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黒魔術白魔術16

时间: 2020-07-21    进入日语论坛
核心提示:錬金術師サン・ジェルマン伯爵一六一八世紀ヨーロッパには、名高い錬金術師が何人もあらわれるが、なかでも有名なのがサン・ジェ
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錬金術師サン・ジェルマン伯爵

一六—一八世紀ヨーロッパには、名高い錬金術師が何人もあらわれるが、なかでも有名なのがサン・ジェルマン伯であろう。彼は世界史上もっとも謎《なぞ》に満ちた人物といわれ、現代でさえ彼が生きていると信じる者がいるほどだ。
一七五〇年ごろ、退屈していたルイ一五世に、在オーストリア大使のベイアイル元帥がこんな話を持ち出した。サン・ジェルマン伯と名乗る不思議な人物がフランスにきているので、一度招いてみたらどうかというのである。
「なんだね、そのサン・ジェルマン伯とやらは?」
疑わしそうに問い返すルイ一五世に、ベイアイル元帥は、
「本当のところ、何者なのか、この私にも分かりません。ただ恐ろしく博学な男で、化学や錬金術に関する知識は他にならぶ者がなく、黄金や不老長寿の薬まで造っており,そのうえとほうもない大金持ちでもあるそうです」
とにかくものは試しということで、ベイアイル元帥はそのサン・ジェルマン伯を、ルイ一五世の面前に連れてきた。年のころ四十歳ぐらい。小柄な体を白サテンのネクタイと黒ビロードの服につつんでいる。洗練された物腰でなかなかの美男子だが、とくに普通と変わっているようにも見えなかった。
ところがつぎの瞬間、サン・ジェルマン伯は突然ポケットからひとつかみの見事なダイヤモンドをとりだし、テーブルのうえに無造作にばらまいて、こう言ったのである。
「どうぞ、おおさめ下さい。陛下への贈り物でございます」
「これは……」と、ルイ一五世は目をみはった。
「いったいどこで、こんな素晴らしいものを……?」
「私が造ったものです」
サン・ジェルマン伯の名は、あっというまにパリ社交界に知れわたり、どこのサロンでも彼の話題でもちきりになった。彼がさる身分高い王族の落とし子だと利《き》いたふうに言う者もあり、ルイ一五世がシャンボール城の一室を実験室として貸し与えたことから、彼がルイ一五世の政治の秘密工作に従事しているのだという者もいた。
サン・ジェルマン伯はいろんな突拍子もない話をしては、パリ社交界の人々をけむに巻いた。たとえば自分はいまから二百年ほど前、スペイン国王フェルディナンド五世の大臣をしたことがあるのだと言いはり、聞き手が本当にしないでいると、当時の極秘文書をふところから取り出して見せたという。
それどころか、彼の体験談はなんと聖書の時代までさかのぼる始末だった。キリストやシバの女王と親しくしていたとか、アレクサンダー大王がバビロンの都に入城するとき自分もそこにいたとか、あるときキリストが彼の眼前でただの水を酒に変えてしまった。これがのちにいう「カナの婚礼の奇跡」なのだとか言うのである。
ところがある日、ヴェルサイユ宮殿でサン・ジェルマン伯に会ったジェルジ伯爵夫人が、しばらく彼の顔をまじまじと見ていたあと、奇妙なことを言いだした。
「あなたはわたしが四十年前にヴェニスでお会いした方とそっくり。でもあのとき、あなたはたしか四十五歳ぐらいだった。それから全く年をとっていらっしゃらないのも変だし……。きっと人違いでしょうね?」
するとサン・ジェルマン伯は、すました顔でこう答えた。
「いいえ、マダム。たしかに私は、あなたが四十年前にヴェニスで会われたのと同じ人間ですよ。あのときあなたのご主人は、たしかイタリア大使でいらっしゃいましたね?」
もしジェルジ伯爵夫人の話が本当なら、サン・ジェルマン伯は現在、九十歳以上にはなっているはずだ。ところが見た目には、せいぜい四十歳ぐらいにしかみえないのだ。ここまで来て、人々ははっと思いあたった。
そういえば、まだサン・ジェルマン伯が食事をしているところを、誰も見たことがないのだ。晩餐《ばんさん》会に招いてもことわるし、たとえ出席しても、いっさい物を食べないし、酒も飲まない。断食中の行者のように肉食を避けているのだろうとも思われたが、それにしても、それだけのことで老化をふせげるはずもない。
そこで人々は、サン・ジェルマン伯が不老不死の霊薬を持っているのではないかと噂《うわさ》した。当時、若返りや不老不死は、貴族たちの一番の関心事で、とくにその美貌で国王に取り入ろうと競っている宮廷の貴婦人たちにとっては、垂涎《すいぜん》のまとだったのだ。
当時初めてサン・ジェルマン伯に会った、有名な色事師のカサノヴァは、こう述べている。
「彼はひどく博学で、いろんな国の言葉が話せた。大音楽家で、化学者でもあり、それに美容効果てきめんの不思議な化粧水をおしげもなくばらまくので、女たちの人気者でもあった。
彼は人の度肝をぬくようなことを、平気で口にした。溶かした一個のダイヤモンドから、もっと良質のダイヤモンドを一ダースも作ることができるとか、エリクシールという特別な養命水を飲んでいるので、自分は決してふけることがなく、じつはもう何千年も昔から生きているのだなどと……」
哲学者ヴォルテールは、「サン・ジェルマン伯という男は、あらゆることを知っている」と感嘆している。世紀の文人にこうまで言わしめた彼は、いったい何者だったのだろう。ただの山師だったのか、あるいは頭がおかしかっただけなのだろうか?
だが、ただの山師なら、カサノヴァやヴォルテールなどの、超一流の人物があんなに感心するはずもないし、ルイ一五世が秘密使命を与えるはずもない。それにただの山師にしては、彼の知識はあまりに深遠で、能力はあまりに多方面にわたっていた。
クラブサンとピアノは、大作曲家のラモーが舌をまくほどの腕前だったし、絵のほうも一流はだしで、画家のラトゥールが彼の独特な絵の具の製法を教えてほしいとせがんだが、とうとう教えてもらえなかったという。
あるときサン・ジェルマン伯は、ルイ一五世から傷のあるダイヤをあずかって帰っていった。ところが一カ月後にそのダイヤを持ってもどってきたときには、傷はあとかたもなく消えていた。宝石商はこのダイヤを、一万フランと値踏みしたという。
人々は、サン・ジェルマン伯が卑金属を貴金属に変えるための、いわゆる「賢者の石」を持っているのだと噂した。当時そんな石が本当にあると信じられ、錬金術師たちはそれを血まなこになって探していたのだ。
ルイ一五世が彼をシャンボール城の豪華な部屋に住まわせて、実験に専念させたのも、彼の技術を利用して莫大な収入をあげ、当時火の車だったフランス王家の国庫をうるおわせようという心づもりだったようなのだ。
のちにルイ一五世は、サン・ジェルマン伯に自分の私室に出入りする特権さえ与えた。身元も分からない外国人に対しては、まさに破格の待遇である。このことから、彼は薔薇《ばら》十字団の団員で、外交上の秘密使命をおびて、どこかの国から密使としてフランスに送りこまれたのではという噂が流れた。薔薇十字団は、全ヨーロッパを統一して一種の世界連邦を設立するという目的のもとで、当時ひそかに各国宮廷に密使を派遣していたのだ。
しかしサン・ジェルマン伯がパリ社交界を風靡《ふうび》してしまうと、一方でこれをこころよく思わない人々も出てきた。特に外務大臣ショワズールの一派は、国王が自分たちを差し置いて、国政のことまでサン・ジェルマン伯に相談するのを見て、面白くなかった。
そうこうするうちに、アメリカの植民地をめぐってイギリスとのあいだに戦争が起こり、ルイ一五世はサン・ジェルマン伯を外交使節として、イギリスとの和平交渉にあたらせることにした。
ショワズール一派はここぞとばかり、彼の足をひっぱって邪魔しようとした。おかげで外交は失敗におわり、サン・ジェルマン伯は国外追放の身になってイギリスに逃げだした。しかし実際には、ルイ一五世の密命をおびての渡英だったともいわれる。
その後の彼の足どりははっきりしないが、どうもロシアのサンクトペテルブルクに渡ったらしい。アレクセイ・オルロフ伯爵の知遇を得たサン・ジェルマン伯は、皇帝ピョートルを倒して皇后エカテリーナを帝位につけようとする一七六二年のクーデターに参加した。このときはヴェルダン将軍と名乗り、オルロフ伯爵の片腕として活躍していたという。
一七七四年には新しくフランス国王になったルイ一六世とマリー・アントワネットに会うため、彼はふたたびパリにもどってきた。が、留守のあいだにすっかり情勢は変わっていた。ルイ一六世は錠前《じようまえ》作りに熱中する凡庸な国王で、アントワネットは贅沢《ぜいたく》にうつつを抜かす軽薄な王妃で、どちらもサン・ジェルマン伯にはまったく関心を示さなかった。
そこでサン・ジェルマン伯は、「くれぐれも国政に注意なさらないと、やがて恐ろしいことが起こりますよ」と国王夫妻に警告して、フランスを去っていったという。
その後ルイ一六世は財政改革に失敗し、一七八九年には新しく組織された国民議会を弾圧して、国民の怒りをつのらせた。それに追い打ちをかけるように、贅沢三昧して、国庫を浪費する王妃に民衆の憎しみがあつまる。
そして有名な「首飾り事件」で王妃の人気は地に落ち、一七八九年、ついにフランス革命が起こって、国王も王妃も処刑台の露と消える。その運命をサン・ジェルマン伯は知っていたのだろうか?
サン・ジェルマン伯自身は、一七七七年にドイツのヘッセン・カッセルにあらわれ、カッセル伯チャールズの庇護《ひご》を得た。彼はこのときはトランシルヴァニアのラコッツィ侯爵を名乗っていたという。
彼にすっかり心酔したカッセル伯は、彼のためシュレスヴィッヒ・ホルシュタインのエッケルンフェンデに、錬金術のための研究所を建ててやった。ここでサン・ジェルマン伯は世間から遠ざかって錬金術の研究にはげんでいたが、一七八四年二月に世を去ってしまった。死因はリューマチと鬱病《うつびよう》だったという。カッセル伯は、「かつてこの世にあらわれたもっとも偉大な聖者の一人」と彼を讚えて、その死をおしんでいる。
ところが一七八九年のフランス革命の少しまえに、王妃マリー・アントワネットは、差出人がサン・ジェルマン伯となっている一通の手紙を受け取っている。このとき、とっくに彼は死んでいたはずなのに……。
その手紙には「最後の警告です。民衆の要求をいれ、貴族たちをしずめ、ルイ一六世が退位して去らねばなりません」と書かれていたという。けれど王妃は革命派の誰かの陰謀だろうと思って、そのまま破り捨てたという。
しかしその後も、サン・ジェルマン伯を見かけたという証言はふえつづける。国王夫妻が革命派に捕らえられていたころ、侍女の一人がサン・ジェルマン伯の使いだという男に郊外の名もない教会に連れていかれると、そこになんと、サン・ジェルマン伯自身が立っていたのだ!
「私は不死身で永遠に時間のなかをさまよっているのです。国王夫妻はとうとう、私の警告を聞こうとしなかった。もうお二人はおしまいだが、それは私には関係ないことです」
と言って、彼は忽然《こつぜん》とまた姿を消してしまったという。
他にも彼が死んだとされる一七八四年の翌年、彼がフリーメーソンの会合に出席したとか、はてはナポレオンが彼に忠告を受けたとか、あるいは第二次大戦でイギリスのチャーチル首相が彼に会って助言を受けたとかという話まである。
一八—二〇世紀にかけて、さまざまな人物の前に出没するこの人物は、いったい何者だったのだろうか? それについては、いろんな説がある。彼が死んだとされる一七八四年以降に現れてくるのは、サン・ジェルマン伯の名をかたる偽物だったのだとか、彼が薔薇十字団かフリーメーソンのメンバーで、その秘密結社から、時をこえて生きつづける秘伝を伝授されているのだとか。……
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