだしたという。
悪魔はファウストにむかって、「五つの条件を守るなら、お前にこの世の一切の富と幸福を与えよう」と宣言した。条件とは、(1)神やすべての天使を拒否すること。(2)すべての人間、とくに悪行にふける彼を罰しようとするものに、敵対すること。(3)聖職者には決して服従することなく、逆に敵視すること。(4)教会に行ったり、説教を聞いたりしないこと。(5)結婚制度に従って、妻をめとったりしないこと。
ファウストがこれらの条件を守れば、二十四年のあいだ、サタンの家臣のメフィストフェレスを従者として、好き放題の生活を送ることができるが、その期限がくると、肉体も魂も、悪魔に引きわたさねばならないというのだ。ファウストはこの条件を受け入れ、悪魔との契約書に、自分の血で署名したという。
悪魔に魂を売りわたしたファウストは、メフィストフェレスのおかげで莫大な富を手に入れ、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の生活をおくるようになった。周囲の人々によると、ファウストはいつも酒に酔って真っ赤な顔をして、派手なリボンや鎖の垂れさがった短い胴着とゆったりしたズボンをはき、高価な宝石の指輪をいくつもはめていたという。
以前から大酒飲みだったファウストは、その後は毎夜のように弟子や仲間を招いて、豪華な酒宴をもよおした。メフィストフェレスはファウストから命令されると、それまで何もなかった食卓に、あっというまにおいしいワインや豪華な料理を山ほど運んできて、客たちを仰天させたという。
当時ファウストに招待された人々は、みなさまざまな不思議な体験をしている。たとえばある冬の日、ファウストは大勢の貴公子や貴婦人を宴会に招待したが、客たちが彼の屋敷に到着すると、外は大雪だったにもかかわらず、庭には雪がつもっているどころか、季節はずれの美しい花が咲き乱れていたのだ。
また、やはりある冬の日のこと。ファウスト宅を訪れた貴婦人が、秋の果物を食べてみたいと言いだした。するとファウストは、二つの銀の大皿を用意して、それを窓の外につきだした。やがてそれを引っ込めると、皿のうえにはブドウやナシなどの秋の果物が山ほど乗っていたという。
さらにある日、ファウストが自宅に学生たちを招いたときのこと。彼が呪文をとなえると、とつぜんオルガン、バイオリン、リュートなど、さまざまな楽器の演奏がはじまり、そのうち、呆然としている学生たちの目のまえで、グラスや皿が飛びはねたり、互いにぶつかりあったりしはじめたというのだ。
また、ある日ファウストが弟子たちを連れて、ライプチヒの見本市を訪れたことがある。そのときファウストは、たまたま同市を訪れていたカムペギウス枢機卿《すうきけい》の一行と出会った。彼は枢機卿一行の退屈をまぎらすために、魔術を見せてほしいと頼まれた。
そこでメフィストフェレスとファウストは、二人で狩の服装をして、沢山の猟犬を引き連れてあらわれた。ファウストが角笛を吹くと、不思議にも、空中高くにキツネとウサギが、一匹ずつあらわれた。
猟犬を引きつれたメフィストフェレスとファウストは、空中に舞いあがって、獲物を追いはじめた。ファウストが空中で角笛を吹きならすので、観客は大喜び。猟犬に追いかけられて、恐れおののいたキツネとウサギは、一気に高空に逃げのびたため、地上からは見えなくなってしまった。
そうするうちに、追われる動物も狩人も猟犬も低空に再び姿をあらわし、しばらくのあいだ追いつ追われつするうちに、とうとう姿を消してしまった。
カムペギウス枢機卿はこの大がかりな空中活劇に大喜びして、もしファウストがローマに来たら、予言者として厚くもてなそうと約束した。それにファウストは礼をのべたが、「自分は十分な財産を持っているし、さらに空中に、この世の最高の君主さえ隷属する国土を所有している」のだと答えたという。
さらにこんな話もある。ある夜、彼の弟子たちがファウストの家に遊びにやってきた。酒が入り、お喋《しやべ》りに興が乗ったころ、美しい女のことが話題になった。そのうち弟子たちが、ギリシア神話に登場する、トロイ戦争の原因となったといわれる美女ヘレンを見てみたいと言いだした。そもそもあの女が、トロイの町が滅びる原因になったのだから、さぞ美しい女だったに違いないというのである。
そこでファウストは、諸君がそんなに会ってみたいのなら、あの世から彼女を呼びだしてやろうと言いだした。
「ただし、約束して欲しいことがある。そのときはみな、その席で黙ってじっとしていること。決して椅子《いす》から立ちあがったり、現れたヘレンに手を触れたりしてはならない」
そう言い残して部屋を出ていったファウストは、やがて紫色のドレスをまとい、長い金髪をひざまでたらし、美しい漆黒の目と透きとおるような白い肌をした、まぎれもない美女ヘレンを連れてもどってきた。彼女があまりに美しいので、弟子たちは興奮してしまって口もきけないようだった。
この事件には後日談がある。ファウストはこの美女ヘレンがおおいに気に入って、ついには彼女と同棲してしまい、二人のあいだには、ユストゥス・ファウストという子供まで生まれたというのだ。
例の悲惨な爆発事件でファウストが死ぬと、すでに立派な青年に成長していたユストゥスは、ファウストの忠実な助手のヴァーグナーに、「父が亡くなったいま、私と母はここを去ることにした。父の遺産はすべて、父によく仕えてくれた君にゆずろう」と言い残して、母のヘレンとともに何処かに姿を消してしまったという。
以前から大酒飲みだったファウストは、その後は毎夜のように弟子や仲間を招いて、豪華な酒宴をもよおした。メフィストフェレスはファウストから命令されると、それまで何もなかった食卓に、あっというまにおいしいワインや豪華な料理を山ほど運んできて、客たちを仰天させたという。
当時ファウストに招待された人々は、みなさまざまな不思議な体験をしている。たとえばある冬の日、ファウストは大勢の貴公子や貴婦人を宴会に招待したが、客たちが彼の屋敷に到着すると、外は大雪だったにもかかわらず、庭には雪がつもっているどころか、季節はずれの美しい花が咲き乱れていたのだ。
また、やはりある冬の日のこと。ファウスト宅を訪れた貴婦人が、秋の果物を食べてみたいと言いだした。するとファウストは、二つの銀の大皿を用意して、それを窓の外につきだした。やがてそれを引っ込めると、皿のうえにはブドウやナシなどの秋の果物が山ほど乗っていたという。
さらにある日、ファウストが自宅に学生たちを招いたときのこと。彼が呪文をとなえると、とつぜんオルガン、バイオリン、リュートなど、さまざまな楽器の演奏がはじまり、そのうち、呆然としている学生たちの目のまえで、グラスや皿が飛びはねたり、互いにぶつかりあったりしはじめたというのだ。
また、ある日ファウストが弟子たちを連れて、ライプチヒの見本市を訪れたことがある。そのときファウストは、たまたま同市を訪れていたカムペギウス枢機卿《すうきけい》の一行と出会った。彼は枢機卿一行の退屈をまぎらすために、魔術を見せてほしいと頼まれた。
そこでメフィストフェレスとファウストは、二人で狩の服装をして、沢山の猟犬を引き連れてあらわれた。ファウストが角笛を吹くと、不思議にも、空中高くにキツネとウサギが、一匹ずつあらわれた。
猟犬を引きつれたメフィストフェレスとファウストは、空中に舞いあがって、獲物を追いはじめた。ファウストが空中で角笛を吹きならすので、観客は大喜び。猟犬に追いかけられて、恐れおののいたキツネとウサギは、一気に高空に逃げのびたため、地上からは見えなくなってしまった。
そうするうちに、追われる動物も狩人も猟犬も低空に再び姿をあらわし、しばらくのあいだ追いつ追われつするうちに、とうとう姿を消してしまった。
カムペギウス枢機卿はこの大がかりな空中活劇に大喜びして、もしファウストがローマに来たら、予言者として厚くもてなそうと約束した。それにファウストは礼をのべたが、「自分は十分な財産を持っているし、さらに空中に、この世の最高の君主さえ隷属する国土を所有している」のだと答えたという。
さらにこんな話もある。ある夜、彼の弟子たちがファウストの家に遊びにやってきた。酒が入り、お喋《しやべ》りに興が乗ったころ、美しい女のことが話題になった。そのうち弟子たちが、ギリシア神話に登場する、トロイ戦争の原因となったといわれる美女ヘレンを見てみたいと言いだした。そもそもあの女が、トロイの町が滅びる原因になったのだから、さぞ美しい女だったに違いないというのである。
そこでファウストは、諸君がそんなに会ってみたいのなら、あの世から彼女を呼びだしてやろうと言いだした。
「ただし、約束して欲しいことがある。そのときはみな、その席で黙ってじっとしていること。決して椅子《いす》から立ちあがったり、現れたヘレンに手を触れたりしてはならない」
そう言い残して部屋を出ていったファウストは、やがて紫色のドレスをまとい、長い金髪をひざまでたらし、美しい漆黒の目と透きとおるような白い肌をした、まぎれもない美女ヘレンを連れてもどってきた。彼女があまりに美しいので、弟子たちは興奮してしまって口もきけないようだった。
この事件には後日談がある。ファウストはこの美女ヘレンがおおいに気に入って、ついには彼女と同棲してしまい、二人のあいだには、ユストゥス・ファウストという子供まで生まれたというのだ。
例の悲惨な爆発事件でファウストが死ぬと、すでに立派な青年に成長していたユストゥスは、ファウストの忠実な助手のヴァーグナーに、「父が亡くなったいま、私と母はここを去ることにした。父の遺産はすべて、父によく仕えてくれた君にゆずろう」と言い残して、母のヘレンとともに何処かに姿を消してしまったという。